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2015年 06月 27日

金桜神社門前の旅館 3 「松田屋」

【昭和初期の松田屋】
f0191673_16215219.jpg 金桜神社門前で営業していた松田屋である。























【現在の松田屋跡】
f0191673_16251004.jpg 既に営業を終えている、現在の松田屋の建物である。
 























【現在の松田屋玄関前】
f0191673_16245236.jpg 現在も玄関上に「松田屋」の文字が掲げられている。

























【旅館 松田屋の案内チラシ】
f0191673_16214951.jpg 大正13年に作成された松田屋の案内チラシである。
 「甲州御嶽山案内」と題する金桜神社の案内と御嶽旧道などについて記されている。

























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by kaz794889 | 2015-06-27 16:54 | 御嶽昇仙峡 | Comments(1)
2015年 06月 20日

金櫻神社 4「焼失後再建された本殿」

【現在の金櫻神社境内と拝殿】
f0191673_16525522.jpg 甲府市御岳町に鎮座する金櫻神社は、昭和30年12月18日に神札授与所からの出火により、鎌倉時代の建築で重要文化財に指定されていた中宮本殿、東宮本殿を始めとした建造物のほぼ全てが焼失している。
 
 社殿の焼失後、再建奉賛会が組織され神社復興に着手し、整地工事にあたっては狭隘であった境内の拡張を行っている。このため、焼失前の社殿の礎石や石畳といった焼失以前の境内の痕跡は全く残されておらず、現在は広々とした境内に再建された社殿が建てられている。













【再建当時の金櫻神社本殿】
f0191673_16391404.jpg 社殿の焼失後、拡張、整地された境内に再建された本殿は、昭和32年5月に着工、昭和33年7月に竣工している。

 写真は三間社流造、檜皮葺、金箔極彩色の社殿として再建された、竣工直後、昭和33年7月の本殿である。














【現在の本殿】
f0191673_16393267.jpg 現在の本殿である。
 本殿竣工後、昭和34年に現在の拝殿が再建されている。





















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by kaz794889 | 2015-06-20 17:25 | 神社 | Comments(0)
2015年 06月 14日

津島家寄託 太宰治資料展

【昭和10年代中期頃の甲府市全景】
f0191673_20121627.jpg 山梨県立都留高等女学校勤務の石原美知子と婚約した太宰治は、昭和13年11月16日に御坂峠の天下茶屋から、美知子の母である石原くらが見つけた甲府市竪町の寿館に転居し、甲府市での生活が始まっている。

 昭和14年1月6日には、結婚後の住居である甲府市御崎町の借家に転居し、同年9月1日に東京府北多摩郡三鷹村下連雀113番地の借家に転居するまでの約10か月間が、疎開期を除く太宰の甲府時代であった。

 太宰が東京近郊に転居を計画したのは昭和14年の5月上旬頃だといわれている。『増補改訂版 回想の太宰治』津島美知子著によれば、東京近郊への転居を考えるようになったのは、「太宰はもっと心おきなく語り合い刺戟し合う先輩や仲間が近くに欲しかったのだと思う。」とある。
 また、トタン葺き平屋のためか、御崎町の借家は畳まであつくなるなど、暑くてたまらず、やはり6円50銭の家賃相応の家であったことも記されており、甲府盆地の過ごし難い夏も転居を考えた要因のひとつでもあったと考えられるところである。




【「津島家寄託 太宰治資料展」のチラシ】
f0191673_20121238.jpg 昭和14年9月1日に転居した三鷹村下連雀113番地の住居は、中央線の三鷹駅から徒歩約20分の新築、家賃24円の借家であった。
 戦時期の疎開時期を除き、太宰治とその家族はこの借家を主体に三鷹に居住していた。

 いわゆる三鷹時代の津島家における生活資料や太宰の創作活動に関する資料は、太宰治の没後、美知子夫人により保管され、美知子夫人の没後は、長女、次女らが引き継ぐ形で保管されていたが、津島家から総数70点におよぶ三鷹時代の資料が三鷹市に寄託されたということである。

 こうした津島家寄託資料を中心とした「津島家寄託 太宰治資料展」が、平成27年6月13日から6月28日までを会期(6/15、6/22は休館)として、三鷹市美術ギャラリー(三鷹駅北口からすぐ)で開催されている。



















【太宰治資料展の展示会場入口】
f0191673_20125219.jpg 今回の資料展は「Ⅰ 三鷹へ」、「Ⅱ 現在もなお続く桜桃忌」、「Ⅲ 太宰治の筆休め -絵筆を執る-」、「Ⅳ 妻が残した太宰治」、「Ⅴ 三鷹で生まれた珠玉の作品 -色褪せぬ太宰文学-」の五部構成により展示されている。

 これまで各種の文学アルバムや文学展、その図録などで見た資料も展示されているが、「Ⅰ 三鷹へ」で展示されている戦時期から終戦後にかけての津島家の生活関連資料や、「Ⅳ 妻が残した太宰治」で展示されている太宰の検印6点、美知子夫人愛用の文箱などは、初めて目にした興味深い資料であった。 










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by kaz794889 | 2015-06-14 22:37 | Comments(0)
2015年 06月 13日

熊本市 玉龍山 禅定寺

【禅定寺参道】
f0191673_12073672.jpg 熊本市中央区横手の玉龍山 禅定寺(ぜんじょうじ)は、JR鹿児島本線と九州新幹線が並行する高架の西側に建つ、16世紀に創建された曹洞宗寺院である。
 
 熊本県の調査によると、禅定寺境内にある1137基の墓の内、489基は江戸期に建立されているものであり、加藤家や細川家の家臣団の墓が建立時のまま現存している姿は全国でも例がなく、文化的、歴史的に貴重な状態で残されているという。
















【禅定寺本堂前】
f0191673_12080331.jpg かつて、この位置には山門が建てられていたが、老朽化のため何年か前に取り壊されている。






















【禅定寺本堂と庫裏】
f0191673_12175811.jpg























【藤村紫朗墓所前】
f0191673_12082160.jpg 禅定寺は細川家の家臣でもあった藤村紫朗の菩提寺でもある。
 過日、数年ぶりに訪ねたが当日は熊本地方が大雨であったため、夕方墓参した際、写真のとおり墓所の入口前が10㎝程度の水たまりとなり、墓所にたどり着くことができなかった。




















【藤村紫朗の墓石背面】
f0191673_12084151.jpg 背面から見た藤村紫朗の墓石である。























【藤村紫朗墓所(西側側面)】
f0191673_12095484.jpg 西側側面から見た藤村紫朗の墓所と墓石である。
 過日が三回目の墓参であったが、地元熊本の男爵、貴族院議員の藤村紫朗としてよりも、県令、知事として赴任した山梨県の明治近代史における治績や評伝が知られるためか、時間ととも墓所は荒れている感がある。

















[藤村紫朗の墓所再訪]
http://kaz794889.exblog.jp/16476052/




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by kaz794889 | 2015-06-13 13:09 | 藤村紫朗 | Comments(0)
2015年 06月 07日

平成27年 山梨桜桃忌

【御坂峠 五曲坂】
f0191673_16480569.jpg「 私は、甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠へたどりつく。  
御坂峠、海抜千三百米。この峠の頂上に、天下茶屋という、小さい茶店があって、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもって仕事をして居られる。私は、それを知ってここへ来た。」
 『富嶽百景』の一節である。

 昭和13年当時、御坂峠を経由して甲府と吉田は、御坂国道バス株式会社のバスで結ばれていた。
 当時の発車時刻表によれば、一日8往復、甲府を朝7:00に発車したバスは石和、十郎橋を経て、御坂峠の頂上に8:10、三つ峠入口、船津を経て、終点の吉田には8:50に到着していた。
 写真の五曲坂(イマガリザカ)は御坂峠に向かう峠道の坂であり、当時の御坂国道バスの案内には「地勢急峻のため道路雛段の如く五段にて自動車の交錯する時など一種変わった眺めなり。五曲坂と呼ぶ。」と記されている。



【平成27年 山梨桜桃忌の案内】
f0191673_16355957.jpg 本年も、太宰治ゆかりの天下茶屋において、6月14日に山梨桜桃忌が開催される。

























【御坂峠の太宰治文学碑】
f0191673_16361078.jpg 昭和28年10月31日に除幕式が開催された、御坂峠の太宰治文学碑である。(写真は昨年の山梨桜桃忌における文学碑)
 
 山梨桜桃忌は、この文学碑前での献花の後、天下茶屋における講演会と参加者による意見交換が行われている。



















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by kaz794889 | 2015-06-07 17:38 | Comments(0)
2015年 06月 06日

戦時期の山梨 17「国民貯蓄目標 二百七十億円」

【「山梨日日新聞」 平成27年6月5日】
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 山梨日日新聞に掲載された、板橋区立美術館で開催中(4月11日~6月7日)の『近代日本の社会と絵画 戦争の表像』展を先月末に観覧した。
 随分以前から、同美術館が所蔵する新海覚雄の『貯蓄報国』を観覧したいと思っていたが、現在開催中の館蔵品展に展示されていることを知り訪れたものである。
 
 貯蓄報国は、「皇軍将兵の活躍と労苦を美術を通じて銃後に伝へ以て前線将兵に感謝の誠を捧げると共に一億国民の士気高揚に資すべく」を目的として昭和18年に開催された第2回大東亜戦争美術展に出品され日本美術報国会賞を得た作品であり、写実的な郵便局の日常業務の光景が描かれた作品である。
 



















【新海覚雄 『貯蓄報国』】
f0191673_21402537.jpg 『貯蓄報国』は、同展の作品リストによれば、112.4×163.0の油彩・キャンバスによる作品である。
 
 盧溝橋事件以降、飛躍的に増加した戦費の一部に郵便局や銀行に預入された預貯金を充てることが計画され、「国民貯蓄奨励ニ関スル件」が 昭和13年4月19日に閣議申合されるなど、昭和13年から政府主導の国民貯蓄奨励運動が展開され、昭和13年度は80億円の国民貯蓄目標が制定されることとなった。

 上記の掲載記事にある「カウンターの内側で銃後の女性が働く。左奥の壁をよく見ると、戦闘機とみられるイラストに「270億」と記されたポスター。数字は、貯金の目標額とみられる。」の270億は、まさに『貯蓄報国』が描かれた昭和18年度の国民貯蓄目標の目標金額である。

 また、そこに描かれているのは、貯蓄の手段の一つとして当時発行されていた国庫債券や報国債券などの債券の発行日に、それを求めて郵便局の為替貯金窓口に並ぶ市井の人々と、それに対応する郵便局職員を描いているのだろう。

 昭和13年度以降、毎年度ごとに戦争の進展と比例した国民貯蓄目標が示され、昭和16年には国民貯蓄奨励運動を更に組織的に展開するため、国民は居住地域の市町村や勤務先、通学先などに結成された国民貯蓄組合の構成員となり、それらの組合で貯金を行うことを定める「国民貯蓄組合法」が公布され、同年6月20日から施行されるなど、終戦までの数年間、まさに貯蓄報国のスローガンのもとで貯蓄運動が展開されていった。
 


【挙県一体 二百七十億貯蓄 総攻撃に参加せん】
f0191673_16221999.jpg 昭和18年11月21日発行の『山梨常会資料 第48号』に掲載された、昭和18年度の国民貯蓄目標270億円の目標達成のため、全国的に実施される12月一か月の「270億貯蓄総攻撃」特別計画期間に呼応し、山梨県においても「仇敵撃滅」の決意による、山梨県目標額の完全攻略を求める記事である。
 




















【昭和十八年度本県貯蓄目標額 一億二千万円と決定す】
f0191673_16220020.jpg 昭和18年3月21日発行の『山梨常会資料 第40号』に掲載された、昭和18年度国民貯蓄目標270億円の内、山梨県における貯蓄目標額が1億2000万円と決定したことを伝える記事である。
 国民貯蓄目標については、毎年各都道府県ごとの目標額が示され、それを基に、更に市町村や職域などに目標金額が示されていた。
 
なお、昭和17年度の国民貯蓄目標は230億円、山梨県の貯蓄目標額は1億円であった。
 昭和13年度以降の各年度に示される国民貯蓄目標額は毎年度増加しており、昭和19年度は410億円、昭和20年度は600億円と、毎年度増加の一途をたどっていた。

 常会資料には、「1億2000万円に増加した国民貯蓄を確実に積あげるためには、今まで以上に私生活の緊縮が必要である。与えられた目標額をまず貯蓄して、余ったものを以て生活するという生活態度が絶対に必要になってきた」と、昭和18年度の山梨県貯蓄目標額達成に向けて記されている。

















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by kaz794889 | 2015-06-06 23:31 | 戦時期の山梨 | Comments(0)