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2008年 12月 23日

若尾公園と銅像

 いわゆる甲州財閥の巨頭である若尾逸平については、既に広く知られているところです。
 文政3年12月6日に山梨県巨摩郡在家塚村(旧白根町)に生まれ、大正2年9月7日に没するまでの93年間の生涯でした。

━奮闘の勝利者 若尾逸平翁の銅像(甲府市愛宕山に在り)━
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 明治40年、若尾逸平の米寿を記念し東京電燈社長 佐竹作太郎をはじめとした人々により、甲府市愛宕山中腹の若尾家の土地に、河村嘉祥の作により、漆原新七が鋳造した若尾逸平の銅像が建設されました。
 銅像の台座には、重野安繹の撰文が日下部鳴鶴の筆により刻まれていたようです。

━(甲府名所)若尾公園より見たる甲府市全景━
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 大正10年、若尾逸平像が建てられた長禅寺裏山から甲府市水道配水場にかけて、若尾家により若尾公園が建設されました。
 桜の名所として市民に知られていましたが、戦後、廃園となりました。
 廃園後の旧若尾公園跡地は、甲府空襲による校舎焼失により、終戦後建設された復旧木造建築校舎の近代化構想の一環として、山梨英和学院が昭和30年12月に買収し、昭和37年の夏にプール、体育館が完成し、その後39年11月には英和短期大学の建設が開始されるなどしたため、公園の痕跡は現在全く残っていないようです。

━佐竹作太郎翁銅像━
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 佐竹作太郎は京都に生まれ、幕末期に勤王の士であった藤村紫朗と巡り会い、藤村が山梨県権令として赴任した明治6年に随伴して甲府に来住し、明治15年から大正4年に没するまでの33年間、第十銀行の第二代頭取を歴任したほか、東京電燈社長や衆議院議員を務め、大正13年5月には、若尾公園内に「佐竹作太郎君像」と台座に刻まれた銅像が建設されました。

【若尾、佐竹像のその後】 
 若尾公園内に建設された、若尾、佐竹の銅像は、昭和18年3月10日、金属供出により献納されています。
 なお、山梨市の万力公園内にあった、根津嘉一郎の銅像(現在の銅像は、戦後に再建された二代目の銅像です。)も、この日に献納されています。


━若尾逸平の墓所━
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 甲府市長禅寺の若尾家の広大な墓所です。若尾公園にあった若尾逸平像は、この墓所を背後から見守る形で建てられていました。
 幕末維新期に生糸貿易を主軸とした蓄財にはじまり、二代目若尾民造、三代目若尾謹之助によって受け継がれ、昭和2年の金融恐慌による破綻により実業界から退いた、かっての若尾家の栄華が残るこの墓所は、当時の名残を伝える数少ない場所のひとつです。



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by kaz794889 | 2008-12-23 15:38 | 甲府細見 | Comments(3)
Commented at 2018-11-13 18:39 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2018-11-14 22:31
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by ns0096 at 2019-01-03 12:24
初めて峡陽文庫を見ました甲府生まれで現在埼玉県上尾市に
住んでいます。先日舞鶴城公園に行きました、行くたびに
改修復元されていく城にワクワクします。城内に有った石碑が
どこかに集めれているようですがこんどは見に行きたいです。以上


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