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2009年 05月 24日
弘化2年(1845年)3月1日、熊本藩士 黒瀬市左衛門の次男として肥後熊本城下に生まれ、明治6年1月から同20年3月8日までの14年間、山梨県権令・県令・知事を努めた藤村紫朗は、急性肺炎のため郷里熊本の自邸で明治42年1月5日に亡くなっている。以来一世紀が経過し、本年は藤村紫朗の没後100年の年である。 明治6年、土肥実匡の後任として山梨県権令に着任し、愛媛県知事として転任する明治20年までの14年間、官選知事として長期に亘って県政を担当した藤村は、明治前期における殖産興業、文明開化に関する施策における功績や、その施策の遂行過程における干渉主義的で強引な策に対する周囲の批判など、山梨県の近代史上における大きな存在となっている。 また、在任中における行政施策遂行のために建築を奨励した疑洋風建築は、山梨県内においては「藤村式建築」と通称されるなど、着任以来130年以上が経過した現在も藤村の名が山梨県内に残されているのである。 【藤村記念館 全景】 ![]() 旧睦沢学校校舎が武田神社境内に移築された際、昭和41年8月に「旧睦沢小学校舎保存委員会」が藤村記念館復元記念に発行した絵葉書である。 絵葉書のタトウには、「復元の記」として次のとおり記されている。 この建造物は明治八年中巨摩郡睦沢村に建設された小学校校舎で、当時県令藤村紫朗が奨励した数百にのぼる洋風建築群のなごりを伝える本県文明開化時代の貴重な記念物である。昭和三十六年、廃棄寸前に本委員会が譲り受け県内各地の強力を仰ぎ、この地に総合郷土博物館として再現を企て、昭和四十一年八月復元工事達成を機会にいつさいを甲府市に寄贈しこれが素志の実現を託したのである。 なお、この建造物は昭和四十一年八月十五日、復元落成式の席上、これを「藤村記念館」と命名し同時に甲府市長に対する寄贈手続きのいっさいを完了した。」 この建物は、明治8年に竣工以来、昭和32年4月まで睦沢小学校校舎として、その後昭和36年まで睦沢公民館として使用されていた。また、武田神社境内への移築後、昭和42年6月15日には旧睦沢学校校舎として国の重要文化財に指定されている。 【(藤村記念館)平面図と新築当初の各部屋名称】 ![]() 上図が1階、平面図の上部が教室、下部の右側が職員室、左側が用務員室である。 下図が2階、平面図の三室とも教室である。 【武田神社境内旧位置の移築作業現場】 ![]() 建物全体が作業シートに覆われ、移築解体作業が行われていた。 【甲府駅北口の移築作業現場】 ![]() 建物の老朽化や武田氏館跡の整備計画などから、藤村記念館は甲府駅北口への移築が決まり、平成21年度内の竣工予定で、現在工事が進められている。
by kaz794889
| 2009-05-24 12:05
| 藤村紫朗
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