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2014年 12月 31日

日露戦役を歩く 2「奥野田村の日露戦役記念碑」 

【熊野神社】
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 甲州市塩山熊野(旧東山梨郡奥野田村)に鎮座する熊野神社は、重要文化財の拝殿及び本殿を有する旧郷社である。
 
 同神社の境内に日露戦役記念碑が建立されている。
 



















【神社境内の日露戦役記念碑】
f0191673_08072187.jpg 熊野神社境内の記念碑は正面に「日露戦役記念碑」と揮毫者である「海軍大将東郷平八郎書」の文字が、裏面には熊野神社氏子内の出征軍人の氏名が刻まれている。
 明治39年11月3日に挙行された同記念碑の落成式には、煙火数十本が打ち上げられ、餅数十俵が投げられたという。

















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by kaz794889 | 2014-12-31 08:55 | 山梨 日露戦役を歩く | Comments(0)
2014年 12月 30日

女子交際會


【女子交際會設立大意】
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 「同じ心の婦人共同して女子の風習を改良し家政の学を講習し以て女子の教育を拡張せらるる聖旨を翼成するにあり」、「旨趣に基き会員相親睦し相諮詢し各自一家の幸福を謀り女子の品位を高尚にせんことを要す」との、「婦人交際會仮規則」第一条及び第二条に定める目的等から、女子交際會が設立され、明治20年1月16日に発会式が行われている。

 女子交際會は、山梨県尋常師範学校及び甲府学校の女性教師を発起人とし、事務局を山梨県尋常師範学校の徽典館女教場内に、会費は一か月5銭として、毎月第一日曜日の午後1時に例会を行っていた。






















【設立大意に記載されている女子交際會の発起人及び協賛者】
f0191673_17043739.jpg 「女子交際會設立大意」の最終頁に記載されている発起人と協賛者である。
 「女子交際會」は発足してから数年で解散状態となり、明治23年11月9日に同会の会員であった13名が発起人となり、「山梨婦人會」が新たに設立されている。
 


















発起人と協賛者は次のとおりである。 
 [発起人]
   「長野はな子」は埼玉出身で、明治17年から同20年まで山梨県尋常師範学校の二等助教諭を務めている。
   「宗てい子」は福岡出身で、明治19年から同21年まで山梨県尋常師範学校の訓導を務めている。
   「権太きん子」は長崎出身の甲府学校訓導であり、甲府学校校長を務めていた権太政の夫人である。
   「相原りか子」は明治16年の徽典館中等師範科卒業生である。
 [協賛者]
   「藤村夫人」は当時の山梨県知事藤村紫朗の夫人
   「高木夫人」は当時の山梨県書記官第一部長の高木忠雄夫人 
   「大木夫人」は当時の山梨県書記官第二部長の大木房英夫人
   「内藤萬春子」は内藤伝右衛門の養母で社会教育や教育に熱心に取り組んでいた、内藤満寿と思われる。



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by kaz794889 | 2014-12-30 18:06 | Comments(0)
2014年 12月 29日

旧野之瀬郵便局

【旧野之瀬郵便局庁舎】
f0191673_09183264.jpg 野之瀬郵便局は昭和12年12月1日、野之瀬郵便取扱所として中巨摩郡野之瀬村上市之瀬に開設され、昭和15年12月1日に野之瀬郵便局と改定されている。




















【旧庁舎の東側側面】
f0191673_09190673.jpg 野之瀬郵便局は現在、西側に新築移転している。






















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by kaz794889 | 2014-12-29 11:00 | 郵便局・逓信 | Comments(0)
2014年 12月 28日

八幡村 大井俣窪八幡神社の忠魂碑

【大井俣窪八幡神社境内の忠魂碑】
f0191673_17481095.jpg 山梨市北の大井俣窪八幡神社境内の忠魂碑である。
 忠魂碑表面には「忠魂碑」の文字と、その揮毫者である「安正」の文字が刻まれている。
 また、裏面には「御即位大典大正四年十一月十日建 帝国在郷軍人会八幡村分会」と、建設年等が刻まれている。

 揮毫者である「安正」とは、嘉永5年に松本藩士の長男として生まれ、明治40年9月に男爵を授爵され大正3年9月に陸軍大将となった福島安正である。












【神社境内の忠霊殿】
f0191673_17482300.jpg 神社境内に建てられている忠霊殿である。
 忠魂碑は忠霊殿の左側に並んで建てられている。






















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by kaz794889 | 2014-12-28 21:57 | 忠魂碑 | Comments(0)
2014年 12月 27日

宝塚歌劇100周年記念 宝塚歌劇100年展

【宝塚歌劇100周年記念 宝塚歌劇100年展のチラシ】
f0191673_16181292.jpg 明治44年に開業した宝塚新温泉の余興として誕生したのが宝塚少女歌劇である。
 大正3年4月1日から5月30日まで、宝塚新温泉内のパラダイス劇場で「ドンブラコ」、「浮れ達磨」、「胡蝶」の三本立てによる上演が宝塚少女歌劇の第1回公演であり、平成26年は宝塚歌劇の100周年にあたる年である。

 「宝塚歌劇100年展」は、こうした宝塚歌劇100周年を記念して開催された展覧会であり、平成26年3月の名古屋展を皮切りに福岡展、神戸展と巡回し、12月16日から28日まで東京国際フォーラムを会場に最後の巡回地である東京展が開催されている。

 最終日の前日である、本日、「宝塚歌劇100年展」を観覧した。
 宝塚歌劇の創始者は韮崎出身の小林一三であり、「新しい国民劇の創成」という理念のもと、オペラ、レビュー、歌舞伎、新劇などの様々な要素を取り入れながら独創的な舞台の世界を拓いてきたという。

 今回の展示においても、宝塚歌劇の創設から昭和32年1月25日に小林一三が逝去する間における彼の位置付けや功績など、興味深い展示を見ることができた。













【展示室前の案内】
f0191673_16182262.jpg 東京展の会場である、東京国際フォーラム展示ホールの展示室入口に設置されている案内。

















【宝塚歌劇100年展 図録】
f0191673_16181654.jpg 展示会場で発売されている「宝塚歌劇100年展」の図録である。































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by kaz794889 | 2014-12-27 20:16 | 小林一三 | Comments(0)
2014年 12月 21日

野口英夫君碑

【野口英夫君碑】
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 「野口英夫君碑」は新聞人、政治家であった野口英夫の顕彰碑であり、名取忠愛、矢島栄助、細田武雄、新海栄太郎、山本伊作、三枝治郎の6名が発起人となり、有志366人の賛同を経て甲府城跡二の丸入口に建碑され、昭和4年9月23日に約300人が出席のもと除幕式が行われている。

 この顕彰碑は前述のとおり、当初は甲府城跡内(武徳殿敷地の入口右側附近)に建てられていたが、甲府城跡整備のため平成10年に移設され、現在は甲府市の「丸の内公園」に建てられている。
 

 

 












【「野口英夫君碑」表面】
f0191673_17350403.jpg 篆額は内閣総理大臣を務めた清浦奎吾、撰文は徳富猪一郎による碑は、製作から完成まで一年を要したという。







【野口英夫の墓】
f0191673_15510692.jpg 野口英夫は安政3年9月3日に徳島県板野郡大山村(現在の上坂町)で藍問屋を営む野口亀太郎の四男として生まれ、幼名は長十郎、8歳で仏門に入り僧名を英鳳とし、22歳で還俗し英夫と名乗ることとなった。
 明治6年に東京に出て中村敬宇の同人社に学び、山梨県との縁のきっかけは、明治12年2月21日に山梨日日新聞の前身であり峡中新聞、甲府新聞を改題した甲府日日新聞の主筆として迎えられたことによる。
 明治14年1月に甲府日日新聞が山梨日日新聞に解題されると、社主である内藤伝右衛門から一切の権利譲渡を受け、以降は山梨日日新聞の社長となり、その前後には山梨県会議員、甲府市会議員となり正副議長を務めている。
 大正11年2月20日に66歳で没している。













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by kaz794889 | 2014-12-21 18:05 | 石碑 | Comments(0)
2014年 12月 14日

温泉旅館 みたけ

【甲斐路の観光 温泉旅館 みたけ】
f0191673_17321340.jpg 甲府駅前の温泉旅館「みたけ」が発行した昭和33年頃の案内チラシである。
 チラシには「観光都甲府及弊館御案内」として「弊館は甲府駅前で交通至便洋館三層楼の駅前第一の旅館です。御観光に御商用に御来甲の節は是非御泊り下さい自家用車もあり家族的に優越申し上て居ります。」と記されている。


























【甲府駅前の奉迎】
f0191673_17320993.jpg 上記のチラシに掲載されている、同旅館から見た昭和32年7月8日の昭和天皇、香淳皇后の行幸啓における甲府駅前の奉迎の様子である。
 旧駅舎時代の甲府駅前が俯瞰できるこの写真の撮影位置から、同旅館は甲府駅前に当時数件あった駅前旅館の一つであった。











【昭和41年の甲府駅前市街図】
f0191673_17310713.jpg 赤く囲んだ場所が「みたけ」旅館のあった位置である。
 昭和20年の甲府空襲により、甲府駅本屋と附属建物は焼失を免れたものの、駅前の街は全て焼失している。「みたけ」旅館も終戦後この位置で営業を開始した旅館と思われる。
 既に旅館は廃業しており、現在この場所(甲府市丸の内2-3-2)には「東横INN甲府駅南口2」が営業している。










































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by kaz794889 | 2014-12-14 19:50 | 旅館・ホテル | Comments(0)
2014年 12月 13日

素堂翁治水碑

【素堂翁治水碑】
f0191673_17520280.jpg 甲府市寿町11に鎮座する文殊神社境内の「素堂翁治水碑」である。
 この治水碑は俳人として知られる山口素堂が、桜井政能とともに行ったという濁川の治水工事に関する頌徳碑である。
 素堂の後裔にあたるといわれる山口伊兵衛が多くの知人と謀り、寿町を地元とした山田弘道(藍々)の篆額、平原豊の撰により明治33年8月に建碑されている。


























【素堂翁治水碑の拓本軸】
f0191673_17520889.jpg 治水碑の拓本である。






























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by kaz794889 | 2014-12-13 19:39 | Comments(0)
2014年 12月 07日

山八幡神社

【甲府市 山八幡神社】
f0191673_16093198.jpg 甲府市東光寺1-1-32に鎮座する山八幡神社は、創建当時、巨摩郡西八幡村(現在の甲斐市)に鎮座していたが、永正16年(1519年)に武田信虎が石和から甲府の躑躅ヶ崎に館を移した際に勧請して愛宕山の石取場の地に遷座したと伝わっている。
 その後、文禄年中(1592年~1595年)の甲府城築城の時に、社地を甲府城石垣の石取場とするため、現在地に再度遷座している。















【昭和2年頃の参道】
f0191673_16095608.jpg 山八幡神社は昭和2年に旧制度における村社から郷社に昇格している。
 写真の参道は、郷社昇格時の昭和2年頃の神社参道である。






















【山八幡神社全景】
f0191673_16094631.jpg 昭和2年頃の神社全景である。
 石垣上の玉垣後方に末社と思われる複数の社殿が認められる。






















【現在の拝殿】
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【拝殿】
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【現在の境内と神楽殿】
f0191673_16092294.jpg 神楽殿は大正15年頃の建築と聞いている。
 また、神楽殿横の二基の石碑の内、右側手前の石碑は、昭和2年に建てられた郷社昇格記念碑である。




















【神楽殿及び末社】
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by kaz794889 | 2014-12-07 17:18 | 神社 | Comments(0)
2014年 12月 06日

大塚邑水路新造碑と中井清太夫生祠

【県営大塚排水機場内の石碑類】
f0191673_13201891.jpg 
 曽根丘陵の北の端の急な崖と、笛吹川の間に位置する甲府市上曾根から西八代郡市川三郷町上野にかけては、昔から水害の多い低湿地帯として知られており、特に市川三郷町大塚と同町上野の間を流れる押出川(オシダシガワ)が西北に流れているため、大塚沼から西流する水は押出川の土手により、流路を北に曲げて笛吹川に流れるため、流末の位置が高くなり、大雨のたびに悪水路の水は逆行して田畑が水没し収穫は皆無となるなどの憂き目をみてきたため、悪水路の改修は地元民の長い間の悲願となっていた。
 安永6年から天明7年まで甲府御役所の代官を務めた中井清太夫は、こうした大塚村の排水路の問題に深く関与し、その改修工事を企画、率先指導し、天明6年から天明7年春にかけて悪水路の改修を行っている。
 県営大塚排水機場(西八代郡市川三郷町大塚1061-8)敷地内に残る写真の石碑類(当該石碑類は排水機場近くの押出川右岸の堤防上から、排水機場敷地内に移されている)は、悪水路改修に関わる石碑類である。





【大塚邑水路新造碑】
f0191673_13202652.jpg 悪水路の改修により、耕地も広がり村も豊かになったことから、その恩恵を受けた地元民は、中井清太夫の功績と恩徳を称える石碑の建設について中井に許しを請うたが、代官として当然なすべきことをなしたに過ぎないとして承知しなかったという。
 中井の退官後、再び建碑を願い出たところ、(退官後であるため、)そのことの良し悪しは言わないと黙認したということから、写真の「大塚邑水路新造碑」が建立されることとなった。
 
 石碑は高さ147㎝、幅35㎝、奥行32㎝の角柱であり、悪水路改修工事から11年後の寛政9年5月に完成している。
 碑文の撰者は御普請役阿部太市藤原義行であり、中国最初の王朝「夏」の創始者で、黄河の治水に成功した「禹王」に続く者として、その治水工事を称え、永久に民の利益である旨の内容が刻まれている。
 




















【中井清太夫の生祠】
f0191673_13203332.jpg 中井清太夫の生祠は「お水神さん」と呼ばれており、側面には「天明六年丙午年十二月四日」と刻まれており、排水工事完成直後の建てられたものである。
 前記の新造碑には「庶民言いて以って神となす」とあることから、中井の許しを得ないまま、お水神さまと称しながら中井の生祠として祀られたものと思われる。
 なお、新造碑と生祠は「大塚邑水路新造碑及び代官中井清太夫生祠」として昭和62年3月31日に、当時の三珠町により町指定の史跡として指定され、合併後の現在は市川三郷町指定の史跡として引き継がれている。
 










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by kaz794889 | 2014-12-06 16:22 | Comments(0)