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2014年 05月 31日

「花子とアンとその時代」 5

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【「第5週 波乱の大文学会」から】
  甲府では、吉太郎が朝市に、新たに芽生えた夢を打ち明けていた。兵隊になりたいという夢だ。東京の女学校に通うはなや、家に送金するために工場で働くかよに先を越され、長男として忸怩たるものを抱えていた吉太郎は、軍隊に入れば周造やふじに楽をさせてやれると意気込む。それを聞いた朝市は複雑な思いだった。実は、朝市の父親も兵隊だったが、朝市が小さい頃、日清戦争で命を落としていたからだ。



【日清戦役献納に係る褒状】
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 明治27年8月1日の清国への宣戦布告による日清戦争開戦から、今年は120年を迎える。
 甲府市役所から昭和3年10月15日に発行された『甲府市制四十年記念誌』によると、「明治二十七年韓山の風雲漸く険悪を告ぐるや、市内在籍予備役、後備役の兵員に対し応召準備を注意すると共に予餞会を挙行し応召準備を為さしむ」と日清開戦による甲府市内の状況と、甲府市出身者の日清戦争による論功行賞者は72名、戦病死者は2名であったことが記されている。


 
【「征清役従軍死者忠魂碑」】
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  武田神社境内西曲輪に建立されている「征清役従軍死者忠魂碑」である。
  石碑正面には山梨県出身の日清戦争従軍戦病死者143名の氏名が刻まれている。




【「征清役従軍死者忠魂碑」の裏面】
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by kaz794889 | 2014-05-31 17:06 | 花子とアンとその時代 | Comments(0)
2014年 05月 25日

高田村 宮本共同墓地内の忠魂碑

【宮本共同墓地内の忠魂碑】
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  西八代郡市川三郷町を流れる印川に架かる桜本橋の南側、宮本共同墓地内に建つ忠魂碑である。
  「元帥 陸軍大将子爵 川村景明」の揮毫であるこの忠魂碑は、大正14年10月に帝国在郷軍人会高田村分会により建立されたものである。  




【桜本橋からの印川下流方向】
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  印川はいわゆる天井川である、写真の先の下流方向で、県道とJR身延線がこの川の下、土手をトンネルで貫いている。




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by kaz794889 | 2014-05-25 20:29 | 忠魂碑 | Comments(0)
2014年 05月 19日

生誕105年 太宰治展 ━ 語りかける言葉 ━

【県立神奈川近代文学館】
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  「生誕105年に開催する本展は、こうした太宰作品の魅力を探りながら、読者に真っ直ぐ向き合い、心をつくし、珠玉の物語を紡いだ、稀代の物語作者の生涯を紹介するものである。」とのコンセプトによる、県立神奈川近代文学館の春の特別展、「生誕105年 太宰治展-語りかける言葉-」が開催(平成26年4月5日から5月25日まで)されており、先日同展を観覧した。



【太宰治展の案内チラシ】
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【神奈川近代文学館報 №124】
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  今回、久しぶりに「横浜・山手 港の見える丘公園内」にある神奈川近代文学館を訪ね太宰治展を観覧した。訪れた日が休日ということもあり、多くの人が来館され衰えね太宰治人気を感じることができた。
  展示構成の中の「再出発」というコーナーが、御坂峠の天下茶屋滞在から甲府市御崎町に僑居した甲府時代の展示であり、当時の写真や原稿、書簡などが紹介されている。
  今回の太宰治展における、金木町の津島家と作家以前の津島修治を紹介する展示は圧巻であり、同展担当スタッフの方々の開催に向けた意気込みといったものが感じられた。また、愛娘と太宰夫妻のスナップが数多く貼り付けられている「太宰の家族アルバム」が今回展示されている。このアルバムの中には、これまでに紹介されている写真も散見されるなど、こうした太宰治の家族写真がこのアルバムの中に収められ、美知子夫人を始めとした家族の方々によって大切に保管されてきたことに感慨深いものを感じたところである。
  5月25日までの開催期間ではあるが、是非観覧されることをお奨めしたい。

【山梨日日新聞 平成26年4月19日掲載記事】
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  左記の新聞掲載記事にある井伏鱒二の遺族から寄贈された書簡類は同展の展示最終コーナーに特設展示されている。



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by kaz794889 | 2014-05-19 01:24 | Comments(0)
2014年 05月 17日

甲府市南口町界隈

【昭和30年代の南甲府駅付近の市街図】
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  甲府市南口町はJR身延線南甲府駅の北側に位置する町であり、昭和41年に施行された住居表示整備に伴う町名であり、東一条通、東二条通、東三条通、東四条通、東五条通、東六条通、北大路の各町と伊勢町、住吉本町の一部を対象として改称している。

  昭和3年に身延線の前身である富士身延鉄道が甲府駅まで全通し南甲府駅(開業時は「甲府南口駅」)が開業した後の昭和8年6月、甲府市は用地別地帯計画として甲府市内に住宅地帯、工業地帯、商業地帯を内定しており、その際に甲府市南部の甲府南口駅を中心とする一帯より伊勢町、里垣方面に及ぶ地帯が工業地帯として内定している。
  工業地帯を定めるにあたっての必要条件としては、生産能率の増進を第一に、その位置は地勢、気象、交通運輸の状況、土地開発の動向などを勘案したという。昭和9年2月には、具体的な町名として現在は南口町となっている東五条、東六条各町の全域及び東三条、東四条各町の一部も工業地帯の対象指定町の一つとなっている。
 最終的には住宅、商業、工業の三地帯の指定は未決定となったが、工業地帯指定の必要条件を同地域は満たしていることもあり、現在の南口町地域は工場や倉庫が多く立地する地帯となっていったのである。

 ※ 上記市街図の①から④は次の写真の標題の①から④にリンクしており、地図上の数字の傍らに表示さ  れた傍線の方向を撮影したことを表している。


【南口町界隈 ①】
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  市街図のとおり、南甲府駅を中心とした東四条、東五条といった地域にはかつて多くの倉庫が建てられていたが、国鉄の分割民営後以降から倉庫は取り壊され、その跡地には新たな建物が建てられたり空き地とっている。
  駅前の日本通運(正式には甲府通運株式会社南甲府営業所)、秩父セメント倉庫から鈴与貯炭場の間も倉庫が林立していたが、現在は二社の異なる葬祭センターとなっている。
  
  写真の位置はかつて甲府倉庫の倉庫が建てられており、写真左側の身延線の線路沿いにも線路側に入口を設けた倉庫が建てられていた。




【南口町界隈 ②】
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  この界隈の倉庫は現在、全て取り壊されており倉庫が林立していた面影は殆ど失われているが、旧東五条通りから旧東四条通りに通じる旧東五条通りの少し奥まった位置に、旧鈴与倉庫(現在は他社の倉庫)であった倉庫が一棟のみ、この通り界隈における唯一の名残りとして今も倉庫として残されている。




【南口町界隈 ③】
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  道筋はかってと変わりなく残っており、僅かな町の面影は感じることができるが、当時の建物は全てなくなっている。




【南口町界隈 ④】
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  旧北大路の通りに面した北側の南口運輸倉庫は、当時から営業している会社であるが、写真右側に写る市道が拡幅されたため、以前よりは敷地が縮小されたものの、この敷地内にも倉庫の一部(写真の奥)が現在も残されている。




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by kaz794889 | 2014-05-17 19:52 | 甲府細見 | Comments(0)
2014年 05月 10日

「花子とアン」とその時代 4

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【「第4週 嵐を呼ぶ編入生」から】
  その頃、甲府では、朝市が一つの決断を母親のリンに打ち明けていた。「師範学校を受けて、教師になる」
  東京で勉学にいそしむはなに触発され、朝市は本を読むため、教会に通い続けていた。



【山梨県師範学校の二代目校舎】
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  朝市が母親に打ち明けた場面が、歩兵第49連隊が甲府を衛戍地として甲府に入った明治42年4月以前であるドラマのストーリーからすると、当時の師範学校は山梨県師範学校であり、その場所は甲府市錦町(現在の甲府市中央1丁目11の中央公園の位置)であった。
  写真は明治17年9月に竣工し明治43年3月まで使用されていた山梨県師範学校の2代目校舎である。



【山梨県師範学校の初代校舎】
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  明治9年7月に新築された山梨県師範学校の初代校舎である。
  この校舎は明治13年6月の明治天皇山梨御巡幸の際には行在所とされた由緒ある校舎であったが、明治16年1月29日に校舎本館からの失火により本館と左右の附属建物二棟が焼失している。


【徽典館跡碑】
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  明治8年に山梨県師範学校と改称された同校は、江戸寛政年間に創設された甲府勤番子弟の教育施設である甲府学問所、後の文化2年に命名された徽典館(キテンカン)を嚆矢としており、甲府城追手門の南側から、徽典館跡碑の建つこの場所に明治9年の初代校舎落成とともに移転している。
  「徽典館跡碑」はかつて山梨県師範学校のあった中央公園内に、学制百年を記念して昭和48年3月に建碑された記念碑である。
 


【明治末期の甲府市街図】
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  山梨県師範学校は校舎狭隘のため、西山梨郡相川村昌永(現在の甲府市武田4丁目)に移転することとなり、明治43年3月に新築移転している。
  左記市街図の青色で囲んだ部分が明治43年に新築指定した山梨県師範学校の位置である。
  また、赤色で囲んだ部分が移転前の山梨県師範学校の位置である。

  山梨県師範学校は昭和24年5月の新制大学設置に伴い、山梨大学学芸学部となり、昭和41年に教育学部、平成10年には教育人間科学部と改称し現在に至っている。
  なお、青色で囲んだ新築移転後の山梨県師範学校の位置は、現在山梨大学教育人間科学部となっている。





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by kaz794889 | 2014-05-10 17:45 | 花子とアンとその時代 | Comments(0)
2014年 05月 06日

明治45年東宮行啓を歩く 3 【誓願寺境内御野立所】

【大宮山 誓願寺】
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  山梨県行啓(明治45年3月27日から4月4日まで)において、東宮殿下(後の大正天皇)は近郊行啓として4月1日に西山梨郡里垣村(現在:甲府市東光寺1-3-27)の浄土宗大宮山誓願寺境内に設けられた御野立所に成らせられている。


【明治末期の市街図】
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誓願寺は甲府市の愛宕山南麓にあり、昭和12年8月に甲府市に合併するまでは西山梨郡里垣村に位置していた。  



【里垣村誓願寺境内御野立所ニ成ラセラル】
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  明治45年4月1日7時30分に御泊所である甲府城内の機山館を御出門され、誓願寺に成らせられている。
  山梨県行啓の主たる目的は近衛旅団幹部演習の御視察であり、前日の3月31日14時25分に甲府駅着の列車により到着された近衛師団長閑院宮殿下も、当日誓願寺に先着され、東宮殿下とともに演習を御覧になっている。




【誓願寺境内】
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  誓願寺境内の現在の状況である。
  正面の総門は甲府空襲により焼失し再建されている。




【誓願寺御野立所】
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  誓願寺境内、鐘楼の東側に御野立所が設けられている。



【「皇太子嘉仁親王駐駕之所」碑】
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  東宮殿下の駐駕を記念し、東宮大夫波多野敬宜の書により御野立所が設けられた位置に大正2年に建立された「皇太子嘉仁親王駐駕之所」記念碑である。



【誓願寺境内】
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  東宮行啓時の誓願寺本堂である。
  写真の本堂、方丈、庫裏、総門などの諸堂は甲府空襲で焼失している。



【誓願寺本堂】
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  再建された現在の誓願寺本堂である。




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by kaz794889 | 2014-05-06 12:55 | 明治45年東宮行啓を歩く | Comments(0)
2014年 05月 05日

「花子とアン」とその時代 3

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【「第1週 花子と呼んでくりょう!」から】
 その頃、吉平は教会に通っていた。はなに洗礼を受けさせ、東京の女学校に入学させようと考えていたのだ。・・・・・・一方、大人たちの思いを知らないはなは、吉平に連れていかれた教会で、たくさんの本が並ぶ図書室を見て大興奮する。




【明治後期の甲府市街】
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 村岡花子の父親である安中逸平は静岡県で茶商を営んでいたが甲府に移り住み、てつと結婚している。
 キリスト教のカナダ・メソジスト派の信者であった逸平は、花子が2歳の時に同派を系譜とする甲府教会の8代目牧師であった小林光泰から幼児洗礼を受けている。
  ドラマに出てくる「阿母里基督教会」は韮崎市民俗資料館に移築されている韮崎出身の実業家小野金六の生家である韮崎宿の豪商小野家の蔵屋敷を使用しているが、村岡花子が洗礼を受けた明治28年頃の甲府教会は甲府市桜町60番地にあり、約70坪の敷地内に明治24年5月に建てられた約42坪の土蔵造り平屋建ての会堂であり、新会堂建設工事のために取り壊された大正4年まで使用されていた。




【明治後期の甲府市街図】
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  甲府教会のあった甲府市桜町60番地は赤マル印の位置である。
  また、上記の写真に写る「進徳幼稚園」は
  赤マル印の左側の幼稚園は、上記の写真に写る「進徳幼稚園」であり、現在その位置は「甲府市社会教育センター」となっている。




【現在の日本基督教団甲府教会跡】
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  甲府教会のあった甲府市桜町60番地の現在の状況である。



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by kaz794889 | 2014-05-05 15:47 | 花子とアンとその時代 | Comments(0)
2014年 05月 03日

城北新道開鑿碑

【城北新道開鑿碑】
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  甲府市中央2丁目の民家の宅地内に建つ「城北新道開鑿(かいさく)碑」は明治43年5月に建立された石碑である。
  石碑に刻まれた内容によると、明治36年6月に中央本線が甲府まで開通し、甲府城清水曲輪の位置に甲府停車場が設置されたことに伴う線路の敷設により、甲府城の周囲にあったこれまでの道路が分断され、特に東西の交通路の閉鎖は周辺住民にとっては不便甚だしいものであったという。
  このため、周辺住民等の有志者が道路の新設を発起し義捐金を募り、1000余円を集めたことなどから甲府市もその趣旨に賛同し、明治43年4月に新たな道路の建設が起工され、長さ250間、幅3間、工費3300余円の城北新道が完成したという。



【明治42年の甲府市街図】
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  新道、シンミチ(赤線部分)が城北新道の位置である。
  周辺住民がこれまで利用していた東西を結ぶ生活道路は中央本線の敷設により消滅している。



【現在の城北新道】
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 現在の城北新道(上記市街図の矢印方向)である。
 道路に沿った右側民家の先に「城北新道開鑿碑」が建てられている。道路突き当りは甲府城稲荷櫓である。



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by kaz794889 | 2014-05-03 12:20 | 石碑 | Comments(0)