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2015年 09月 26日

山梨県教育復興宝くじ

【山梨県教育復興宝くじ(表面)】
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「山梨県教育復興宝くじ」は、山梨大学の創設と山梨県立教育研修所新築に係る資金確保のために山梨県が発行した宝くじ(抽選日:昭和23年12月17日)である。

 GHQによる終戦後の教育制度改革のため、「教育刷新委員会官制(昭和21年勅令第373号)」に基づき昭和21年8月10日に「教育刷新委員会」が設置され、教育の民主化を理想としたいわゆる「6・3・3・4制」が制定されている。
 こうした新制度の中、山梨工業専門学校、山梨師範学校、山梨青年師範学校を母体とした新制大学である山梨大学の設立にあたり、山梨大学の創設に多大の関心を寄せてきた山梨県は、昭和23年2月に吉江勝保知事を委員長とする「山梨大学創設期成委員会」を設立し、前述の三校が設立した連絡会議との間で大学創設経費の問題が議論され、同委員会が県負担分の財源捻出について協議を行うための「大学創設財政委員会」が設置され、昭和23年8月25日に同委員会は第一年度工事費予算を一千万円と決定し、同年8月30日には経費の総額を「山梨県教育復興宝くじ」の発売により賄うこととし、当該宝くじの発売総額を三千万円(「発行総数60万枚」×「販売金額一枚50円」)とし、その売上げ額を山梨大学及び山梨県立教育研修所(昭和23年5月15日に、旧六三部隊機関銃中隊旧庁舎の一室に設立されていた。)の費用に充てることとなった。

【山梨県教育復興宝くじ(裏面)】
f0191673_11290419.jpg 「山梨県教育復興宝くじ」の発行にあたり、発行事務を行う組織として「山梨県教育復興宝くじ発行協力会」を設立し、昭和23年11月10日から発売を開始した。

 発売にあたり山梨大学関係学校の教官、生徒は発売に全力を集中し、各戸の歴訪や街頭に立って売却に努めたが、売り上げ総額は予定額の三千万円には達することができず、山梨県立教育研修所の割当額と雑費を差し引いた、6,879,656円が寄付されている。

 なお、予定額に達しなかったことなどから、昭和24年には「山梨県教育振興宝くじ」が発行されている。




【山梨工業専門学校並立時代の山梨大学工学部正門と校舎】
f0191673_11290959.jpg 「国立学校設置法(昭和24年法律第150号)」に基づき、山梨工業専門学校、山梨師範学校、山梨青年師範学校を母体とした、学芸学部と工学部の二学部からなる山梨大学は、昭和24年5月31日に開設されている。

 写真は山梨大学開設後の数年間、山梨工業専門学校と並立していた当時の工学部正門である。















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by kaz794889 | 2015-09-26 19:02 | Comments(0)
2015年 09月 21日

山梨県結核予防協議会

【「山梨県結核予防協議会」発行の結核予防チラシ】
f0191673_17560627.jpg 1882年(明治15年)にドイツのコッホによる結核菌の発見は、それまでの結核菌病遺伝説を覆し、予防や治療の道が医界において開かれた
ものの、一般社会においては結核遺伝節が根強く、結核そのものが無関心に放って置かれていたという。
 
 山梨県内においては、いわゆる地方病が古くから研究対象としてその研究や対策が進められつつあったものの、結核についてはその病が重患となるまで殆ど表面に現れなかったこと。また、当時の衛生統計が不完全であり、その死亡率が完全に出せなかったことによると云われており、結核の対策について注目されてきたのは明治34年頃であったといわれている。(明治34年の山梨県統計書によれば、当該年における山梨県内の疾病による死亡者8,799人の内、肺病による者は559人である旨が記されている。)

 こうした状況を経て、大正2年5月19日に山梨県から山梨県医師会に対し「梨衛発第85号」を以て「肺結核患者発見ノ便法如何」との諮問案が回送されたことから、同医師会は同年5月24日に県会議事堂において開会された第七回定期総会において「委員ニ附託スル事ニ決シ之レヲ会長ニ一任ス、依テ会長ハ左之通リ指名ス」とし、山梨県医師会長、各郡医師会からの8名(雨宮文亮[甲府市・西山梨]、飯島松次郎[東山梨]、若尾真次郎[東八代]、島田正巳[南巨摩・西八代]、杉浦建造[中巨摩]、古屋晴[北巨摩]、梶原垣太郎[南都留]、富田市五郎[北都留])の委員及び特別議員3名(喜多島豊三、吉岡順作、長沢)の12名による審議がなされ、同年7月16日に当該諮問に対する同医師会の意見を加藤寅輔会長名により答申するとともに早急に結核予防協議会を設立すべきとの意見がなされている。

 結核予防協議会については、大正3年2月に山梨県警察部衛生課に事務所を置いた「山梨県結核予防協議会」として、「恩賜財団済生会山梨県」「日本赤十字社山梨支部」「山梨県医師会」「日本薬剤師会山梨支部」「私立山梨県衛生会」「山梨県教育会」が推薦する各団体2名の代表者を会員とし、会長は山梨県知事、幹事長は山梨県警察部長として発足している。





【結核予防チラシ[部分]「肺病に罹らぬ心得」】
f0191673_17562652.jpg 「肺病ら罹らぬ心得」と題する結核予防チラシは、数回に及ぶ審議を経て図案等が決定され、山梨県結核予防協議会がその印刷を日本赤十字社山梨支部に託して10万枚を印刷し、大正4年に各家庭に配布されている。
 また、当該チラシは、中巨摩郡小井川村(現在の中央市)出身の最後の浮世絵画家と云われる中澤年章(元治元年~大正10年)により描かれている。






【結核予防チラシ[部分]】

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by kaz794889 | 2015-09-21 22:15 | Comments(0)
2015年 09月 15日

三同社

【三同社規則】
f0191673_12470444.jpg 三同社は明治12年5月に設立された私塾「進徳社」の理念に対する山梨県当局の妨害策の一つとして、当時の山梨県令藤村紫朗とその支持者である若尾逸平、風間伊七、名取忠文ら最有力の豪商らを発起人として、明治13年3月に西山梨郡甲府紅梅町に開設された私塾である。

 三同社規則にある「三同学社規則」の教則によると、学課は予科、本科の二科、予科を卒業した後に本科に入るものとし、予科の卒業期限は設けられず、本科の卒業期限は二年半とされている。
 また、本科学課は毎日二書を用い、一書は教員が講義し、一書は生徒による輪講とすることが記されている。

 【進徳社】
 http://kaz794889.exblog.jp/24454432/
 


















【三同社 科目表】
f0191673_12471010.jpg 三同社規則に収載されている、予科及び本科の科目表である。
 





















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by kaz794889 | 2015-09-15 08:46 | 学校 | Comments(0)
2015年 09月 11日

日露戦役を歩く 3 「山城村の日露戦役記念碑」

【日露戦役記念碑】
f0191673_11512265.jpg 甲府市小瀬町の県営小瀬団地に隣接する小公園、西河原史跡公園に建立されている「日露戦役記念碑」である。

 正面には「日露戦役記念碑 元帥侯爵 山縣有朋書 石工 星野正直」、背面には「組合村在籍出征軍人 87名の氏名」の文字が刻まれている。

 記念碑に建立年月日は刻まれていないが、揮毫者である山縣有朋の爵位が侯爵となっていることから、公爵に陞爵した明治39年9月21日までの間に建立されたものと考えられる。













【西河原史跡公園内の山城宮】
f0191673_11512883.jpg 記念碑が建立されている西河原史跡公園内、記念碑の右脇にある山城宮である。

 この日露戦役記念碑は昭和20年まで山城国民学校(現在の山城小学校)の校庭に建立されていたが、軍国主義的建造物の排除から終戦後に一時地中に埋められ、その後現在の位置に移されている。

















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by kaz794889 | 2015-09-11 12:30 | 山梨 日露戦役を歩く | Comments(0)
2015年 09月 10日

進徳社

【進徳社主意書】
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【進徳社申合規則草案】f0191673_10223326.jpg





























 進徳社は明治12年5月、西山梨郡甲府横近習町に開校した私塾である。
 「進徳社主意書」に記された進徳社主意によると、学齢超過あるいは貧困により勉学の機会を得ることができない青少年に、勉学の機会を与えることを目的とするものであり、進徳社規則第一条には「本社生徒ハ公立小学校ニ修業スルコト能ハザル者及ヒ小学々齢ヲ超タル者トス。但シ生徒ハ貧富ヲ論セス一切学費ヲ要セス」と定めている。

 また、学課を級内、級外の二科とし、その卒業年限は級内学課が2年半、級外学課は卒業期限を設けておらず、授業時間は午前9時から12時、午後1時から3時の1日5時間であった。

 進徳社の設立発起人は、加賀美嘉兵衛(東八代郡南八代村)、依田孝(西八代郡市川大門村)、新海幸五郎(中巨摩郡玉幡村)、大木喬命(西山梨郡甲府横近習町)、寺田喜平治(西山梨郡甲府和田平町)、小田切謙明(西山梨郡飯沼村)、尾澤孝治(西山梨郡千塚村)、渡辺信(西八代郡市川大門村)、三井幸一郎(中巨摩郡松島村)、林誾(西山梨郡甲府紅梅町)ら10名であり、その多くは自由民権運動の機関紙でもあった「峡中新報」の株主となっていた。




【峡中新報社 株主組合名簿】
f0191673_10223834.jpg 多くが峡中新報の株主であり、当時の山梨県令であった藤村紫朗に対する反藤村勢力による進徳社の発起は「官の指導による公教育でなければ教育は発展しない」の信念を持った藤村紫朗に大きな衝撃を与えたという。

 このため、藤村紫朗は側近や自身を支持する若尾逸平、風間伊七といった有力な豪商らに、別の私塾である「三同社」の創設を計画させ、進徳社の合併を促したという。これにより、進徳社の発起人の一人である加賀美嘉兵衛ら、何名かが三同社に加わったという。






【株主組合名簿 内容の一部】
f0191673_10224018.jpg 発足後の進徳社は、必ずしも良好とは言い難い状況が続いたといれ、明治14年11月に廃止している。

 (明治13年5月に作成された「峡中新報株主組合名簿」には、各郡単位に総勢234名の株主の氏名、住所が記されている。)














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by kaz794889 | 2015-09-10 11:24 | 学校 | Comments(0)