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2014年 08月 30日

金櫻神社 4「焼失前の遺構」

【金櫻神社焼失前の境内図】
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【休憩所】
f0191673_22455708.jpg 昭和30年12月の火災により金櫻神社境内の社殿は全て焼失しているが、前記の境内図に描かれている随身門下の「宝物陳列所」(青囲みの建物)は焼失を免れている。
 左記の写真がその建物である。現在は殆ど薄れかけた「休憩所」という木札が掲げられ、建物を囲む壁は全て取り払われ、大規模な東屋といった風情である。
  
















【建物後方からの休憩所】
f0191673_22460719.jpg 後方からの休憩所である。























【境内地後方 北側の石垣群】
f0191673_22461978.jpg 建物とは異なるが、焼失以前に建造された土木的遺産でもある石垣が、境内地の後方(写真は再建された拝殿の左側。)に残されている。
 
 焼失後に境内地が再造成され、焼失した社殿の基礎となっていた石積なども全て取り払われ現在はまったくの平地となってしまったが、前記の境内図にも描かれている、境内地社殿の後方の石垣である。
 

















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by kaz794889 | 2014-08-30 10:35 | 神社 | Comments(0)
2014年 08月 24日

旧棡原村役場


【旧棡原村役場跡 1】
f0191673_17364489.jpg 
 北都留郡棡原村は明治22年7月1日の町村制施行により発足し、いわゆる昭和の大合併により、昭和30年4月1日に上野原町、西原村、島田村、大鶴村、巌村、甲東村、大目村と合併し新制 上野原町に、その後の同町と秋山村の合併により現在は上野原市となっている。
 現在の棡原は長寿の里として知られている地域である。
 
 棡原地区を訪れた際、地元の人にかつての棡原村役場について尋ねたところ、既に旧役場庁舎は取り壊されているものの、村役場時代のお蔵が残っていることを聞いた。
 写真の土蔵が件の建物であり、右側の空き地にかつての役場庁舎が建てられていたという。











【旧棡原村役場跡 2】

f0191673_17365204.jpg かつての村役場は、本庁舎に隣接して土蔵形式の文書庫が建てられている例が多く、この土蔵も役場の文書庫として使われていたものと推察できる。






















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by kaz794889 | 2014-08-24 22:22 | 役場 | Comments(0)
2014年 08月 22日

甲府市上下水道局 中区配水場


【甲府市水道配水池】

f0191673_20192459.jpg 写真右側の施設は愛宕山山麓(英和高校の北側)の甲府市愛宕町372番地にある、昭和初期頃の甲府市上水道局中区配水場(開設当時の名称は低区配水池)である。
 甲府市における水道敷設は、明治42年11月10日に相生小学校において起工式、大正元年11月10日に現在の中区配水場において竣工式が行われている。(創設工事の完了は大正3年3月である。)












【中区配水場 正門】
f0191673_20184554.jpg 中区配水場は現在も水道施設として稼働しており、敷地の周囲はフェンスで囲まれ関係者以外の立ち入りはできないため、写真の正門を始めとした創設当時の明治期土木遺産が良好な状況で残されている。



















【中区配水場 正門内の石段】
f0191673_20185411.jpg 通常は入場できない配水場内には創設当時に植樹された江戸彼岸桜、大島桜、染井吉野などといった桜の巨木約70本が残されている。
 このため十数年前から毎年4月上旬の1週間程度、桜の開花時に合わせて配水場が一般開放されている。


















【中区配水場内 西側流出井の上部】
f0191673_20190259.jpg フェンスの外から見える創設当時からの配水場内西側の流出井の上部である。
 後記の写真で分かるように、対面の西側にも同じ様式の東側流出井が現在も残されている。




















【甲府市水道配水池の拡大写真】
f0191673_20430883.jpg 東側方向から見た中区配水場である。
 左側矢印附近が配水場の正門、一段高い位置に対面して建つ二つの建造物が流出井である。
 中央下部の官舎以外は現在も概ね当時の姿を残している。















【中区配水場正門前から見た甲府市街】
f0191673_20191006.jpg 正門前から見た甲府市街の西方である。
 中央に写る茶色の建物が山梨英和学院、その上部が甲府城跡である。





















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by kaz794889 | 2014-08-22 22:14 | Comments(0)
2014年 08月 21日

恵林寺 四脚門


【東山梨郡 松里村 恵林寺】
f0191673_21291130.jpg 明治39年に開催された山梨県主催一府九県連合共進会に際し、大塚蒼湖、鈴木尚重が描いた山梨県内名勝地18か所を紹介する、山梨県発行の木版画集『甲山峡水』に掲載された恵林寺四脚門である。
 武田信玄の菩提寺である恵林寺は、この当時から山梨県内名勝地の一つとなっていた。



















【重要文化財 恵林寺四脚門】
f0191673_21293854.jpg 武田信玄の菩提寺として整えられた恵林寺も武田氏滅亡により、天正10年に織田信長の兵火により諸堂は全焼している。
 長くこの四脚門は織田の兵火を逃れた門としてその由緒が伝わっていたが、昭和46年に行われた解体修理の際に確認された棟札により、慶長11年に再建されたものであることが明らかとなった。
 切妻造、檜皮葺によるこの四脚門は、軸部に丹塗りが施されているため、通称「赤門」と呼ばれ、明治40年8月28日に国の重要文化財に指定されている。












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by kaz794889 | 2014-08-21 21:56 | 寺院 | Comments(0)
2014年 08月 20日

金櫻神社 3 「焼失前の社殿 2」


【明治29年の金櫻神社境内】

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【金櫻神社 随神門】


f0191673_16031554.jpg 焼失した随神門は梁三間、桁四間、檜皮葺であり、門に掲げられていた「金櫻神社」の額は水戸徳川斉昭公の筆によるものであった。
 写真左側の一段高い石垣上の社殿は後述する神楽殿である。
















【現在の随神門跡】

f0191673_16063811.jpg 随神門は焼失後再建されず、門の跡は石垣と石段が残るのみである。






















【金櫻神社 神楽殿】

f0191673_16070797.jpg 焼失した神楽殿は三間四方、八棟造り檜皮葺であり、徳川綱重公が寄進したものと云われ、写真でも分かるとおり周囲の彫刻は「繊工精技至れり尽くせり」と云われていた。



























【現在の神楽殿跡(石垣)】

f0191673_16072024.jpg 随神門跡の石段下から眺めた神楽殿跡の石垣である。随神門と同様、焼失後の再建はされていない。





















【神楽殿から見た境内】

f0191673_16073253.jpg 神楽殿の内部から見た境内の社殿(左から順に神社拝殿、東宮本殿、鐘楼)である。
 





















【参籠所と境内社殿】

f0191673_16073789.jpg 神楽殿(右側)から渡廊下で結ばれた社殿が参籠所(さんろうじょ:神社に詣で一定期間籠って神に祈願する社殿)である。
 また、中央が神社拝殿、幣殿、本殿である。
 左記の写真のとおり、境内一杯に社殿が建てられていた状況は、焼失後に再建された現在の境内からは想像し難いのではないだろうか。














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by kaz794889 | 2014-08-20 17:11 | 神社 | Comments(0)
2014年 08月 19日

甲府・柳町通り 2

【(甲府市名勝)柳町四丁目大通】
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 明治40年代の「中央4丁目信号」附近である。
 鰹節の店頭幕は冨士彦であり現在も同じ場所で営業を続けている。
 また、左側の電柱下は当時「自動電話」と称していた公衆電話ボックスである。柳町(正式には「柳町四丁目相生町交叉点角」)の自動電話と云われ、明治42年に甲府市内における2番目(最初の公衆電話は明治40年2月に甲府駅構内に設置されている。)の公衆電話として設置されており、昭和2年2月期(当時は前述2か所の他に桜町、遊亀公園、春日町甲府館前の5か所に公衆電話が設置されていた。)における1か月の電話利用は1日平均24回、合計30円30銭であったという。
 柳町通りの最北が柳町1丁目であり、この4丁目付近は柳町の南端であり、更に南側を流れる濁川を越えると「花は紅、柳は緑」の一節を語源とする緑町に至るのである。




【現在の同位置】
f0191673_15055963.jpg 現在の同位置である。
 昭和20年の甲府空襲により、この一帯の殆どは焼失しており、名残りの建物は一切残っていないが、道筋だけは道幅を含め当時のままである。




















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by kaz794889 | 2014-08-19 23:33 | 甲府市街点描 | Comments(0)
2014年 08月 18日

旧桃園信用組合

【JAこま野 桃園支所】
f0191673_14150404.jpg 南アルプス市のJAこま野 桃園支所(同市桃園928)の建物である。
 農業協同の合併が進み現在はJAこま野桃園支所となっているが、かつての桃園農業協同組合(昭和23年5月15日創立)である。 




















【旧桃園信用組合時代の建物】

f0191673_14151599.jpg モルタル造りの建物に隣接する建物は、桃園農業協同組合の前身である、明治33年に公布された「産業組合法」に基づき昭和3年に設立した「桃園信用組合」時代の建物である。
 信用組合は昭和18年の国内態勢強化方策による、農村におけるあらゆる団体の一本化により農業会となり、終戦後、「農業協同組合法(昭和22年法律第132号)」に基づき「桃園農業協同組合」となっている。

 戦前期に建設された「信用組合」や「農業会」時代の建物を引き継いだ農業協同組合の建物も以前は各所で散見されたが、建物の老朽化と農協の合併、再編により、当時の建物は現在殆ど残されていない。










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by kaz794889 | 2014-08-18 16:10 | 山梨の近代建築 | Comments(0)
2014年 08月 16日

金櫻神社 2 「焼失前の社殿」

【明治中期の金櫻神社境内】

f0191673_20453554.jpg 明治29年4月に発行された『甲斐国総社御嶽山金櫻神社全図』の一部である。
 当ブログの「金櫻神社 1」に記載のとおり、金櫻神社は昭和30年12月に失火のため社殿が全焼していること。また、現在の社殿再建にあたり境内の段差なども全て取り払い平地化しているため、現在の様子から往時の境内を偲ぶことは極めて困難であり、境内全体を俯瞰できるこうした境内絵図などでなければ境内の社殿配置の認識は難しい。

 左の境内絵図を基にかつての社殿を紹介していきた。
 





【甲州御嶽 金櫻神社 東宮本殿と太鼓堂】
f0191673_20460438.jpg 境内絵図で赤色に囲んだ明治40年頃の「東之宮」と「太鼓堂」である。
 「東之宮」は「金櫻神社東宮本殿」として明治40年8月28日に旧国宝に指定されその後は国の重要文化財として保存されていたが昭和30年に他の社殿とともに焼失している。
 「太鼓堂」は梁三間、桁三間、檜皮葺き。建立年月は不詳ながら、徳川家康が平岩親吉に命じて再建させたと云われ、明治維新前は太鼓ではなく釣鐘が吊られていたという。
 











【昭和28年頃の東宮本殿】
f0191673_20460403.jpg  昭和28年7月30日発行に山梨県教育委員会から発行された『山梨県文化財』には「方三間入母屋造り檜皮葺き、鎌倉時代末期の作とされているが、鎌倉時代の入母屋造り本殿建築の遺構は全国でも比較的少なく、建築史上興味深いものと云われている。正面一間に向拝が附せられ中央の蟇股には竹が彫刻され手挟は菊の籠彫で共に桃山時代流行の手法であるが、後補したようである。」と記されている。
 なお、写真右側に写る太鼓堂は東宮本殿の下(前記の写真参照)に建立されていたが、この位置に移築されている。









【甲州御嶽 金櫻神社 中宮本殿と本宮】
f0191673_20460574.jpg 境内絵図で赤色に囲んだ明治40年頃の「中ノ宮」と「拝殿」「本社」である。
 「中ノ宮」(写真の右側)は「金櫻神社中宮本殿」として東宮本殿とともに明治40年8月28日に旧国宝に指定されその後は国の重要文化財として保存されていたが昭和30年に焼失している。
 「拝殿」(写真の左側)は金櫻神社本殿の拝殿であり、梁四間、桁五間、檜皮葺きの社殿であり、浅野左京太夫幸長の建立と云われていた。
 「本社」(中ノ宮の後方)は金櫻神社本殿であり、梁五間、桁三間、檜皮葺きの社殿で武田義信の建立と云われていた。 








【昭和28年頃の中宮本殿と本宮本殿】

f0191673_20460549.jpg 前述の『山梨県文化財』には中宮本殿について「中宮は正殿(本殿)と東宮の中間にあって、日本武尊を祀り三間社流造り檜皮葺きで質朴端正な姿を見せ、鎌倉末期の建造とされている、正面三間に八双金具で飾った板扉を立て荘厳を極め、本殿向拝上三個、長押上に配置された三個の蟇股は蓮花彫刻が施され、神仏混合の影響を示している。」と記されている。
 なお、中宮本殿は昭和11年の大修理により、前記の写真にあった中宮本殿前の建物を取り除き、写真のとおり改修されている。
 また、左側に写る金桜神社本殿には後方左右の柱に、左甚五郎が作成したと伝えられる昇龍、降龍が残されていた。

 






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by kaz794889 | 2014-08-16 23:07 | 神社 | Comments(0)
2014年 08月 10日

金櫻神社 1

【金櫻神社 拝殿全景】
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 金櫻神社は少彦名命、素戔嗚命、大巳貴命を祭神とした神社であり、雄略天皇の御代に金峰山山頂に鎮祭されていた祭神の里宮がこの地に開かれたという。
 文武天皇の御代に至り、大和の国の金峰山から魔障を除く仏である蔵王権現が祀られ、神仏併せ持つ日本三御嶽、三大霊場として広く知られ隆盛を極め、領主、武将の信仰も厚く寄進された鎌倉、室町期からの社殿を始めとする宝物は時代の文化の粋を集めていたが、明治維新後の神仏分離により信仰も薄らぎ、社家も分散し往時の姿は次第に薄らいでいったという。
 なお、大正10年9月21日に県社に列せられている。








【金櫻神社 参道石段からの全景】

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  昭和30年12月18日、電気工事作業員のコタツの火の不始末が原因(当時の新聞記事による。)で境内の社殿等九棟が全焼しており、現在の社殿はその後再建されたものである。
 焼失した社殿の内、中宮本殿及び東宮本殿は鎌倉、室町期の建物であり、明治40年8月28日に旧法の国宝に指定されていた重要文化財であった。
 社殿の焼失後、焼失前の境内段差は平地かされ、往時の境内の面影は失われている。
 
 焼失前、かつての金櫻神社については次回としたい。 










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by kaz794889 | 2014-08-10 18:57 | 神社 | Comments(0)
2014年 08月 03日

金桜神社門前の旅館 1 「御嶽館」

【金桜神社門前】
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【(甲斐御嶽山) 金桜神社大鳥居】
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  昭和2年に発行された案内記によれば、金桜神社の門前について、
  「御嶽行自動車にて甲府を発し約30分にして勝地御嶽の入口たる天神平に着す。此処にて小憩の後、荒川の渓流に沿い御嶽百景を眺めつつ溯ること約一里にして仙娥滝に至る。此処を約一町の急坂登り猪狩村に出ずれば平地となる。更に行くこと約20分にして御嶽に到着す。縣社金櫻神社あり、年中参詣者及び遊覧客多く、昔より信仰者多く参拝せしを以て宿坊ありしが、今は旅館と変じ設備も完全し、大に遊覧客を便しつつあり。」と記している。

  
現在は甲府市御岳町となった金桜神社門前地域も、昭和29年の合併までは「中巨摩郡宮本村御嶽」が
この地の住所であった。

 
  かつては御嶽千軒と言われるほど殷賑を極めた地域であったが、明治維新以降、地域の住民は他所に移住しており、昭和6年当時の案内記は、
  「今は殆ど百戸足らずで僅かに往年の面影を存するに過ぎぬ様になったが、探勝の客や参拝の士が多く、旅館、郵便局その他商店が軒を並べ山中の一町場をなしている」としている。

  金桜神社の門前で営業していた複数の旅館も、現在は全て廃業しているが、門前に残るかつての旅館を紹介したい。




【昭和2年頃の「御嶽館」】
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  金桜神社の参道石段直下で営業していた旅館(前述の神社門前写真の鳥居右側に写る建物)が「御嶽館」である。
  峡北地方出身の主人が明治19年に御嶽の地で雑貨商を営んだ後に、旅館を兼業したのが「御嶽館」の始まりと云われる。



【現在の御嶽館】
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  既に旅館は廃業し掲出されていた旅館の看板等も下ろされているが、当時の建物が現在も引き続き住宅として使用されている。




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by kaz794889 | 2014-08-03 16:43 | 御嶽昇仙峡 | Comments(0)