2009年 01月 10日
まちに出ると、思わぬ場所に興味ある歴史の遺物が残っています。そうした遺物のひとつに石碑があります。 地域の石造物を市町村などが調査し、そうした成果を『○○○の石造物』として刊行するケースも少なくありません。こうした場合、地域の殆んどの石碑は調査対象として紹介されていますが、知られていない石碑も街には少なくありません。こうした石碑を折に触れて紹介していきます。 【記念碑】 「記念碑 為報恩謝徳 大蔵省払下地寄附」写真では見にくいですが、石碑の正面にはこのように刻まれています。 この石碑については、相当以前から気になっていました。 写真のとおり、現在は表通りである新平和通りに背を向けた形になっていますが、周辺の道路が整備される以前は、荒川土手と表通りに面した住宅の間の狭い道路に、三方を住宅に囲まれてひっそりと建っていたことから、その状況と石碑の正面に刻まれた「大蔵省払下地寄附」の文字との相関性がとても疑問でした。 石碑を確認したところ、石碑の裏面には次の文字が刻まれていました。 「昭和8年6月6日 三吉町一番地之内一 土地281坪 碑石及工事費共 自 鈴木音兵衛氏 光沢寺」 石碑に刻まれた文字の内容を解析するまでもありませんが「昭和8年に大蔵省から払下を受けた、この石碑附近の甲府市三吉町一番地の土地281坪と、この石碑と工費を鈴木氏が光沢寺に寄附した」ことの記念碑ということでしょうか。 石碑に氏名が刻まれている鈴木音兵衛は、文久3年9月17日に生まれ、明治32年に政太郎から先代の音兵衛を襲名した、資産家としても知られた松林軒の経営者です。また、光沢寺は甲府市相生3-5-8にある東本願寺の甲府別院です。 【記念碑附近の甲府市街図】 鈴木氏が寄附した三吉町一番地(石碑が建つ現在の甲府市相生3-6-22附近)は、どうして大蔵省が所管する地域だったのでしょうか。 (あくまで想定の域ですが。) この場所は荒川土手のすぐ下に位置し、三ツ水門がすぐ近くにあります。三ツ水門は、荒川の水門ですが、大正2年に甲府市に近代水道が敷設されるまでは、この水門からの用水を三吉町、緑町、太田町方面で飲料水とし、他の流れは田畑の用水として利用されていました。 左の甲府市街図(明治42年3月15日:山梨図書出版協会発行)のとおり、赤い丸印が石碑の建つ附近であり、荒川から用水が分かれる地点が三ツ水門です。こうしたいくつかの用水がこの地域に見られることから、河川やその附近は公有地が多くを占めていたのでしょうか。 同じ場所を大正後期の甲府市街図で確認すると、三ツ水門から分かれる用水は左図ほどの流れが無いことから、役割を終えた用水跡の公有地が払下の対象となったのではないでしょうか。
by kaz794889
| 2009-01-10 23:10
| 石碑
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