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2014年 11月 03日

若尾公園の痕跡

【昭和20年代後期の若尾公園付近の地図】
若尾公園の痕跡_f0191673_15540072.jpg 昭和20年代後期の若尾公園付近の地図である。
 
 長禅寺北側と浄水池(現在の甲府市水道局上水道配水場)の間に位置する若尾公園は、若尾逸平の銅像が建立されていた若尾家所有の尚寿園を基盤に、大正10年12月に同家が開園した公園である。
  















【昭和初期の若尾公園】
若尾公園の痕跡_f0191673_15540427.jpg 写真の右側奥が若尾公園の入口である。
 また、写真に写る銅像は、明治42年に建立され昭和18年3月に金属の供出により献納された若尾逸平の銅像である。
 
     

















【現在の若尾公園跡附近の地図】
若尾公園の痕跡_f0191673_15540701.jpg 若尾公園西側に位置している山梨英和学院は、明治39年に地図の山梨英和中の位置に新校舎を建設し移転してきたが、昭和20年7月の甲府空襲で焼失し、終戦後同位置に復興校舎を建設している。
 その後、昭和30年に近代校舎の建設が始まると、同年12月に隣地の若尾公園の敷地を買収し、昭和36年7月にはその敷地にプールや体育館の建設が計画され、昭和37年8月にプールが、昭和38年3月には体育館が完成している。(左の地図の山梨英和高体育館)




















【尚寿園の石柱】
若尾公園の痕跡_f0191673_15542438.jpg 若尾公園跡の敷地は前述のとおり、現在は山梨英和高校の敷地となっている。
 
 公園内にあった若尾逸平の銅像の台座は、昭和18年3月の金属供出後も敷地が買収されるまでそのまま残されていたが、愛宕山中腹の限られた敷地の中にびっしりと英和高校の校舎が建設され敷地内も整備されている。
 こうした状況の中、若尾公園時代の痕跡が何かしら残されていないのかと考えながら、今年の夏に附近を歩いたところ、「尚寿園」と刻まれた写真の石柱の存在を確認した。
 尚寿園は、若尾逸平の銅像完成後、若尾公園の開園までの同地の名称である。










【若尾公園の入口跡】
若尾公園の痕跡_f0191673_15541633.jpg

























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by kaz794889 | 2014-11-03 17:21 | Comments(0)


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