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2014年 11月 30日

濁川の庄塚

【甲府市西高橋町 濁川左岸の庄塚】
f0191673_14115177.jpg 甲府宰相徳川綱豊が甲府藩主であった元禄7年に代官触頭として着任した桜井政能(孫兵衛)は、濁川の水害に悩まされ、大雨の際は舟でなければ身動きが出来ないばかりではなく、一帯に池沼が多いため、穀物が不作で住民の苦しみが絶えなかったという、現在は甲府市となっている、蓬沢村、西高橋村など諸村住民の哀訴を聞き入れ、山口勘兵衛(素堂)の協力を得て、元禄9年に西高橋村から落合村までの凡そ2100余間の堤防を築き、濁川の流れを笛吹川に合流させるなどの改修工事を完成させている。

 当該地域の住民は桜井と山口の徳を称え、桜井霊神、山口霊神の生祠を堤上に併祠し、同地が一条庄と油川庄との境界にあたることから庄塚と云われている。



 






【桜井政能の生祠】
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元禄9年の改修工事完成後119年が経過した文化11年12月に完成した、『甲斐国志』巻之四十三古跡部第六「庄塚碑」には「「桜井霊神」と称する生祠を塚上に建て、側に「山口霊神」と称する石塔もあり、後年に祠の前に地鎮碑が建てられた。」旨が記されているが、現在は「桜井霊神」である桜井政能の生祠のみが残され、「山口霊神」の石塔は失われている。
 

現在残されている桜井政能の生祠には、その正面に「桜井社」、祠の裏に「享保十八癸丑十二月十四日建之 山梨郡 願主 蓬沢村 西高橋村」の文字が刻まれている。(桜井政能は享保16年に逝去しているため、現在残る生祠は、当初建立されたものとは異なり、後年再建された石祠と思われる。)
 










【濁川改修地鎮碑】
f0191673_14112821.jpg 桜井政能は享保16年1月14日に83歳で逝去している。
 桜井の逝去後、将来その由緒が忘れ去られることを恐れ、この石碑が建立されている。
 石碑には建立年月として「元文戌午七月」、建立者として「齊藤六左衛門藤正辰立」の文字が刻まれている。 
 戌午の歳は元文3年にあたり、桜井の逝去後5年目の年にあたる。
 また、建立者の齊藤六左衛門正辰は、桜井政能の兄政蕃の孫に当たり、当時は幕府勘定方であった。























【庄塚碑全景】
f0191673_14113675.jpg 庄塚碑が当初建てられていた位置は、濁川の大改修に伴い川筋となったため、昭和15年頃に東側の畑地に移されていたが、埋立処分地整備事業に伴い平成15年に現在の場所に移されている。
 





















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by kaz794889 | 2014-11-30 16:26 | Comments(0)
2014年 11月 24日

明治天皇円野御小休所跡

【明治天皇円野御小休所跡】
f0191673_10054304.jpg 明治13年6月22日、甲府行在所である山梨師範学校を御発輦された明治天皇は、中巨摩郡竜王村(現在の甲斐市)で御小休の後、北巨摩郡河原部村(現在の韮崎市)の御昼行在所に充てられた韮崎学校を経て、同郡円野村(現在の韮崎市)の円野御小休所において御小休されている。

 円野御小休所は甲州街道韮崎宿と台ケ原宿の間に位置する上円井の内藤家が充てられている。














【昭和10年代の御小休所跡と標石】
f0191673_10052059.jpg 円野御小休所跡は昭和10年11月2日に史跡名勝天然記念物保存法に基づく史跡に指定され、昭和11年11月に写真の「明治天皇圓野御小休所」の標石及び「明治13年 山梨三重両県及京都府御巡幸の際6月22日御小休所となりたる処にしてよく旧規模を存せり」と記された説明板が設けられている。













【現在の標石】
f0191673_10055929.jpg 前述の標石は甲州街道に面した建立当初の位置から、現在は御小休所表門の敷地内に移されている。



























【円野御小休所表門】
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【西側から見た御小休所跡】
f0191673_10060554.jpg 長野県側(西側)から見た、甲州街道に面する御小休所跡。
 
























【御小休所跡の御座所】
f0191673_10052689.jpg 昭和10年代の御小休所御座所。
 敷地内の標石後方には、現在も御小休所時代と思われる建物が残されている。



















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by kaz794889 | 2014-11-24 11:20 | 明治天皇旧蹟
2014年 11月 23日

菅原村 荒尾神社の忠魂碑

【荒尾神社の忠魂碑】
f0191673_22374674.jpg 甲州街道 台ケ原宿、荒尾神社に建つ陸軍大将 鈴木荘六の揮毫による忠魂碑である。
 菅原在郷軍人分会第五班が発起、台ケ原区の後援により昭和10年11月に建立されている。
  

























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by kaz794889 | 2014-11-23 22:48 | 忠魂碑 | Comments(0)
2014年 11月 22日

甲府愛宕町 精乳舎

【裏より見る精乳舎】
f0191673_14291131.jpg 牛乳搾取と販売を生業とする精乳舎は、林紋治郎により明治18年8月に山梨県内最初期の牛乳業者として甲府桜町で創業している。
 その後、明治19年4月には牛舎狭隘により甲府花園町の農産社を購入移転したが、中央本線甲府停車場建設に伴い、花園町が鉄道敷地として包括されることとなったことから、明治34年4月に甲府市愛宕町162番地(長禅寺の門前西側付近)に新築移転している。
 写真は愛宕町に移転後の明治39年頃の生精乳舎である。

 





 






【精乳舎の牛乳領収書】
f0191673_14290642.jpg 横浜でオランダ人のスネルに雇われて乳牛の飼育と搾乳を行ってい 前田留吉が、慶応2年に独立して6頭の乳牛を買い、牛乳販売を開始したことが国内最初の牛乳店と云われている。

 初期の牛乳販売は、ブリキ輸送缶で5勺ずつ量り売りを行っていた。 
 明治10年頃からは小ぶりのブリキ缶に入れて配達されていたが、明治21年頃からはガラスの牛乳瓶が使用され始め、明治38年頃には殆んどガラス瓶に代わっている。

 精乳舎が販売する牛乳は「精乳舎牛乳」として広く知られていた。写真は明治38年の領収書であり、2月分として、15日×1合=1升5合、75銭の領収である。














【表の側面から見る精乳舎】
f0191673_14291549.jpg  明治39年頃、愛宕山山麓方向の精乳舎である。
























【上記写真の現状】
f0191673_14305348.jpg 上記の写真の現状である。
 

























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by kaz794889 | 2014-11-22 15:43 | Comments(0)
2014年 11月 16日

甲府葡萄郷 愛宕園

【甲府葡萄郷 愛宕園の案内パンフレット】
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甲府葡萄郷において営業を続ける観光遊覧葡萄園の一つである「愛宕園」の昭和30年代の案内パンフレットである。
 
 パンフレットには愛宕園について、「愛宕園は身延線金手駅前にあり甲府駅より東へ数町、最も近く、甲府市の自然公園と云われて居る愛宕山山麓にあり、眺望よく、棚下のベンチで、宝石のように美しく熟した葡萄を賞味しながら、足下に展開する復興なった山都 大甲府市を始め・・・」と記されている。

 善光寺町、東光寺町を中心とした甲府葡萄郷における最初の観光遊覧葡萄園は、昭和7年に自家経営の葡萄園を一般に開放した「甲葡園」(現在も「こうぶえん」として営業)と云われ、終戦後観光が盛んになると、地域の事業者により昭和26年に「甲府ぶどう郷観光協会」が組織され、現在に至っている。
 最盛期には「愛宕園」や「甲葡園」など20件ほどの葡萄園業者が加盟していたが、現在は7件の業者が加盟していたという。
 























【パンフレット記載の案内図】
f0191673_14483882.jpg 愛宕園への案内図である。愛宕山山麓に位置する愛宕園には、甲府駅から徒歩か身延線金手駅で下車すぐである。
























【現在の愛宕園入口】
f0191673_14473870.jpg 現在の愛宕園の入口である。
 写真のガードレール下はJR中央本線及び身延線の線路である。






















【愛宕園附近からのJR身延線 金手駅】
f0191673_14560217.jpg 愛宕園附近から見た、最寄駅のJR身延線金手駅である。

























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by kaz794889 | 2014-11-16 15:34 | Comments(0)
2014年 11月 15日

明治天皇菅原行在所跡

【明治天皇菅原行在所跡】
f0191673_15593498.jpg 明治13年6月22日7時に甲府行在所である山梨師範学校を御発輦された明治天皇は、竜王村、韮崎学校、円野村を経て14時15分に北巨摩郡菅原村台ケ原の北原延世方に御泊御着輦され、翌日は長野県上諏訪に向け御発輦されている。

 昭和8年11月2日には史跡名勝天然記念物保存法に基づき、「明治天皇菅原行在所」として国の史跡に指定され、現在も残る標石と説明及び注意事項の掲示場が建てられている。

 なお、行在所の史跡指定は、他の関係史跡を含め昭和23年6月29日に指定解除されている。











【昭和11年頃の明治天皇行在所跡碑と行在所内部】
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 菅原行在所当時の建物は現在もよく旧態が残されている。


【菅原行在所跡に隣接する北原家住宅】
f0191673_15592604.jpg 菅原行在所跡は甲州街道の台ケ原宿に面して建てられており、右側に隣接している北原家住宅は敷地内の文庫蔵等と併せて、平成12年10月12日に山梨県指定文化財に指定されている。





















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by kaz794889 | 2014-11-15 16:53 | 明治天皇旧蹟 | Comments(0)
2014年 11月 13日

富士川小学校と中央本線

【昭和37年頃の富士川小学校と中央本線】
f0191673_22433995.jpg 昭和37年の甲府市立富士川小学校と学校北側の線路である。
 線路は左側が身延線、右側は複線化前の中央本線である。
 















【現在の同位置】
f0191673_22434766.jpg 写真後方の富士川小学校も現在は琢美小学校と統合され、この場所にあった校舎は取り壊され、新たな甲府市の施設が建設されている。
 中央本線が複線化され現在は三本の線路が通っているが、上記の写真に写る無人踏切は既に撤去されている。





















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by kaz794889 | 2014-11-13 22:54 | Comments(0)
2014年 11月 09日

『没後300年記念 柳澤吉保とその時代』展

【「没後300年記念 柳澤吉保とその時代」展のチラシ】

 (左:川越市立博物館、右:川越市立美術館)
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 『没後300年記念 柳澤吉保とその時代』展を今日観覧した。
 同展は第1会場を川越市立博物館、第2会場を川越市立美術館として平成26年10月18日~12月1日を開催期間として現在開催中である。
 
 柳澤吉保は元禄7年に川越城を賜り初めて城持ち大名となり、宝永元年までの10年間を川越藩主として務め、その後、甲府へ所替えとなり甲府藩主となっている。なお、柳澤吉保が甲府に所替えとなった後、川越藩主には谷村藩主の秋元喬知が移封され、明和4年に秋元凉朝が山形藩に移封となる63年間、秋元家が川越藩主を務めている。
 本年、平成26年は柳澤吉保が江戸駒込の下屋敷において57歳で没してから300年といった節目の年であり、これを記念して開催されているのがこの展覧会である。

 上記の開催案内チラシによれば、今回の展示は公益財団法人郡山城史跡・柳澤文庫保存会と連携し、柳澤文庫の未公開資料を含む関係資料を通じて川越藩主時代の柳澤吉保の事蹟を中心に展示しているとのことである。
 なお、今回の展示で特に注目したい展示は、11月5日から4点が並んで展示されている狩野常信筆の次の柳澤吉保像である。
 衣冠束帯姿の甲府市一蓮寺及び韮崎市常光寺蔵の柳澤吉保像(いずれも山梨県指定文化財)、風折烏帽子姿の大和郡山市永慶寺蔵及び柳澤家伝来の柳澤吉保像。
 (前述の吉保像とともに展示されている恵林寺蔵の甲州市指定文化財「柳澤吉保坐像」も、細部までじっくりと鑑賞することができるよう、三方から鑑賞可能な形で展示室の最初のコーナーで展示されている。)



【第1会場:川越市立博物館】
f0191673_15215749.jpg 第1章 甲斐源氏の末裔 柳澤吉保
   第1節 柳澤家の由緒
   第2節 吉保の姿
 第2章 徳川綱吉と柳澤吉保
 第3章 川越藩主 吉保

 4点の柳澤吉保像は「第2節 吉保の姿」で展示されている。
















【第2会場:川越市立美術館】
f0191673_15220913.jpg 第4章 和歌と六義園
 第5章 吉保活躍期の絵師-時代の優品とゆかりの作品
 第6章 柳澤家の画事-吉里・淇園・伊信

 川越美術館は博物館と同一敷地内の隣接地である。

















【「没後300年記念 柳澤吉保とその時代」展の図録】
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by kaz794889 | 2014-11-09 16:55 | 柳澤吉保 | Comments(0)
2014年 11月 08日

若尾逸平の銅像

【若尾逸平の銅像と祝賀会招待状】
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 若尾逸平の銅像は長禅寺裏の愛宕山麓に、佐竹作太郎を始めとした有志により明治42年に建立されている。
 また、銅像の寄贈にあたり明治42年5月13日に機山館において若尾民造の主催による祝賀会が開催されている。



【奮闘の勝利者 若尾逸平翁の銅像(甲府市愛宕山に在り)】
f0191673_11021014.jpg  銅像の建つ場所は当初「尚寿園」と名付けられたが、大正10年には新たに若尾公園として開園している。



















【若尾逸平の銅像ミニュチュア】
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by kaz794889 | 2014-11-08 11:58 | Comments(0)
2014年 11月 03日

若尾公園の痕跡

【昭和20年代後期の若尾公園付近の地図】
f0191673_15540072.jpg 昭和20年代後期の若尾公園付近の地図である。
 
 長禅寺北側と浄水池(現在の甲府市水道局上水道配水場)の間に位置する若尾公園は、若尾逸平の銅像が建立されていた若尾家所有の尚寿園を基盤に、大正10年12月に同家が開園した公園である。
  















【昭和初期の若尾公園】
f0191673_15540427.jpg 写真の右側奥が若尾公園の入口である。
 また、写真に写る銅像は、明治42年に建立され昭和18年3月に金属の供出により献納された若尾逸平の銅像である。
 
     

















【現在の若尾公園跡附近の地図】
f0191673_15540701.jpg 若尾公園西側に位置している山梨英和学院は、明治39年に地図の山梨英和中の位置に新校舎を建設し移転してきたが、昭和20年7月の甲府空襲で焼失し、終戦後同位置に復興校舎を建設している。
 その後、昭和30年に近代校舎の建設が始まると、同年12月に隣地の若尾公園の敷地を買収し、昭和36年7月にはその敷地にプールや体育館の建設が計画され、昭和37年8月にプールが、昭和38年3月には体育館が完成している。(左の地図の山梨英和高体育館)




















【尚寿園の石柱】
f0191673_15542438.jpg 若尾公園跡の敷地は前述のとおり、現在は山梨英和高校の敷地となっている。
 
 公園内にあった若尾逸平の銅像の台座は、昭和18年3月の金属供出後も敷地が買収されるまでそのまま残されていたが、愛宕山中腹の限られた敷地の中にびっしりと英和高校の校舎が建設され敷地内も整備されている。
 こうした状況の中、若尾公園時代の痕跡が何かしら残されていないのかと考えながら、今年の夏に附近を歩いたところ、「尚寿園」と刻まれた写真の石柱の存在を確認した。
 尚寿園は、若尾逸平の銅像完成後、若尾公園の開園までの同地の名称である。










【若尾公園の入口跡】
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by kaz794889 | 2014-11-03 17:21 | Comments(0)