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2013年 09月 29日

甲斐名物 葡萄羹

【「おみやげと鉄道」展開催チラシ】
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  旧新橋停車場 鉄道歴史展示室において、第32回企画展「おみやげと鉄道」が平成25年8月6日から11月24日まで開催している。
  過日、同企画展を観覧した際、「構内営業」と題するコーナーに、甲府駅の構内営業業者であった米倉支店が販売していた「甲斐名産 ブドウ羊羹」と題する昭和初期頃の掛紙の展示を目にした。
  昭和5年の「日本案内記 関東編」には甲府市の土産品として葡萄、葡萄酒、水晶、印伝、甲斐絹などが記載されている。
  また、葡萄羊羹については明治39年に甲府で開催された一府九県連合共進会に際して発行された「山梨県案内」の巻末広告に、松林軒の販売菓子の一つとして葡萄羊羹が掲載されているなど、明治期後半において葡萄羊羹は既に名物菓子として他の業者によっても製造販売されていた。




【甲斐名物 葡萄羹】
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  「夫レ葡萄ハ甲斐特産ニシテ八珍菓ノ随一ナリサレド水質菓物ナレバ永久販売スル能ズ」の口上に始まる「甲斐名物 葡萄羹」の明治40年頃のチラシである。
  「柿ノ水飴本店 一布商会」は池田一布が明治31年に分家独立して創業した菓子舗であり、その後国産菓子製造の稲月堂として韮崎町2302番地で営業を続けていた。




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by kaz794889 | 2013-09-29 18:23 | 広告・チラシ | Comments(1)
2013年 09月 23日

「女人藝術の夕」

【「女人藝術の夕」プログラムの表紙】
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  昭和4年4月7日の日曜日、甲府商工会議所大ホールにおいて主催・女人藝術社、後援・山梨文芸会によ り「女人藝術の夕」が開催された。
 
  主催の「女人藝術社」は、長谷川時雨が主宰し昭和3年7 月から昭和7年6月まで、48冊の女性文芸雑誌である『女人藝術』(菊判、150ページ前後、定価40銭、長谷川時雨の回想記『日本橋』や林芙美子の『放浪記』などが連載されている。)を出版していた。
  また、同誌の創刊時は、発行が長谷川時雨、編集が素川絹子、印刷が生田花世、発行所が牛込区左内町(長谷川時雨宅内)(後に赤坂区檜町に移転)であり、熱田優子、城しづか(夏子)、堀江かど江、望月百合子、八木秋子、小池みどり、川瀬美子らが参画していた。

  後援の「山梨文芸会」は、大正14年4月3日に山梨日日新聞社文芸部主催の「サンデー文壇」寄稿者の会が、寄稿者男女39名、新聞社6名により甲府市百石町の生糸同業組合で開催され、その席上において山梨県にも文芸会を設立すべきとの動議が出され満場一致で可決され、会長は山梨日日新聞社社長であった野口二郎に決定し、会の名称は投票により五つの候補が提示され、三井甲之により「山梨文芸会」と命名されたという。




【「女人藝術の夕」プログラム】
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 プログラム表題に「講演、音楽、詩、舞踏の会」と記されているとおり、18時から二部構成により構成されている。
 



【旧甲府商工会議所】
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  現在は山梨法人会館となっている、かつての甲府商工会議所ビルは国の登録有形文化財に指定され現在も当時と同じ場所に同じ姿で残されている。
  女人藝術の夕は、この建物の三階大ホールにおいて開催されている。




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by kaz794889 | 2013-09-23 10:32 | Comments(0)
2013年 09月 22日

千福会のチラシ

【千福会規約】
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  日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六の3人を書道界では明治の三筆と呼ばれている。
  「千福会規約」は、その内の一人である、巌谷 一六(いわや いちろく)(天保5年2月8日~ 明治38年7月12日)による明治28年11月の甲府来遊にあたり、千福会と名付けた会員千名を集める会を組織し、12月6日から8日までの3日間、甲府望仙閣において10時から16時まで会を開き、巌谷一六による書を当日の席上において会員一名に一幅を贈るといったものである。
  滋賀県出身の巌谷 一六は書家であり政治家でもあった。本名は修(幼名は辨治)、字が誠卿、一六を号の一つとしており、子供の一人が児童文学者の巌谷小波である。





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by kaz794889 | 2013-09-22 10:05 | 広告・チラシ | Comments(0)
2013年 09月 15日

若松町と花街

【組合所属芸妓置屋】
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【組合所属料理店】
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  明治25年12月の山梨県議会において置屋制度が決定し、新たに置屋税や芸妓税が課されることとなっ たことに伴い、甲府市内数か所から置屋設置の請願や有力者を通じての猛烈な誘致運動が展開され、その結果、甲府市内の桜町や春日町の芸妓が全て若松町に移ったのは明治27年1月である。
  若松町が選定された理由には、義太夫、舞踊、鳴物、常盤津、清元、歌沢、長唄の師匠が多く居を構えていたことにあったと言われている。
  大正期に至り、社会風潮の変化から従来の邦楽舞踊を主とする芸能の他に浪曲芸妓、ダンス芸妓などが出現して一定の人気を博していたが、その人気も長くは続かず利益のために相い競った新たな施策などから業者間の険悪な状況に至り、大正15年6月には保守・革新といった二派に分裂し、これまで一つであった芸妓検番から新たに吾妻検番(東青沼町414番地(現在:青沼1-7-12))が設置され11軒の芸者置屋が参加することとなった。
  以来、これまでの芸妓検番と吾妻検番に分かれた新旧検番による競い合いが続き、それは料理屋側にも飛び火し料理屋も二派に分裂し長く抗争が続くこととなった。
  当時の県内新聞社社長数名による調停により円満解決の方向に進めたものの最終解決には至らず、昭和12年に当時の甲府警察署長及び弁護士等による調停により、芸妓置屋と料理屋を合わせた甲府二業組合が設立され昭和19年3月の戦時非常措置令による高級料飲店の休業命令まで続いたが新旧検番の対立意識は後々まで尾を引いていたという。

  写真の史料は昭和15年5月現在の甲府二業組合に所属する芸妓置屋別の芸妓と料理屋の一覧である。




【昭和10年代の甲府市若松町】
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  昭和10年代の甲府市若松町の地図に芸妓置屋のあった場所を記したものである。
  【凡例】
  ① 赤色の囲みが芸妓置屋の位置。
  ② 水色の囲みが若松芸妓置屋組合の位置。
  ③ 緑色の囲みが若松町域の各種商店等の位置である。

  昭和19年以降、芸妓組合は解散することとなり、関係者は旧吾妻検番事務所を作業場として軍服等に用いる星章を刺繍する作業に従事したという。
  なお、昭和20年の甲府空襲により、若松町の540戸は全て焼失している。



【現在の若松町濁川沿い】
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by kaz794889 | 2013-09-15 18:58 | Comments(0)
2013年 09月 14日

甲州紀行 9 「私塾」

【幕末に私塾が開かれた住宅】
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  郡内地方の神社の神官を務めた士族で神社奉仕の傍ら商業を営んでいた、文化9年8月生まれのこの家の主は、職掌がら学識も深く誠実な人柄であったため人望も厚かったことから、近隣の子弟を集めて読み書きを教えていたという。
  また、その主の子供も父の私塾を引き継ぎ、明治6年に地区の小学校が創立し自身がその学校の教員となるまで続いていたという。 




【住宅の正面】
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  明治6年当時、学習年限6年、月謝4銭、教師1名のこの私塾には、生徒は男子120名、女子13名の133名が学んでいた。





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by kaz794889 | 2013-09-14 11:51 | 甲州紀行 | Comments(0)
2013年 09月 08日

商店の包装紙 19 『福井屋陶器店』

【福井屋陶器店の包装紙】
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  福井屋陶器店は甲府市柳町94番地において飯塚きくを経営者として営業していた陶器店である。




【福井屋陶器店のあった場所の現在】
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  柳町94番地は住所表示の変更に伴い、現在は中央4丁目2-16となっている。
  柳町通り(旧甲州街道)に面した旧武蔵野館(映画館)の正面にあたる場所において営業していたという。




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by kaz794889 | 2013-09-08 13:43 | 商店の包装紙 | Comments(0)
2013年 09月 07日

晦斎竹内先生之碑

【晦斎竹内先生之碑】
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  「晦斎竹内先生之碑」は明治5年10月に招かれ、学制当初の甲府の小学校において訓導や教頭などを務めた竹内忠告の教育振興に尽くした功績を称えるため、門人の中山正俊の撰文により門弟有志により明治23年に甲府市内の瑞泉寺境内に建立された石碑である。
  竹内は弘化4年4月21日に二本松藩士竹内恒の三男として生誕し、二本松藩の藩校である敬学館の学監を務めるなどしていたが、明治5年に甲府に招かれた後は甲府の小学校に勤務していたが、明治14年に母親が老衰のため退職し郷里に戻った後の明治14年12月15日に逝去している。




【甲府琢美小学校 第三十五回記念】
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  竹内忠告は琢美学校の教頭を務めるなどしたため、明治41年2月に発行された「琢美小学校第35回記念」絵葉書において、その右側上段に竹内の肖像写真が記されている。





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by kaz794889 | 2013-09-07 23:59 | 石碑 | Comments(0)
2013年 09月 01日

学級増加記念碑

【学級増加記念碑】
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  県立韮崎高等学校の敷地内に建つ写真の石碑は、昭和12年7月に建立され正面に「学級増加記念碑」「貴族院議員 小野耕一書」と刻まれている。
  石碑の裏面に刻まれた「学級増加校舎増築略誌」によれば、石碑の建立された当時、旧制韮崎中学校の入学志願者が著しく増加したため、諸方面から学級増加の要望が極めて切なるものとなったことから、同窓会員がその実現に努力し北巨摩郡選出の県議会議員を始めとした有志らによる熱烈なる援助等により、校舎増築の目的が達成したこと。また、その実現は石碑の揮毫者である小野耕一並びに左記各位の寄進を得たことによると記されている。
  
  また、寄進者として百観音自動車会社、台ケ原自動車会社、峡西電力会社の他、79名の個人名、合計82名の氏名等が刻まれている。
  なお、石碑正面の揮毫者である小野耕一は韮崎町出身の実業家であった小野金六の長男であり、父親の事業を引き継ぐなどし、東京在住の東京府多額納税者として昭和11年から貴族院議員を務めていた。



【県立韮崎中学校 校舎増築落成記念 新築校舎】
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  学級増加に伴い昭和12年に増築・竣工した校舎である。



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by kaz794889 | 2013-09-01 14:31 | 石碑 | Comments(0)