2016年 06月 05日

岡部村 山梨岡神社の忠魂碑

【山梨岡神社境内の忠魂碑】
f0191673_22584728.jpg 笛吹市春日居町鎮目の山梨岡神社境内の忠魂碑である。
 神社の背後にある御室山(みむろさん)を背に建つ忠魂碑表面には、「忠魂碑」の文字と、その揮毫者である「安正」の文字が刻まれているが、裏面には何も刻まれていないため、忠魂碑本体によっては、その建設年等を確認することはできないが、これまで確認した忠魂碑の例に倣えば、「帝国在郷軍人会岡部村分会」により建設されたものと考えられる。

 なお、揮毫者である「安正」とは、嘉永5年に松本藩士の長男として生まれ、明治40年9月に男爵を授爵された後、大正3年9月に陸軍大将となった福島安正である。









にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。

# by kaz794889 | 2016-06-05 23:18 | 忠魂碑 | Comments(0)
2016年 05月 29日

戦時期の山梨 20「衣料切符入」

【松林軒百貨店発行の衣料切符入(左:表面・右:裏面)】
f0191673_22240864.jpgf0191673_22241439.jpg 昭和17年1月20日に公布された「繊維製品配給消費統制規則」に基づき、同年2月1日から衣料切符制が実施されている。
 
 [衣料切符制度の概要は下記を参照願います]
 「戦時期の山梨 8「衣料切符制」」
  http://kaz794889.exblog.jp/17639402/

 衣料切符制は、戦争によって供給量の減少した繊維製品の軍需、その他ね必要方面への配給確保。一方での一般国民に対する最低限度の衣料品の公平確保の保証と、今後の戦時下における国民生活の安定を図ることを目的として実施されたものであり、衣料切符には、郡部用の甲種(総点数80点)と都市用(山梨県の場合は甲府市が適用)の乙種(総点数100点)があり、この点数の衣料切符が、一人あたりの1年分として支給されている。
 また、点数の有効期限は満1年とされ、紛失しても再交付はなされなかったという。昭和17年2月の制度実施当時における衣料品購入時における使用切符点数は、背広の上下が40点、国民服の上下が32点、タオルが3点、割烹着が8点といったように、154品目にそれぞれの点数が定められるなど細分化されており、背広を購入する場合は、背広の代金と、背広に該当する点数分の衣料切符を提示する必要があり、また、不正防止のため、該当分の切符は、購入者が切り取ることなく販売店に衣料切符切符を提示し、販売店側が必要分を切り取る(購入者が事前に切り取った場合、当該点数は無効とされていた。)こととしていた。

 その後、昭和18年1月18日には「繊維製品配給消費統制規則」の所管庁である当時の商工省告示により、衣料切符の対象衣料品の追加指定及び基準点数の平均25%引き上げが行われ、背広の上下40点が50点、国民服の上下32点が40点、タオル3点が4点、割烹着8点が10点となっている。
 更に、昭和19年2月7日には、繊維製品の全面的な景観生産が行われることとなり、軍需品及び重要生産資材等の戦力増強に寄与するためのもののほか、一般国民の生活用品の大半は、労働者用品、衣料補修用品、学童等の特に消耗度の高い必需衣料品に限定されることとなったため、衣料切符点数の都市部、郡部の区別が撤廃され、一人あたり、30歳以上が40点、30歳未満が50点となっている。なお、衣料切符制度は、点数配分の変更はなされたものの、終戦後の昭和25年まで継続されている。


 写真の「衣料切符入」は甲府市桜町にあった松林軒百貨店が発行したものであり、裏面には切符制度の概要案内が記されている。



にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。



# by kaz794889 | 2016-05-29 23:07 | 戦時期の山梨 | Comments(0)
2016年 05月 22日

山梨毎日新聞

【山梨毎日新聞】
f0191673_21595196.jpg 山梨毎日新聞は、明治41年4月21日に創刊した日刊紙である。
 発行元は山梨毎日新聞社であり、辻秀造(明治9年7月30日~大正5年2月24日)により創刊されている。
 辻は明治35年頃、明治33年2月11日に創刊された「山梨時報」に配達夫として入社し、その後、東京の各新聞社が発行する数種の新聞の取扱店を開き、甲信地域の一手販売軒を掌握している。
 甲府市工町で山梨毎日新聞社を設立し、山梨毎日新聞を創刊、その後社屋は甲府市錦町18番地に移転し、更に明治42年4月には甲府市紅梅町21番地に新築移転している。大正8年当時における一日の平均発行部数は、12,000部であったという。
 辻の死後は、保坂政治郎が同社を買収し社長に就任している。
 その後、昭和16年2月1日には戦時期の新聞統制の一環である、一県一紙化により、山梨日日新聞に合併している。
 

















【大正4年頃の山梨毎日新聞社】
f0191673_21593689.jpg 明治42年に甲府市紅梅町21番地に新築移転した、山梨毎日新聞の社屋である。






















【現在の同位置】
f0191673_21590969.jpg 現在の同位置である。当時の建物があった位置は、現在、フコク生命ビル(ファミリーマートの入っているビル)となっている。






















にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。


# by kaz794889 | 2016-05-22 22:55 | 新聞 | Comments(0)
2016年 03月 13日

甲府の観光土産品 おかいこ人形

【甲府 土産品のしおり】
f0191673_17594772.jpg 甲府土産品協会が昭和20年代末頃に発行した「甲府 土産品のしおり」である。
 甲府土産品協会が務めて良い土産品を提供するために推奨制度を設け、優良土産品には推奨マークを添付して販売していること。また、甲府駅前、湯村温泉、御嶽昇仙峡における、そうした推奨土産品の販売店を案内している。

 昭和25年10月の毎日新聞社主催の全国観光地百選において、御嶽昇仙峡が渓谷の部第一位となったことや、そうした背景を踏まえて昭和27年8月に、甲府市と甲府観光協会により京浜地域及び静岡方面において実施した、第一回観光キャラバン隊の巡回などの観光宣伝施策が当時は行われていた。






















【しおりの内容】
f0191673_18000478.jpg 甲府の観光土産品として、「月の雫」、「水晶」といった土産品が記されている。
 こうした土産品の殆どは、現在も販売されている土産品であるが、「おかいこ人形」については、現在では知られていない土産品ではないだろうか。
 
 「おかいこ人形」は、山梨県産の繭を材料にして作られた人形であり、昭和4年頃に繭を材料に「潮汲み」や「藤娘」などの歌舞伎人形や舞踊人形が作られ、こうした人形が「おかいこ人形」と名付けられていたが、その後、製作者が東京に転出し中断していたが、昭和26年に新たな製作者により、繭でこけしを作成したところ、当時の観光ブームから好評を得、昭和28年度の山梨県観光土産品物産展で最優秀となり、25種類程度の人形が作成されていたという。
 







にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。


# by kaz794889 | 2016-03-13 20:47 | 観光案内 | Comments(0)
2016年 03月 08日

森島弥十郎の墓

【森島弥十郎の墓】
f0191673_22525566.jpg 森島弥十郎は宝暦11年に都留郡谷村の絹問屋「島屋」を営む森島利八の嫡男として生まれ、諱を基進(きしん)、字を子与(しよ)、桂園(けいえん)と号している。

 弥十郎は好学の人物であり、安永7年、18歳の年に父に請うて江戸に遊学し、大学頭林家の門に入り昌平黌において、大学頭林述斎をはじめとしたすぐれた学者について儒学や諸子の学問を究め、同門には市河米庵、雲室了軌などがいたという。
 その後、天明2年、22歳の年に父の失踪がにより帰郷し家業を継ぐとともに、寛政中期には自宅を塾舎にあてた「朋来園」を開き、郡内地方をはじめとした郷党子弟のために漢学を中心とした諸学を授けていた。

 寛政10年12月に甲府勤番追手勤番支配に任ぜられた滝川長門守利雍に対し、寛政12年に幕府文教主宰 林大学頭衡から甲斐国の地誌編纂が命じられたことから、滝川は国中三郡(山梨、巨摩、八代郡)の編纂主任に甲府学問所教授の富田武陵を、郡内領の編纂主任に森島弥十郎を命じている。文化2年7月に御小姓組頭に転出する滝川は、後任の追手勤番支配である松平伊予守定能に地誌編纂を引き継ぐに際し、森島弥十郎の用ゆべきを強調したという。その後、文化11年に甲斐国の地誌である「甲斐国志」が完成し、幕府への献進が終えると松平定能から森島弥十郎に対し慰労のことばと白銀が賞賜されている。
 「甲斐国志」完成後の文政4年10月13日、森島弥十郎は60歳で生涯を終えている。
 写真は森島弥十郎の墓所であり、墓石の中央「釈道仙居士」が弥十郎の法名である。大正10年6月に墓所は山梨県の史跡に仮指定されており、大正13年3月には「名ハ其進、字ハ子与、本町ノ人ナリ、学ヲ林家及昌平塾ニ修メ、業成リテ後郷ニ帰リ、専ラ育英ヲ事トス、文化中、甲斐国志ノ編纂ニ功アリ、曾テ凶歳ニ当リ穀三百九十俵ヲ出シテ郷里ヲ賑スト云、文政四年没ス、享年六十、此処ニ葬ル」と刻まれた墓石右側の「森島弥十郎之墓」の標柱が建立されている。


【森島子与墓表】
f0191673_22531177.jpg 墓石の左側に建つ「森島子与墓表」は、森島弥十郎を慕う門下生たちが追慕の念を表すために、撰文を林大学頭(林述斎の三男)、揮毫を市川米庵、彫刻を広瀬群鶴による追恩の碑として、文政8年12月に建立されている。

 なお、森島家所蔵の甲斐国志編纂資料は、森島弥十郎の子孫から昭和51年に都留市に寄贈されており、平成5年1月18日には「甲斐国志編纂資料」として都留市の指定文化財(歴史資料)に指定されている。
 





























【都留市谷村横町 専念寺】
f0191673_22543288.jpg 森島弥十郎の墓所がある、都留市谷村横町の真宗大谷派 向富山 専念寺である。






















にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。


# by kaz794889 | 2016-03-08 05:40 | 山梨県指定仮史跡 | Comments(0)