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2013年 01月 27日

南アルプスとその渓谷

【「南アルプスとその渓谷」】
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  「国民体位向上は国家百年の大計なり」の副題が添えられた山梨県発行の「南アルプスとその渓谷」の観光案内である。
  昭和12年7月の支那事変による日中戦争勃発に伴い、同年8月24日に「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、9月9日には内閣訓令が出されるなど国民精神総動員運動が開始されると、消費や娯楽に対する抑制が促され、観光自粛の動きが強まってきたが、国民精神総動員運動の中で提唱された「心身鍛錬」はハイキングの奨励に、「体位向上」はスポーツ、登山、海水浴といった奨励となり、そうした状況は昭和13年1月の厚生省設置により「厚生運動」の一環としてより大規模に唱えられていった。
  「南アルプスとその渓谷」は、こうした背景を基に昭和13年頃に山梨県が発行した観光案内チラシである。




【南アルプス登山道徳】
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  前述のチラシには南アルプス渓谷案内として、濁川渓谷、尾白川渓谷、大武川渓谷、石空川渓谷、小武川渓谷、早川渓谷を掲げている他、「南アルプス登山道徳」としての5項目を左記のとおり示している。戦時中の道徳は現在とは大幅にかけ離れている面が少なくないが、登山に係る道徳(マナー、精神)については、現代にも十分にあてはまるものである。




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by kaz794889 | 2013-01-27 23:32 | 観光案内 | Comments(0)
2013年 01月 20日

富士山麓スキースケート

【富士山麓スキースケート】
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  富士急行の前身である富士山麓電気鉄道株式会社が昭和9年頃発行した「富士山麓スキースケート」と題した案内チラシである。
  明治44年にオーストリア・ハンガリー帝国のレルヒ少佐により、新潟県高田の陸軍第13師団でスキーの指導が行われたことが日本のスキーの始まりと云われている。
  スキーはその後全国に普及し広まっていき、昭和10年頃には全国に200か所近いスキー場が誕生したという。
  このチラシには山梨県内の富士北麓地域におけるスキー場として、山梨県営吉田口スキー場、鳴沢高原スキー場、大出山スキー場が掲載されており、「12月下旬から3月下旬にかけて絶好の雪となり、いたるところ変化にとんだ素晴らしいスキー場となり初心者にも熟練者にも面白くかつ日帰りができます。」との案内が記されている。




【富士北麓地域のスキースケート場】
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【富士北麓地域のスキースケート旅館】
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by kaz794889 | 2013-01-20 23:04 | 観光案内 | Comments(0)
2013年 01月 19日

山梨県県民会館 2 

【県民会館建設のしおり】
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 昭和29年7月の山梨県議会において「県民会館設置に関する特別会計の設置」と当該特別会計による歳入歳出予算案が可決され、山梨県民会館が建設されることとなった。
 その当時発行された冊子が「県民会館建設のしおり」である。
 県民会館の建設にあたっては、公会堂(県民会館大ホール)と会館については昭和31年度末完成予定として、同時着工の計画で進められたが、用地買収の遅れや設計が間に合わないとの状況から、公会堂と会館の建設を分け、公会堂については第1期工事として昭和29年11月に入札が行われ大成建設により同32年4月の完成。会館については第2期工事として昭和30年6月に入札が行われ公会堂と同じく大成建設により同35年4月に完成している。
  (公会堂の建設経緯等については、平成20年12月4日に峡陽文庫に掲載した「山梨県県民会館」を参照されたい。)




【県民会館建設予定地略図】
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 建設予定地は昭和初期に取り壊された、かつての甲府城追手門付近の堀の跡である。



【建設計画予定時の完成予想図】
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  当初の建設計画では会館は5階建て、将来は1階を増築し6階建の会館を予定していた。



【現在の山梨県民会館 ①】
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  建物の正面から見た現在の山梨県民会館ビルである。




【現在の山梨県民会館 ②】
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  会館の北方向から見た現在の会館ビルである、駐車場となっているビルの手前に公会堂(山梨県民会館大ホール)が建てられていたが、平成11年7月30日に公会堂の閉館式が行われ建物は取り壊されている。
  現在も残る会館ビルもいずれ遠くない時期に取り壊されることが予定されているという。



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by kaz794889 | 2013-01-19 19:17 | Comments(0)
2013年 01月 14日

昭和23年の成年式

【朝日地区昭和23年度成年式】
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  本日は成人の日である。現在の形態による成人式は、埼玉県北足立郡蕨町(現在:蕨市)で昭和21年11月22日に開催された青年祭とされている。
  写真は昭和23年4月に甲府空襲による罹災を免れた甲府市立朝日小学校の講堂で開催された朝日地区の昭和23年度成年式の写真である。
  甲府市における成年式は、昭和23年2月11日に千塚地区における成年式成年祭が嚆矢であり、その後、同年度中に甲府市内の朝日地区、穴切地区、貢川地区が実施し、昭和24年度には春日、相川、北新、琢美、千塚、朝日、穴切、貢川の各地区において開催されている。
  成年式の内容は当時から各地区ごとに個性的なものもあったようだが、当時の成年式は、式日前に適齢者の身体検査、学芸技能の研修検査を行い、式当日は委員長の開式の辞に始まり、該当者の氏名報告、身体検査及び研修検査の状況報告、バッチと成年手帳又は記録の授与、宣誓模範成年の表彰、祝辞、成年式の歌合唱、閉式の辞で成年式を終わり記念撮影といったものであったという。




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by kaz794889 | 2013-01-14 15:27 | Comments(0)
2013年 01月 13日

温故堂本『甲斐国志』

  甲斐国志は江戸幕府の官命により寛文10年12月から文化2年7月まで甲府勤番支配を務めた滝川利雍が編纂に着手し、その後、後任の甲府勤番支配となった松平定能が引き継ぎ、松平が文化4年8月に西丸小姓組番頭に転じた後は、松平在任中に編纂主任等に任ぜられていた巨摩郡西花輪村の内藤清右衛門、都留郡下谷村の森島弥十郎、巨摩郡上小河原村の村松弾正左衛門らが中心となって編纂が進められ、文化3年2月以来、概ね9年の歳月をかけ文化11年12月に完成した甲斐国の地誌であり、幕末60年の間における代表的な藩撰地誌である「新編会津風土記」「紀伊国続風土記」とともに「駿国雑誌」「甲斐国志」は私撰地誌の代表的な名著とされている。
  完成した甲斐国志は文化11年12月16日に幕府の大番頭となった松平定能自身により、124巻71冊の和本を8帙に纏めた白木の箪笥に収められた形により幕府に献進され、現在も甲斐国志写本の中で最も権威ある原典と認められた「献進本 甲斐国志」として、昌平坂学問所文庫を経て内閣文庫に所蔵されている。
  甲斐国志の写本は10数種類の異本があるが完本は比較的少なく端本が大部分と云われており、山梨県外には内閣文庫に4本、宮内庁書陵部に1本、山梨県内には徽典館の旧蔵本であった「徽典館本」、山梨郡一町田中村の田安陣屋の旧蔵本であった「田安府本」、甲州文庫蔵書であった「甲州文庫本」が所在している。


【温故堂本「甲斐国志」第一巻】
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【同第三十巻】
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「甲斐国志」については文化11年の幕府献上以降、治道の具として写本が伝えられたに過ぎず広く利用される状況ではなかった。
  甲府の書肆温故堂主の内藤伝右衛門は、こうした状況を憂い明治15年に山梨県学務官であった小野泉、山梨県庁の歴史地誌編纂担当を務めた山田弘道に委嘱し、かつて甲斐国志の編纂主任であった西花輪村の内藤清右衛門家が所蔵する甲斐国志の稿本と「徽典館本」を基に校正を行い、明治17年に30冊の和綴本とした「甲斐国志」を刊行した。
  以来、「温故堂本」として明治期以降における甲斐国志刊本の嚆矢となっている。



【甲斐国志印行同盟表】
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  内藤伝右衛門は「甲斐国志」全30巻の刊行にあたり、発行部数1000部の予約出版の形式を用い、山梨県内全域はもちろんのこと、東京、京都、大阪、神奈川など北海道から熊本に至るほぼ全国からの予約がなされている。
 「甲斐国志印行同盟表」は、こうした予約者の一覧であり、最初に掲載されている西山梨郡甲府の予約者は、当時の山梨県知事である藤村紫朗となっている。
  同盟表には予約者の氏名の他、明治15年8月15日には発行予定の1,000部に達しているが、更なる追加申し込みの声が少なくなかったことから予約期間を同年9月末まで延長することが記されている。
 


【「甲斐国志」前金領収証】
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  予約者には予約金1円を募り、以降は毎回前金60銭とし全30巻の価格は7円であった。
また、定価の7円について、刊行当時に流通していた写本の古書価格であろうか、原写本の一般的な流通価格の凡そ6分の1であることをアピールしていた。





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by kaz794889 | 2013-01-13 23:53 | Comments(0)
2013年 01月 12日

山縣大弐を歩く 8 【山縣大弐の墓 3】

【泰寧寺の山縣大弐の墓】
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  茨城県新治郡根古屋村(現在:石岡市根古屋779)にある山縣大弐の墓所である。
  高さ五寸、幅三尺の台石に高さ二尺四寸、幅七寸の自然石の墓であり、墓石表面には「卓栄良雄居士霊位」、右側側面には「明和四丁亥星」、左側側面には「八月廿一蓂」と刻まれており、昭和10年11月26日には山縣大弐の墓として茨城県の史蹟に指定されている。



【山縣大弐の墓に向かう石段】
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  泰寧寺の本堂左側を進んだ正面にある石段である、この石段を上った左側に山縣大弐の墓所が建立されている。



【泰寧寺の門柱】
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  曹洞宗の霊石山泰寧寺の入り口に建つ門柱である。



【泰寧寺伽藍】
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  門柱からなだらかな坂を上るったと先に建つ泰寧寺の本堂(左)と庫裏(右)である。



【昭和12年の泰寧寺】
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  昭和12年7月に、前述の石段上から撮影された、当時修築された庫裏である。
  現在の本堂が建立されるまでは本堂を兼ねていた。



【山縣柳荘墳墓記の石碑】
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  写真左の石碑は、昭和10年8月に柳荘山縣大弐の事績を知るものの少なきを憂い、泰寧寺の檀徒総代等の有志者が相謀って建碑された「山縣柳荘墳墓記」石碑であり、山縣大弐の埋首の地に関しては異説があると云うものの、根小屋出身の門弟である園部文之進の手によって当寺の寺域に葬られたことに疑いはない旨等を結びとした山縣大弐の墳墓記が刻まれている。





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by kaz794889 | 2013-01-12 17:42 | 山縣大弐 | Comments(0)
2013年 01月 06日

甲斐武田氏発祥の地 2 「湫尾神社」

【「甲斐武田氏発祥の地」石標】
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  武田氏館跡の北西にあたる断崖上に鎮座する湫尾神社(ぬまおじんじゃ)前に建つ「甲斐武田氏発祥の地」と刻まれた石標である。



【湫尾神社正面】
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  茨城県ひたちなか市武田字塙584番地に鎮座する、湫尾神社の正面である。
  湫尾神社について『茨城県神社誌』によれば、祭神は素戔嗚命、慶安元年9月再興の棟札を蔵し、再興した際の社名は武田郷の鎮守である武田大神宮を称し」とある。
  また、水戸藩における宗教統制政策により寛文6年の一村一鎮守制の令達発出に先だつ神社整理の基準として寛文3年に作成された「鎮守開基帳」には沼尾明神と記され、その後、現在の湫尾神社に社名が改められている。
  創建年代は明らかではないが、『勝田市史 中世編』には神社の起源として「湫尾神社の由緒は明らかではないが、『常陸風土記』の香島郡の条にみえる、香島神郡の沼尾の社や沼尾の池との関連が考えられる。おそらく、中臣則頼がこの地を開発したとき、武田溜を香島の沼尾の池になぞらえて、湫尾神社を建立したのであろう。」と記しておるなど武田氏との関係が考えられるとのことである。



【湫尾神社拝殿】
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  拝殿は入母屋千鳥破風、軒は唐破風造り、屋根はひたちなか市内で唯一の茅葺であるという。




【湫尾神社本殿】
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  本殿は流れ造り銅板葺である。




【湫尾神社境内①】
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  拝殿を背に神社正面方向に向けた境内の様子である。




【湫尾神社境内②】
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  本殿の裏側から見た境内の様子である。なお、本殿裏が「武田氏館(たけだうじやかた)」である。




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by kaz794889 | 2013-01-06 13:41 | Comments(0)
2013年 01月 05日

甲斐吟社

【甲斐吟社趣意書】
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  甲斐吟社は富岡敬明により結成された漢詩の結社であるという。
  『山梨漢詩人列伝』(平成20年9月30日発行・内藤利信著)によれば、熊本県知事を退官し貴族院議員に勅選された富岡敬明が西山梨郡里垣村(現在:甲府市)に移り住んだ、明治24年4月に甲斐吟社が創始されたとしている。
  「甲斐吟社趣意書」には「是ニ於テ同志ト相謀リ、一社ヲ創設シ、甲斐吟社ト名ク」とあり明治26年8月に発行されていることから、この年が甲斐吟社が結社された時期とも考えられる。
  趣意書に記されている規約によれば、幹事を〇名置くとあり「当分の内、本社幹事を定むること左の如し」とし、甲府市柳町一丁目 小野崎又二郎(号・半城)、甲府市魚町二丁目 青山与三郎(号・覚峰)が幹事となっている。
  また、同規約の「本社事務所ハ当分ノ内西八代郡市川大門村近藤柳塘方に置ク」の近藤柳塘は、市川大門の村松廬州が少年時代に詩法を学んだと云われている町田柳塘の別名とも推定される。



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by kaz794889 | 2013-01-05 14:53 | 山梨の文学 | Comments(0)
2013年 01月 04日

甲斐武田氏発祥の地 1 「武田氏館」

【武田氏館跡略図】
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  茨城県ひたちなか市武田は甲斐武田氏の発祥の地とされている。
  平安時代末期の12世紀初め頃、源義家の弟である義光が常陸国への進出を図り、長男の義業を久慈郡佐竹郷(現在:茨城県常陸太田市)に、三男の義清を那賀郡武田郷(現在:茨城県ひたちなか市)に土着させ、義清は地名をとって武田を名乗り武田氏の祖となったという。
  義清とその子供である清光は武田郷周辺の古くからの豪族との間で勢力を張り合っていたが、そのゆき過ぎた行為を朝廷に訴えられた結果、義清と清光の父子は甲斐国に配流され、そこに土着した父子は新天地である甲斐に甲斐源氏発展の基盤を築いたと云われている。
  義清、清光父子が住んだ居館は、那珂川を見下ろす武田台地の南端突端部に位置し、南東方向に舌状に伸びた要害の地で東と西に深い谷がめぐり、館は地形を利用した平山城形式である。




【武田氏館】
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  義清父子の住んだ武田氏館跡近くの一角にふるさと創生事業の一環として建設されたのが「武田氏館(たけだうじやかた)」である。
  館には絵巻物などを参考にした主屋、納屋、厩、門などが再現されている。 



【武田氏館の案内】
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【武田氏館案内図】
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  武田氏館では、甲斐源氏発祥の地についての資料(資料パネル、義清・清光の武者人形)、甲冑などの武具類(盾無の鎧をイメージした鎧など)、武田遺跡群の発掘調査出土資料が主屋に展示されている。


【武田氏館の門】
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【武田氏館の主屋】
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【武田氏館の納屋】
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【武田氏館の厩】
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【主屋から見た門】
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【武田氏館敷地への入り口】
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by kaz794889 | 2013-01-04 20:26 | Comments(0)
2013年 01月 03日

山梨の蔵元 7 『都築酒造店』

【「甲斐ヶ嶺」のラベル】
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  西八代郡岩間村(現在:市川三郷町岩間)で酒造業を営んでいた都築酒造の創業は明治5年であった。
  明治維新当時、落居、宮原、三沢、車田、富士川対岸の切石、飯富など当該地域周辺には複数の醸造業者が続出していたが、こうした複数の同業者の大部分は資産に任せて開業はしたものの、その殆どが杜氏任せとなっていたため、次第に淘汰される状況に至り、明治末期まで営業を維持した醸造業者は数軒にすぎなかったという。創業から同店が軌道に乗ったのは明治20年頃であり、戦後期まで代表銘柄を「甲斐ヶ嶺」として営業してきたが、現在は廃業している。
  なお、写真の「甲斐ヶ嶺」のラベルは中川一政により作成されたものである。



【都築酒造店跡①】
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  都築酒造店の門構えである。



【都築酒造店跡②】
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  10年程前までは酒蔵の跡が残っていたが、現在は更地となっており右側の住宅のみが残されている。



【雑誌「甲州倶楽部」昭和11年3月号】
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  同酒造店の主人は旧制錦城中学校時代に中川一政と同級生であったため、昭和48年に本人が没するまで中川一政との親交が続いていたという。
  中川は岩間村周辺の風景を激賞しその風景などを描くため、戦前期に半年ほど弟子をつれて岩間村に滞在したこともあったという。そうした関係から「甲斐ヶ嶺」のラベルを中川一政が描いたものと考えられる。
  写真の雑誌「甲州倶楽部」は、東京の山梨県人会的組織であった山梨協会により発行されていた雑誌であり、昭和元年に同協会が発行していた雑誌「山梨」を改題した雑誌である。
  この雑誌の昭和11年3月号(通巻78号)に、目次にあるとおり中川一政による「富士川日記」(随筆)と「甲斐の富士川」(12首の短歌)が掲載されている、いずれも岩間村やその周辺の情景を作品にしている。

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【「甲州倶楽部」掲載の「富士川日記」】
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  この作品の一節で中川は、「日本国中に画架を立つべき所は、まさに無数なるべきを私が何故こんな所へ来たかと云ふと、私の友達が岩間村に富士川の水をくんで酒を作ってゐる縁故である。」と記している。
  岩間村の友人が都築酒造店の主人である。 




【中川一政の墓所】
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  東京豊島区にある中川一政の墓所である。




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by kaz794889 | 2013-01-03 19:11 | 蔵元 | Comments(0)