2010年 03月 07日
[峡中新聞から甲府新聞への改題] 明治5年に創刊された峡中新聞は明治6年3月発行の第8号を以って改題し、同年4月発行の第9号から甲府新聞として発行されることとなった。 甲府新聞への改題については、編集、経営ともに、その全てが発行人である内藤伝右衛門の手に移ったことがその理由の一つとして考えられるところである。 なお、甲府新聞と改題されたものの、峡中新聞創刊以来の発行号数を通算号数とし、その後、更に改題される「甲府日日新聞」、「山梨日日新聞」と継承し、本日(平成22年3月7日)現在の通巻発行号数(第46539号)に至っている。 [甲府新聞の体裁] 甲府新聞第9号(改題後の第1号)から第23号までは、峡中新聞と同様に、その体裁は半紙二つ折り5、6枚の冊子形式である。 また、第24号(明治6年8月:紙面に発行日付が入るのは第26号からである。)からは紙幅を美濃判型に広げ、1頁3段、1段13字×19行の四頁となり、第82号(明治8年3月12日)からは、これまでの和紙から洋紙となり紙幅もB4判(タブロイド版)、15字×20行×3段×4頁となり、その後も題号の横組みなど紙面の体裁が整備されながら、明治9年1月12日の第333号まで甲府新聞として発行されている。 【甲府新聞 第9号】 甲府新聞と改題後の第1号に当たる、「甲府新聞第9号」 【甲府新聞 第10号(左)及び同第11号(右)】 【甲府新聞 第12号(左)及び同第13号(右)】 【甲府新聞 第14号(左)及び同第15号(右)】 【甲府新聞第15号:最終面の広告】 峡中新聞の創刊以来、一般の営業広告としては最初の新聞広告である、甲府新聞第15号に掲載された、甲府柳町三丁目、枡田屋平兵衛の新聞広告。 【甲府新聞 第16号(左)及び同第17号(右)】 【甲府新聞 第18号(左)及び同第19号(右)】 【甲府新聞第19号:最終面の広告(社告)】 甲府新聞への改題後、明治6年6月発行の第14号から、これまでの月に2回の発行から、週刊による発行となり、この頃から紙面における句読点の間違えが増加するなど、木版工による彫工の質が劣え、量も乏しくなり、その反面においては、新聞発行の迅速化と発行回数の増加が必要となってきたことなどから、これまでの木版による印刷から活字印刷に改めるとともに、発行回数も月8回の発行となった。 こうした状況について、次号からの改善等を行う旨を伝える第19号に掲載された社告である。(木版による発行はこの第19号が最後である。) 【甲府新聞 第20号(左)及び同第21号(右)】 【甲府新聞 第22号(左)及び同第23号(右)】 ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。
by kaz794889
| 2010-03-07 21:43
| 新聞
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