峡陽文庫

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2010年 02月 21日

峡中新聞


【甲府八日町 峡中会社址】
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【「新聞発祥之地」石碑】
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 山梨県において最初に発行された新聞である「峡中新聞(こうちゅうしんぶん)」は、発行人である内藤伝右衛門が峡中会社を設立し、明治5年7月にその第一号が発行された。
 峡中会社が置かれていた、甲府八日町16番地(現在:甲府市中央4-2-24、NTT甲府支店前の通りを挟んだ正面)には、発行を継承した山梨日日新聞社により、創刊百年記念の一環として昭和47年6月25日に除幕式が行われた、『新聞発祥之地』記念碑が建てられている。
 峡中新聞の発行は、当時の山梨県令であった土肥実匡が明治政府の意を受け、山梨県庁学務課職員に県内の戸長役場からの通信を集めて編集し、峡中会社を発行者としていた。
 また、当時は木版印刷によっていたが、甲府に木版の彫工がおらず、内藤伝右衛門は自ら東京に出向き、四谷多賀町の版木師を呼び寄せるなどし、定価3銭、小倉半紙二つ折り八枚つづりの冊子形式による新聞発行に至っている。
 峡中新聞は明治5年7月から明治6年4月の間、第一号から第八号まで発行されていたが、明治6年1月に着任した藤村紫朗県令から内藤伝右衛門に峡中新聞の編集権が移譲されると、同年4月発行の第九号から新たに誌名を『甲府新聞』と改名している。



【峡中新聞 第一号】
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【峡中新聞 第二号(左)及び同第二号附録(右)】峡中新聞_f0191673_1651108.jpg


 本紙とともに第二号からは附録がつくようになっている。
 その内容は「免許を受けた陸運会社が9月1日に開業するため、無免許者による商売はいけない。」旨の布達である、この後も第三号、第四号、第六号及び第七号には各本紙とともに附録がついているが、これらの附録は本紙以上に増刷(当時の本紙発行部数は概ね500~600部であったが、附録は数千部印刷されたこともあったようである。)され、附録の内容がそのまま和本としても発行されている。

【峡中新聞 第三号(左)及び同第三号附録(右)】
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 明治5年10月発行の第三号附録である「四郡区別村名表」の発行主旨について、「甲斐国改正の区別村名等詳細に取調、仮名を施し公私の便用に備える為に今般発行したものである。」と第五号に記されており、附録の内容は現行化され『甲斐四郡村名区別表』と題した和本により、明治7年に内藤伝右衛門により発行されている。

【峡中新聞 第四号(左)及び同第四号附録(右)】
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 明治5年8月に発生した大小切騒動に関する記事が全面的に解禁になったことから、第四号の附録はこれまでの経緯について詳しく伝えている。

【峡中新聞 第五号】
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 明治5年11月発行の第五号表紙にある「大小切一件落着」という朱刷りについて、『山梨日日新聞百年史』
には「これが実に本紙の色刷りの初めてである点も意義ぶかい。」と記されている。



【峡中新聞 第六号(左)及び同第六号附録(右)】
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【峡中新聞 第七号(左)及び同第七号附録(右)】
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【峡中新聞 第八号】
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 峡中新聞の紙名としては最後の号となった、明治6年3月発行の第八号である。
 第九号からは「甲府新聞」と紙名を改め、「甲府日日新聞」とビ再改名した明治9年1月13日まで発行されていた。

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by kaz794889 | 2010-02-21 20:49 | 新聞 | Comments(0)


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