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2008年 09月 28日

絵葉書で見る山梨 2

【(甲府名所)錦町郵便局附近】 
絵葉書で見る山梨 2_f0191673_22241731.jpg 錦町通りの錦町交差点を南側から北側に向けての風景です。
 通りの正面は、昭和5年3月落成の山梨県庁舎です。
 左側奥の建物が昭和6年に落成した甲府郵便局庁舎です。昭和20年7月6日の甲府空襲による焼失を逃れ、昭和49年に甲府市太田町に新築移転するまで郵便局として使用されていました。移転後は、甲府市役所の南庁舎として現在も使われています。
 絵葉書では、交差点に向けて庁舎への正面入口がありますが、新築移転前に、当該庁舎の隣接地に建物を増築した際に、正面入口を閉鎖するなどの改良が図られています。
 通りを走る路面電車は、峡西電気鉄道です。錦町交差点の近くには「警察署前」の電停がありました。(ちなみに、左側手前の建物が甲府警察署です。)峡西電気鉄道は運輸事業の統合による関係バス会社との合併により、昭和20年5月に山梨交通となり、路面電車は山梨交通電車線として、地元では「ボロ電」の名で親しまれていましたが、昭和37年6月30日に廃止されました。


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# by kaz794889 | 2008-09-28 22:53 | 絵葉書で見る山梨 | Comments(4)
2008年 09月 28日

牛乳

 横浜でオランダ人スネルに雇われて乳牛の飼育と搾乳を行っていた前田留吉が、慶応2年に独立して6頭の乳牛を買い、牛乳の販売を始めたことが牛乳店の始まりのようです。
 初期の牛乳は、ブリキ缶の輸送缶で5勺ずつ量り売りを行っていたようですが、明治10年頃から小ぶりのブリキ缶に入れて配達されていました。明治21年頃にガラスの牛乳瓶が使用され始め、明治38年頃には殆んどガラス瓶に代わっていったようです。

 山梨県における牛乳販売の嚆矢については確認していませんが、明治の頃から県内各地に牛乳を搾乳して販売する事業者がいました。主な事業者を見てみると…
 ○ 精乳舎(甲府市愛宕町162番地)   
   明治18年8月に甲府桜町で牛乳の搾乳を始めましたが、牛舎狭隘の
  ため、明治19年4月に甲府花園町の農産社の土地を購入し移転しまし
  た。その後、中央本線の甲府停車場開設に伴い、花園町から明治34年
  4月に愛宕町に移転したようです。
 ○ 回春舎(西山梨郡住吉村下小河原)   
   明治39年10月から始めたようです。
 ○ 永生舎(西八代郡市川大門町)   
   明治28年から始めたようです。
 ○ 洋乳館(甲府市伊勢町2483番地)
    大正7年4月から始め、昭和2年1月には甲府市春日町にミルクプラン
   トを建設したようです。
 ○ 牧牛舎(甲府市東青沼50番地)  
 ○ 保壽舎(甲府市伊勢町2495番地)
   
    明治19年に荒川の千秋橋南方で牛乳の搾乳を始め、明治33年に伊
  勢町に移転したようです。

【牛乳の販売領収書です。】

-明治23年・保壽舎-
牛乳_f0191673_15504066.jpg


-大正8年・保壽舎-
牛乳_f0191673_15511248.jpg


# by kaz794889 | 2008-09-28 16:03 | 史料 | Comments(2)
2008年 09月 27日

絵葉書で見る山梨 1

絵葉書で見る山梨 1_f0191673_2141774.jpg

【(甲府名所)常盤町通り】
 常盤町通りを東から西に向かって写しています。
 右側の洋館は大正13年3月1日に落成した第十銀行本店。その奥に建物の一部(2階塔屋)が写っているのは、明治33年3月に落成した日本勧業銀行甲府支店。左側の洋館は、野々垣写真館です。
 通りの中央に、昭和2年5月に廃止となった山梨馬車鉄道の軌道があることから、この絵葉書の風景は大正後期頃と思われます。

# by kaz794889 | 2008-09-27 22:09 | 絵葉書で見る山梨 | Comments(3)
2008年 09月 27日

御嶽昇仙峡

御嶽昇仙峡_f0191673_19185123.jpg 
 昇仙峡は山梨県の代表的な景勝地です。
昭和2年4月、東京日日新聞社、大阪毎日新聞社の共催による「日本新八景」の選定が催され、昇仙峡は全国からの投票により、299万2,930票の得票を得たものの、文人、画家、学者等の審査により「日本新八景」には洩れましたが、「日本二十五景勝」のひとつになりました。
また、昭和25年に毎日新聞社が主催した日本観光地百選の投票では渓谷の部において第一位となり、同26年10月15日に覚円峰と長潭橋を描いた2種類の記念切手も発行されています。
 
 近世の漢詩文や紀行文、明治期前半の旅行案内には、昇仙峡という名称が用いられず、御嶽新道という言葉が使われています。
 昇仙峡という名称が、いつ頃から使われるようになったのか、太宰治の岳父である理学者の石原初太郎の著書『甲斐の名勝 御嶽昇仙峡と其奥』(昭和5年8月発行)の中で「昇仙峡といふ名称は明治20年以降の命名で、何人が名づけ親であるか不明である。しかも今日では押しも押されもせぬ通り名となったのである。」とあります。現在、手許にある明治時代の山梨県に関する旅行案内を見る限り、明治20年代、30年代に発行されたものは「御嶽新道」と記してありますが、二木信山著『富嶽案内 附 甲州御嶽名勝記』(明治42年8月発行)や田山花袋編『新撰名勝地誌 東海道西部』(明治43年4月発行)では昇仙峡という名称が使われています。
御嶽昇仙峡_f0191673_19514614.jpg
御嶽昇仙峡_f0191673_1952919.jpg
 昇仙峡という、名称がいつ頃から、どのような経緯で使われるようになったのか、調べていきたいと考えています。

# by kaz794889 | 2008-09-27 10:40 | 御嶽昇仙峡 | Comments(1)