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2014年 01月 30日

身延山 久遠寺 祖師堂

【久遠寺 祖師堂】
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  身延山久遠寺の本堂域西側で最も古い堂宇が祖師堂である。
  室町時代の文明7年に狭隘な西谷から堂宇が移されたことにより、現在地が本堂域境内となったが、地震や火災によりこれまで何度も堂宇が焼失し、その都度再建され現在に至っている。
  近世期である文政7年の火災により焼失した祖師堂は天保2年に再建されたが、身延山の殆どの堂宇が烏有に帰した明治8年1月10日の大火により祖師堂は再び焼失している。
  このため、宗祖600遠忌も目前に迫っていることなどから、鎌倉比企谷 妙本寺に保管していた鼠山感応寺の余材を300円で買い取り祖師堂が再建されることとなった。
  感応寺は江戸城大奥女性の帰依を得て徳川家斉が寄進して造営された、雑司ケ谷(東京都豊島区)の安藤対馬守の下屋敷(28,642坪)に建立された寺院であり、天保7年に大本堂、鐘楼、総門、方丈、庫裏が完成し同年11月に盛大な入仏落慶式が行われたが、天保12年に天保の改革の一環として破却が決定したため、その豪壮な建物の用材により妙本寺の本堂を建設しようと解体、保管されていたものである。




【明治14年 竣工前の祖師堂】
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  妙本寺から譲りうけた感応寺の用材一切は、明治10年に富士川河口から富士川舟運を経由して身延山に運ばれ、翌11年2月14日に祖師堂再建工事が着工され、明治14年4月24日に竣工している。
  写真は竣工前後の祖師堂である。




【明治40年代の祖師堂】
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  明治14年の祖師堂再建から100年以上が経過し、各所に傷みが生じてたことから、平成元年12月から平成6年7月にかけて改修工事がなされている。



【祖師堂 内陣】
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by kaz794889 | 2014-01-30 15:48 | Comments(1)
2014年 01月 26日

「旅の家土産 甲斐の巻」

【「旅の家土産 甲斐の巻」表】
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  『旅の家土産 甲斐の巻』(たびのいえつと)は、神戸の豪商、光村弥兵衛の長男として明治10年11月に大阪に生まれた光村利藻(みつむら としも)が明治30年から同35年までの間に刊行した写真集全44巻の内の一冊である。
  『世界を見せた明治の写真帳』(三木理史 著)によると「光村利藻は交友関係のなかから写真に興味を持ち、明治26年に慶応義塾に入学、上京すると、小西六商店や浅沼商会などの写真材料商と懇意になり写真団体に入会するとともに鉄道を利用して各地に撮影に出かけ、その成果を同好者に見せ、頒けることを趣味にするとともに、小川真一のもとでコロタイプ印刷の技術を学び、その成果を用いて写真帳である『旅の家土産』を刊行している。」と記されている。




【「旅の家土産 甲斐の巻」裏】
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  奥付によると『旅の家土産 甲斐の巻』は『旅の家土産』の第13号として、発行者兼印刷者中尾新太郎(東京市赤坂区田町7丁目4番地)、発行所(東京市赤坂区田町7丁目4番地)光村写真部、印刷所(東京市赤坂区田町7丁目4番地)光村写真製版部として、明治32年3月1日印刷、同32年3月5日発行の旨が記されている。
  『旅の家土産』は300冊を制作して同行者に頒布したにすぎない非売品・準私家版であり、北海道から小笠原、台湾に渡る全国を網羅している写真帳である。



  なお、『旅の家土産 甲斐の巻』には次の表題による風景等の写真が収められている。
 ・小仏峠
 ・甲州街道
 ・猿橋
 ・甲府公園
 ・御嶽洞門
 ・昇仙橋
 ・仙蛾滝
 ・御嶽山金桜神社神楽堂
 ・鰍沢
 ・富士川屏風岩
 ・身延山久遠時
 ・富士川俵石
 ・吉田口の富士
 ・御坂峠の富士





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by kaz794889 | 2014-01-26 16:50 | Comments(0)
2014年 01月 25日

旧飯富郵便局

【旧飯富郵便局 1】
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  飯富郵便局は明治37年3月15日に飯富郵便取扱所として発足し、同38年4月13日に郵便局に昇格した後、同42年3月6日には集配、電信、為替貯金の各業務の取り扱いを始めている。



【飯富郵便局 2】
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by kaz794889 | 2014-01-25 23:23 | 郵便局・逓信 | Comments(0)
2014年 01月 19日

甲府城石垣展示室

【甲府城石垣展示室のパンフレットから】
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  平成25年9月28日にオープンした山梨県防災新館は、甲府城追手門西側の内堀にあたる位置に建設されている。
  甲府城内に建てられていた旧制甲府中学校が昭和3年に移転(現在の山梨県立甲府第一高校の位置)し、その跡地に山梨県庁新庁舎が建設されることとなり、当時残されていた内堀のほとんどは建設費ねん出のため売却され、防災新館の位置にあった内堀の跡には中込呉服店が建てられている。
  平成21年に防災新館建設のために取り壊された「県民情報プラザ」の建物は中込呉服店以来の経緯を持つ旧甲府西武の建物を転用していた。




【明治42年当時の甲府市街地図】
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  赤色で囲んだ地点が防災新館の位置であり、青色で囲んだ甲府城内の甲府中学校が現在の山梨県庁構内、旧県庁の位置には後に甲府郵便局の新庁舎が建設され、現在は甲府市役所となっている。
  



【旧甲府西武解体後の防災新館建設現場】
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  旧甲府西武は地下一階に食品売り場、地下二階に駐車場があったことから、建物解体後の敷地地面は地階構造に伴うコンクリートとなっている。




【甲府城石垣展示室のパンフレット】
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  旧建物の撤去後、平成22年9月から行われた防災新館建設工事に伴う発掘調査により確認された石垣については、防災新館の地上一階から地下一階に相当する部分にあたるため、当初は現地保存について否定的な方針が示されていたが、学術団体などからの要望を踏まえ、現地保存の規模は限定的になったものの、防災新館の駐車場の縮小などの当初計画を見直しを行い、防災新館地下一階に出土した石垣(約27m)の内、一部が保存されることとなり「甲府城石垣展示室」が設けられることとなった。




【甲府城石垣展示室の入口】
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 地下一階の駐車場フロアに設けられた甲府城石垣展示室の入口




【甲府城石垣展示室の室内展示状況 1】
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  発掘位置から移設された甲府城築城時(約400年前)形成の野面積みの石垣と石垣の下から出土した石垣を安定させるために敷かれた「胴木」が展示されている。



【甲府城石垣展示室の室内展示状況 2】
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by kaz794889 | 2014-01-19 21:57 | 甲府城 | Comments(0)
2014年 01月 13日

大草村 南宮大神社の忠魂碑

【忠魂碑 正面】
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  大草村(現在:韮崎市大草町)の南宮大神社境内に建立されている、「陸軍大将 一戸兵衛」揮毫の忠魂碑である。
  



【忠魂碑 背面】f0191673_2143197.jpg
  忠魂碑背面には「昭和4年11月3日 帝国在郷軍人会大草村分会」の文字が刻まれている。
  南宮大神社が旧大草尋常小学校の西側に隣接していることから、昭和5年1月26日の忠魂碑除幕式では同小学校の校庭が饗宴場に充てられている。




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by kaz794889 | 2014-01-13 21:58 | 忠魂碑 | Comments(0)
2014年 01月 12日

箭弓神社(小菅村)舞台

【箭弓神社全景】
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小菅村川久保に鎮座する箭弓(やきゅう)神社は天日鷲命を祭神として文明10年に小菅遠江守信景により建立されたと伝えられる神社であり、明治6年には村社に指定されている。


【箭弓神社舞台と舞台前の覆屋】
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  大正時代に建設された拝殿と昭和63年に再建されたという社殿の他に、境内の南側(前記の全景写真右側)には舞台が残されており、舞台前の境内地には近年建設されたと思われる覆屋が建てられている。
  小菅村には古くから伝えられる村の芸能がいくつか残されており、箭弓神社では獅子舞が舞台前の覆屋の下で現在も舞われている。


【箭弓神社舞台】
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  箭弓神社の獅子舞については「伊勢神宮から各国に一組の獅子舞が許され、甲斐国には(現在の小菅村内の地区である)川久保、池之尻、田元の三地区に伝授された」と伝えられており、現在も毎年8月の第一土曜日には三ヶ村箭弓神社祭典として、4種の演目による三頭立ての獅子舞が、「宮廻り」として昼は前記の三地区内各所で舞われ、夜は神社において祭典が行われている。




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by kaz794889 | 2014-01-12 23:58 | 神社 | Comments(0)
2014年 01月 11日

甲州紀行 12 「農業倉庫 2」

【峡中地域の農業倉庫】
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  峡中地域の農業協同組合で現在も使用されている農業倉庫である。
  倉庫の入口がシャッターに、また外壁も改修されているが、戦前期に建設された倉庫と思われる。




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by kaz794889 | 2014-01-11 22:32 | 甲州紀行 | Comments(0)
2014年 01月 08日

八田国民学校奉安殿

【八田国民学校奉安殿】
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 各学校に下賜された御真影や教育勅語は校舎内の奉安所に安置されていたが、学校火災において御真影を守って校長が焼死する事件が発生したことなどから、大正期以降は御真影を安置するため校舎から離れた堅牢な奉安殿が建設されるようになり、昭和10 年代以降は全国的にその建設が進められ、木造、コンクリート等による神社形式や洋風形式の形態による奉安殿が建設されていた。
 終戦後、連合国最高司令官総司令部参謀副官発第三号(昭和20年12月15日)として「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」が発令され、奉安殿の撤去が命じられるなど、公的教育機関からの神道の切り離しが本格化し、文部次官通牒による奉安殿の撤去指令が出され「校舎外にあるものは原型を留めないように撤去すること」「校舎内や講堂の御真影奉掲所は御紋章や棚を撤去すること」「撤去措置について市町村長は県に報告すること」などが指示されている。



【八田国民学校奉安殿】
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  八田小学校(南アルプス市)の奉安殿は建設費213円55銭を以て大正5年1月6日に起工、同年10月31日に竣工し、終戦後の昭和21年7月11日に撤去され百田村の個人に払い下げられた後、同年10月に戦没者慰霊殿となり、現在も残されている。



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by kaz794889 | 2014-01-08 18:07 | 奉安殿 | Comments(0)
2014年 01月 05日

甲州紀行 11 「甲府市横近習町界隈」

【横近習町界隈に残る住宅】
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  甲府空襲で旧市街の7割以上が焼失している中で、横近習町(現在の中央1丁目から5丁目の一部)は全世帯数186世帯の内、15世帯が焼失している、市街で最も被害が少なかった町の一つである。
  このため、戦前の建物が多く残っていた町であり、町内には大店の商店主の住宅を中心に、そうした商店主が持っていた貸家などが点在する住宅地であったとの印象が焼失を免れた街並みに感じられていたが、近年は老朽化などから取り壊されていく建物も少なくなく、かつての面影が徐々に失いかけている状況である。
  街並みの中に残る写真の住宅も、以前はその南側に同じ様式の棟割り住宅が残っていたと記憶するが、現在はこの建物だけが残されている状況であり、戦前の面影もこの町から少なくなっている。





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by kaz794889 | 2014-01-05 17:53 | 甲州紀行 | Comments(0)
2014年 01月 04日

甲府 魚町

【甲府魚町の地籍図】
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 「武田氏の時代に肴の市を立てたところであった。」というのが、魚町の町名の由来であるという。
 掲載した地籍図(左が北側、右が南側)のとおり、魚町は北は横近習町、南は桶屋町に接する南北の街並み(赤色に囲んだ地域)であり、山田町、八日町、三日町、下連雀町と交差し、北側から南側に向けて一丁目から五丁目からなっており、江戸期から魚市場が移転する昭和49年頃まで、その町名が示すとおり、魚問屋や仲買人などの魚を商いとする町であった。



【現在の魚町通り】
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 地籍図の山田町と八日町の間の現在の魚町通りである。
 写真の左側に写るマンションの位置に、かつて甲府魚市場があり魚町の中心となっていた。



【甲府魚市場跡】
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  明治36年6月に中央本線が甲府まで開通した時期に、東京の魚市場から甲府に魚類が入るようになると、魚町近辺は朝の取引の繁忙時間の二時間、三時間は交通が遮断される程の状況であったという。
  このため、交通や衛生面から、個々の店先や往来での習慣を改めて市場を建設するようにと明治40年頃に県当局から要請があったことから、大正2年に通りの西側にあった民家を買収し写真の場所に市場を建設している。
  また、昭和7年3月には、魚町で営業していた森田屋、駿相社、カネ一、丸星等の魚問屋を主体として小売業者やその他の有志者が一緒になって株式会社甲府魚市場が設立されている。
  こうして発展してきた魚町であったが、昭和48年4月25日の甲府中央卸売市場(現在の甲府地方卸売市場:甲府市国母6-5-1)の開設とともに魚町の魚商は移転し、魚町の面影は失われている。




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by kaz794889 | 2014-01-04 14:41 | Comments(0)