2008年 11月 22日
━(富士八景の内)西の湖━ ━文化洞ヨリ見タル西湖━ 『西湖』 河口湖西岸の長浜より西方1kmで西湖の東岸に達する。この間乗物の便がない。 西湖は東西3km半、南北800m、水面は海抜921m、その最深点は77m に及び、富士五湖中最大を示している。従って水色は美しく、冬季は第3号 に相当する。モーターボート東岸から西岸の根場まで通う。(鉄道省編「日本案内記 関東編」昭和5年3月発行より) ━「西湖案内」(西湖渡船合資会社発行)━ 河口湖を船津から船で横断して長浜に着き、そこから8丁で西湖に至ります。 西湖の渡船場から、西湖渡船合資会社のモーターボートが西湖を縦断して対岸の根場を結んでいました。1日6便の定期船のほか、貸切船は随時運航していたようです。 次の図は、この西湖案内に掲載されている西湖の案内図です。 ━「西湖附近御案内」━ ━「富士五湖 河口湖西湖御案内」(河口湖西湖遊覧渡船株式会社発行)━ 河口湖西湖遊覧渡船会社は、河口湖及び西湖における渡船会社であり、西湖には遊覧渡船を10艘保有し、西湖では1日8便の定期船が所要時間40分で根場まで運行されていました。 #
by kaz794889
| 2008-11-22 23:06
| 観光案内
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2008年 11月 18日
━精進湖上ノ富士━ 『精進湖』 富士の西北麓に位置し、東北西の三方は山に囲まれ、南方のみ青木ヶ原の低地に接している。湖の周囲約10km、面積869㎡、最深25mで、富士五湖の中で最小の湖であり、湖上の風光は内外国人に賛美され、湖の南岸から湖心まで溶岩流の半島が突出しているので、湖形は鹿の頭の如く見える。 自動車の終点、赤池(湖の東南岸)から精進地区のある湖の北岸まで約1.5kmあり、湖上モーターボートで約20分で達することができる。 精進地区は精進湖の北畔に位置する戸数約100戸の一寒村で、湖畔の至るところキャンプに適し、諏訪神社の大杉が聳えている。 (ジャパン・ツーリスト・ビューロー発行「昭和9年版・旅程と費用概算」より) 精進湖遊覧運漕船合名会社発行の「精進湖附近案内」 精進湖附近の名所として、精進大杉、パノラマ台、富士風穴、富岳風穴、鳴沢氷穴が紹介さ れています。 「精進湖 富望閣 山田屋旅館」の案内 精進湖畔パノラマ台登山口に位置した旅館であり、「湖上の富士を客室より居ながら望むことのできることが当館の誇りです。」と、精進湖と富士山の眺望について書かれています。 精進湖ホテル経営の「湖畔の家」発行の「富士五湖廻りの栞」 パノラマ登山道の基点に位置し、精進ホテルと同一系統の経営に移し、経営にサービスに満幅の努力を払って皆様に御奉仕申上げますと書かれています。 「国立公園富士五湖 精進ホテル」と「精進湖ホテル栞」 精進ホテルは精進湖畔の半島状の小丘に位置し、明治28年イギリスの帰化人、星野芳春(英国名:ハリイ・スチュアート・ホイットウォーズ)によって創設されたホテルです。 この観光案内チラシの頃は、大正7年に精進湖畔の赤松材を使って建設された木造洋館とその後に建築された木造日本館によるホテルであり、昭和天皇が皇太子時代に二泊するなど、他にも皇族や外国王室の賓客が利用されるホテルであったようです。 #
by kaz794889
| 2008-11-18 22:37
| 観光案内
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2008年 11月 17日
━旅館 佐渡幸 本店━ 柳町の旧甲州街道沿い(柳町通りの東側)。柳町宿の脇本陣を勤めた佐渡屋幸三郎家が明治に入いり、看板を掲げた旅館が「佐渡幸」です。 昭和8年に廃業するまで、柳正堂の南隣(現在:中村荘助商店の場所)にありました。 絵葉書の建物は、明治34年に起工された木造3階建・曲尺型で、建築は 全て東京の建設職人が携わりました。当時は甲府市内第一の旅舎として 50室を有し、上流貴紳士が定宿として利用していました。 ━本店裏庭・停車場前支店━ 佐渡幸の裏側と、甲府駅前にあった停車場前支店です。 #
by kaz794889
| 2008-11-17 20:55
| 絵葉書で見る山梨
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2008年 11月 16日
【旧跡地を訪ねて】 現在の場所(甲府市堀之内町)に昭和55年4月に移転するまで、甲府市立琢美小学校や旧山梨厚生年金会館のある甲府市朝気1-2周辺に甲府刑務所は所在していました。 移転から約30年が経過し、現在は住宅地となった一帯を訪ねました。 【甲府刑務所の沿革】 明治6年5月甲府橘町の約11,784坪の地に監獄署が設置され、同19年 8月に甲府監獄、同22年に山梨県監獄署と改称された後、同36年に当時 の司法省直轄となり甲府監獄と改まりました。 当時の甲府監獄は橘町1番地の西側、現在の丸の内2丁目周辺に所在していたため、明治36年の中央線甲府駅開業時、駅と監獄の位置は道路一つ隔てた状態であつたため、駅前一帯の広大な地域を占めていた甲府監獄の位置が問題となり、多くの市民から移転が強く要望されたことから、同39年4月に西山梨郡里垣村大字梅ヶ坪(現在:甲府市朝気1-2)の約21,951坪の地に移転が決定し同時に新庁舎の建築が始まり、同45年3月に竣工・移転しました。 なお、橘町の甲府監獄跡地は大正4年までに整地区画され市街地となり、現在に至っています。 ━移転地の新庁舎━ 大正11年10月14日の官制の改正により、甲府監獄も甲府刑務所と改称され、昭和12年8月には里垣村の甲府市合併に伴い、所在地も甲府市善光寺町100番地と改称されました。 ━郷土風景(昭和8年9月発行)より━ 『刑務所風景』 見るからに冷たそうな刑務所のスケッチ、今では大分モダン化して刑務所独特の赤煉瓦の塀もコンクリートに変っている。其北を東へ流れているのは甲府夜曲にある濁川で、遥か彼方に連る山脈は南アルプスの一部である。 昭和20年7月の甲府空襲により、庁舎・施設の90%が焼失し、同21年度以降順次復旧工事を行い、同26年10月に復旧工事が完了し、以来、同55年4月の移転に至っています。 ━戦災復旧後の庁舎本館━ 空襲により焼失した箇所を復旧させ、昭和55年4月の移転時まで使用されていた庁舎本館。 竣工時に比べ、屋根周辺が改装されています。 【跡地を歩く】 旧甲府刑務所は、前述のとおり、現在の甲府市朝気1丁目2から3、 一等官舎といわれた幹部官舎のあった城東2丁目28を含めた一帯に ありました。 今から約30年前の刑務所移転当時の様子は次のとおりです。 正門は朝気通りに面した、琢美小学校と朝気ふれあい公園の間の 道路を少し入った小学校と公園の角附近にあり、正門を中心に、高い 塀が北側は濁川、南側は「総合女性センター入口」のバス停附近まで 巡らされ、朝気通りに面して大人の胸程度の高さの塀があり、奥まった 高い塀(琢美小学校の西側沿いの位置)と、通りに面した低い塀の間に は空間(自動車を縦に3台並べた程度の奥行き)があり、バス停附近に は煉瓦造りの「物品受渡場」と石に刻み込まれた建物が建っており、そ こから南側には刑務官の一戸建官舎が建ち並んでいました。 旧山梨厚生年金会館前の道路が刑務所の裏側にあたります。 刑務所の裏側は、現在の広い道路からは想像できないほど狭い、自 転車のすれ違いが可能な程度の未舗装の道路が裏側の塀に沿って南 北に通じており、北に向かって左側には刑務所の塀とともに現在は暗渠 となっている小さな川が流れ、右側の道沿いには全く人家がなく、葦が鬱 そうとした空き地が続き、濁川に架かる幅員の狭い第一池添橋に続いて いました。 ━琢美小学校と朝気ふれあい公園の間の道路━ 緑の木立が朝気ふれあい公園、道を挟んだ反対側が琢美小学校。 公園沿いの亀甲形の石を用いた塀は、移転前に朝気通り沿いにあ った低い塀として使割れていたものです。当時は、もう少し高さがあっ たようです。 ━濁川の排水溝━ 刑務所の北側は、濁川に沿っていました。この写真では暗くて見え 難いですが、「川をきれいに」の看板の下が、濁川に面した刑務所の 排水溝口です。 また、排水溝口の左側は刑務所建設当時に作られた石積です。 排水溝口を近くで写しました。 東側から西側に向けた、濁川に沿って続く石積みです。 移転前は、この石積みの上に高い塀が巡らされていました。 【訪問後記】 刑務所跡地を早足で訪ねました。跡地に残る遺物はここで紹介し たもの以外に、朝気ふれあい公園の東側入口附近で使用されてい る敷石の一部に、その可能性が考えられましたが、断定できません でした。 以前、朝気ふれあい公園内に、この場所への刑務所新築を記念し た「建築之碑」といった石碑がありましたが、今回訪れた際には見当 たりませんでした、どこか由緒のある場所(現在の甲府刑務所とか) に移動させたのでしょうか。 また、旧刑務所正門の一部は、どこかに移築保存されているよう です。 石碑の移転場所、旧正門の移築場所をどなたか御存知であれば、 御教示ください。 #
by kaz794889
| 2008-11-16 14:45
| 訪問記
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2008年 11月 07日
【富士川舟運】 慶長12年、徳川家康は角倉了以に富士川の開削を命じ、了以、玄之の 親子二代により、慶長19年に鰍沢、青柳、黒沢の富士川三河岸から駿河 岩淵までの18里に舟を通じさせました。 富士川舟運は、江戸幕府の年貢米を江戸に回送することを主たる目的と して開かれたものですが、近世における経済発達に応じ、甲州のみでなく 信州から駿州を結ぶ物資輸送のルートとして、約300年間、経済・交通の 大動脈としての役割を担ってきました。 当時、甲州から駿河まで、徒歩で2日を要した行程が6時間ほどで到着 できました。 富士川舟運の華やかな時代は、甲府に鉄道が通じる明治36年頃まで 続きました。 ━鰍沢町ヨリ七面山ヲ望ム━ 鰍沢は、富士川三河岸の一つであり、その中心として、また、甲州の新し い玄関口として富士川舟運の歴史とともに歩んだ町です。 ━(富士川風景)鰍沢ノ河岸━ 富士川舟運による、駿河からの上り荷、甲州からの下り荷などは、鰍沢 河岸に集まりました。 これは、明治40年代頃における、富士川船への荷物の積み上げ作業 の様子です。 ━送券━ 明治初年、富士川舟運の重要性がより高まりました、このため、旅客 物資の安全輸送を図るため、時の県令藤村紫朗の主動により、富士川 運輸会社が設立され、船頭全てを会社所属とし、所属以外の者の通船 を禁止するなど、富士川通船を一手に握り会社が発展していきました。 これは、富士川運輸合資会社の送券(荷物の送り状)です。 なお、富士川運輸合資会社は、富士川運輸会社の組織替えにより誕 生した合資会社です。 ━送リ券━ 明治14年、同業会社の出現により富士川運輸会社の舟運統制が崩 れ誕生した会社の一つである、丸甲合資会社の送り券です。 ━諸荷物通送券━ 青柳河岸にあった、青柳運輸会社の諸荷物通送券です。 ━甲州富士川 鰍沢乗船場━ 富士川の鰍沢乗船場です。 ━乗船券━ 富士川船への乗船券です。 乗船地が鰍沢、上陸地が岩淵となった、富士川共同乗船所発行のものです。 #
by kaz794889
| 2008-11-07 21:56
| 史料
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