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2012年 12月 31日

十一屋コレクションの名品展と野口柿邨「交際或者聞知人名簿」

【山梨県立美術館入口の案内】
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【十一屋コレクションの名品展パンフレット】
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  平成24年12月15日から同25年2月11日まで、山梨県立美術館において「十一屋コレクションの名品 ~野口柿邨をめぐる文人たち~」が開催されている。
  近江国滋賀県蒲生郡桜川村(現在:滋賀県東近江市)に本邸を置き、宝永元年に甲府柳町で酒造業を営む豪商となった近江商人の十一屋野口家。その十一屋四代目当主となった野口正忠(号・柿邨(しそん)文政5年~明治26年)が、幕末期から明治期に蒐集した美術品を中心とした展覧会である。【十一屋の詳細については、峡陽文庫の過去記事を参照されたい。】



【「交際或者聞知人名簿」】
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  「十一屋コレクションの名品」展の展示解説等によると「日本と中国の近世絵画や書蹟等で占められており、現在500点以上にのぼるコレクションであり、未だに十分整理し尽くされていない状況」であり、また「漢詩人の梁川星厳や漢学者の頼三樹三郎、書家の日下部鳴鶴ら多くの文人との交流や画家の日根対山、富岡鉄斎と親交のあった文化人であった。」という。
  峡陽文庫架蔵の写真の書付は「交際或者聞知人名簿 野口柿邨」と表題に記載のある46頁の文書であり、その内容は表題のとおり、野口柿邨と交際のあった文人、政治家、商人など様々な人物が記載されており、小野湖山、日下部鳴鶴、巌谷一六などの氏名も記載されている。
  書付中に年月日等の記載はないが、藤村紫朗の名が山梨県県令として、また、山梨県議会議員や他府県議会議員の複数の氏名が記載されているなど、その官職名か明治20年以前の記載と推測できるが、同一氏名が住所等を変えて複数回記載されているものもあり、順次記載者を追加記載している状況も認められる。



【「交際或者聞知人名簿」の一部】
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  人名簿の記載内容の一部である、当該頁の一番左側には「中丸精十郎」や日根対山の二男である「日根東山」の氏名・住所が記されている。
 また、他の頁には住所を寺町御池上ルとした京都の業者を始めとした、各地の多数の書画骨董商の名が記されており、野口柿邨の名品コレクションの形成に至るネットワーク的な世界が認められる書付である。




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by kaz794889 | 2012-12-31 21:48 | Comments(0)
2012年 12月 30日

半古庵 保科倍之

【保科倍之の句碑】
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  貞享・元禄期の岸本調和、一瀬調実、享保期の大久保一林、市川和橋、安永・天明期の上矢敲氷、五味可都里、文化・文政期の辻嵐外、早川漫々、幕末・明治初期の橘田春湖など、近世から幕末・明治初期に至る約200年間における山梨県の俳諧については、その評価と研究が進められている。
  しかしながら、その反面、明治期以降大正期、飯田蛇笏と雲母の登場までの間、いわゆる正岡子規の俳句革新運動による俳諧に代わる「俳句」という用語が用いられるようになった近代俳句が成立までの間については、これまでの俳諧隆盛の影響が続き山梨県内各地において俳句は盛んであったにも関わらず、この時期の俳壇については「旧態依然たるもので、天保調の域を全く脱してはいない。啓蒙期特有の開明性や自我覚醒への志向などが認めることができない。」、「近世の蕉風俳諧のように月並調を脱しきれていない。新派俳句の甲府俳壇への実作レベルの流入は明治期後期を待たねばならなかったようである。」といった評価となっている。
  こうした評価であるがゆえに研究の対象とされていないのか、研究がなされていないからこうした評価から脱しきれないのか、門外漢には正確なところは解りかねるが、感覚的には研究が必ずしも十分とは言い切れないと考えられるところである。

  
  保科倍之は、明治期から大正初期にかけての甲府俳壇における旧派の大家であった。
  写真の句碑は、高さ1.5m、幅1mの石碑であり、現在は樹木に台座が覆われているが、台座には溶岩が使われているという。句碑には富岡敬明男爵揮毫の「寿家」の文字の下に「「紛礼な岐(まぎれなき)見ごころ清し富士の山」半古庵保科倍之」と、また句碑の裏面には門下生の名が刻まれている。
  当初建立されたのは明治28年11月23日であったが、同32年11月13日の火災で破損し、同35年4月3日に再建されたのが現在の句碑である。


【保科倍之の書簡】
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 保科倍之は本名「保科 保」、俳号に「半古庵」「倍之」「白髯坊」を用いていた。
 江戸下谷の幕臣旗本であった、武内大治郎の二男良道、信州高遠藩の磯部源内の妹である瀧の二男として天保12年に生まれている。
 保科家は武士の系統であるため、その家督は長男が継ぐことから、江戸から甲府に住み移っている。
 河野可転の門に入り俳諧を学び、山伏の修行道場である「万能院」を甲府白木町に開設し、そこで寺子屋も営むなどして教育にも関わっていたが、その傍らでは俳諧三昧にふけり芭蕉の正風である伝統俳句を鼓舞し旧派の巨匠と云われていた。
 当時は各村々に句会、吟社が設けられ、山田藍々、小沢眠石、田草川草圀らが旧派の宗匠を中心とした発句大会が設けられ、保科倍之も宗匠として発句大会の選者や山梨日日新聞の最初の俳句の選を行っている。 


【保科倍之の葬儀案内葉書】
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 保科倍之は大正3年9月13日に73歳で亡くなり、同日、左記の案内が関係者に発送されている。
 案内に記されている保科萬次郎は、明治5年12月7日に生まれた倍之の二男であり、山梨時報、峡中日報、山梨日日新聞などの新聞記者として活躍し、明治43年3月の国民新聞甲府支局の設置にあたり初代の支局長を務め、それまでの間には甲府市会議員、副議長として市政に貢献し昭和2年10月には市政功労者として表彰されている。昭和20年10月13日に疎開先の甲府市積翠寺町で74歳で没している。



【保科家の墓所】
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 甲府市朝日4丁目の円覚山浄興寺にある保科家の墓所である。



【保科倍之の墓】
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 保科家墓所の右端に建つ法号である「明教院智誉義光浄信居士」が刻まれた倍之の墓石である。



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by kaz794889 | 2012-12-30 17:54 | 山梨の文学 | Comments(0)
2012年 12月 24日

山縣大弐を歩く 6 【山縣大弐生誕之地】

【「柳荘山縣大弐先生誕生之地」石碑】
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  中巨摩郡龍王村大字篠原字八幡前50番地(現在:甲斐市篠原46番地)に建立された、山縣大弐生誕の地を示すこの石碑は、山縣大弐が藩政の改革を指導した上州小幡藩主の後裔である織田信恒子爵の揮毫により、昭和8年9月に完成し同月12日に除幕式が挙行されている。
  山縣大弐生誕の地附近は往事、六本柳と云われた地域であり、石碑の建てられている場所は建立当時、祖母川と田に挟まれた若尾地所部の所有地であった。


【同石碑の背面】
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  石碑の背面には、昭和8年9月22日、龍王尋常高等小学校職員児童、龍王農業補習学校職員生徒の文字が刻まれている。
  これは、石碑建立が、同小学校児童22円44銭、同補習学校生徒3円85銭、各学校職員32円69銭、合計58円98銭の寄付金総額を基に建設されたものであり、建碑工事費総額に46円を要している。


【建立当時の「柳荘山縣大弐先生誕生之地」石碑】
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  石碑が建立された昭和8年当時の石碑の写真である。
  周りが住宅に囲まれている現在と比べ、石碑の後方一帯は一面の田畑となっている。
  除幕式には、山縣神社宮司、龍王村長、龍王小学校長、村松志孝、龍王尋常高等小学校児童などの約50名が参加し挙行されている。





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by kaz794889 | 2012-12-24 23:26 | 山縣大弐 | Comments(0)
2012年 12月 23日

旧古関郵便局

【旧古関郵便局庁舎 ①】
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  西八代郡古関村に郵便取扱所の設置が内定した昭和11年、同所長の募集が行われ同村から数名の希望者が応募したという。
  昭和12年6月にかつて青年集会所のあった場所に庁舎が建築され、同年9月16日に古関郵便取扱所が開所している。旧古関郵便局の庁舎はその際に建築された建物である。
  その後、事務量の増加等から昭和15年1月16日に古関郵便取扱所から古関郵便局に改定されている。



【旧古関郵便局庁舎 ②】
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  開所当時、郵便と為替貯金業務を取り扱い、昭和14年9月には新たに電報の受付・配達、電話の窓口受付事務を開始し、翌15年1月からは簡易保険業務の取り扱いを開始し現在に至っている。
  昭和16年4月からは更に電話交換業務の取り扱いを行ってきたが、当該業務については昭和47年1月の電通合理化により電話交換業務は廃止となり、電報配達業務についても当時は集配局であった久那土郵便局に統合されている。
  その後、古関郵便局は昭和54年3月26日に新築移転(現在の局舎)し現在に至っている。




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by kaz794889 | 2012-12-23 22:55 | 郵便局・逓信 | Comments(0)
2012年 12月 16日

武田八幡神社 石鳥居

【武田八幡神社参道正面と総門】
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 武田八幡神社の創立は弘仁13年(822年)に旧来から武田武大神と崇められていた武田王の祠廟に宇佐八幡宮を勧請し、当地の地名である武田を冠して武田八幡宮と称することとなったと伝えられている。 
 その後、貞観年間(859年~876年)に石清水八幡宮が社中に勧請され神田の寄進が行われるとともに、甲斐源氏一族の尊崇を受け、武田の地に居館を構え武田氏を称した源信義が社殿を造営し武田八幡宮を氏神として仰ぎ、以来中世を通じて代々の武田氏から厚く崇敬を受け現在に至っている。
 境内は韮崎市神山町北宮地集落背後の東面傾斜地を階段状に削平し、石垣で社殿敷地を造成し、最上地に本殿、末社若宮八幡神社本殿が並び、順次下方に拝殿、舞殿が建てられその間は石段で結ばれている。
 写真は舞殿の下に建つ総門と参道正面の三の鳥居である石造明神鳥居である。



【文部大臣あて国宝指定願に関する文書】
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 昭和4年4月6日に武田八幡神社本殿は「国宝保存法(昭和4年法律第17号)」に基づき国宝(旧国宝)に指定されていることから、「右神社三ノ鳥居ハ伝フル処ニ依レバ桜ノ御所ヨリ現在地ニ遷座ノ際建造セラレタルモノナリト云フ其型石質ヨリ見テ極メテ古ク其当村ノ代表的建造物ナルモノト相認メ至急実地御調査ノ上国宝建造物ニ御指定相成度写真並ニ調書相添ヘ相願也」として、同神社の社司、社掌及び氏子総代名により文部大臣あて昭和13年3月26日付「国宝建造物ニ指定ノ義御願」を山梨県知事あて提出されたことに伴い、左記文書(兵収第1996号(13.7.20)「国宝指定願ニ関スル件」)が山梨県知事から文部大臣あて発出されている。



【山梨県知事あて文書】
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 前記の文書を受け、文部省宗教局長名により山梨県知事あて発出された文書の原義である。
 武田八幡神社から山梨県知事あて提出された文書に石鳥居の写真は添付されていたが、文部省から石鳥居の正面と側面の写真及び鳥居の刻名拓本の送付を求める文書である。
 なお、当該文書により送付された二枚の写真が後述する写真である。



【文部大臣あて送付した鳥居正面写真】
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 武田八幡神社の石鳥居は国宝保存法に基づく指定には至らなかったが、昭和36年12月7日に「武田八幡神社石鳥居付正面石垣」として山梨県の指定文化財となっている。




【送付写真の現状】
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 昭和13年当時の写真では、鳥居の後方に写る総門の屋根は茅葺となっているが、現在の総門は瓦葺に改修されている。
 



【文部大臣あて送付した鳥居側面写真】
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 鳥居には天正12年に補修した旨が刻まれている。



【送付写真の現状】
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by kaz794889 | 2012-12-16 17:05 | 神社 | Comments(0)
2012年 12月 09日

濁川北側の城東二丁目・四丁目地内

【旧池添町の不二葡萄園】
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  池添町は昭和23年から41年までの甲府市内の町名である。
  元は甲府市善光寺町の一部であったが、町域の約半分を占める字池添によるものであり、字名は同地内に存在した入道堀に由来しているという。
  町の中央を濁川が流れ、南側はかつての甲府刑務所の敷地であり町域の4分の1を占め、北側は不二葡萄園の広大な葡萄畑であった。
  左の写真は昭和10年頃のものであり、写真右側の人影のある道路の右側は、濁川(僅かに人影の上に写っている)であり、その道は濁川に沿っていた。写真に写る葡萄畑は、現在、城東病院となっている。




【現在の同位置】
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  既に葡萄畑もなくなり、甲府刑務所の移転後に建設された熊野通りが旧国道20号線(甲州街道)に向けて通じている。



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 写真の手前は濁川に架かる第一池添橋である。
 現在の熊野通りからは、旧甲府刑務所裏の高い外壁に沿って通じていた、二輪車がかろうじて通行可能な小道の面影は全く消えている。
   



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by kaz794889 | 2012-12-09 18:40 | 甲府市街点描 | Comments(0)
2012年 12月 09日

旧北巨摩郡農会庁舎

【旧北巨摩郡農会庁舎】
f0191673_23154689.jpg 農会は農事の経験知識を交換し、農業の改良進歩を図るために民間機関として当初発足した組織であり、その始めは明治10年頃に発生した農談会、種子交換会などの組織であったという。その後、明治14年に当時の農商務省が全国の老農を集め第一回農談会を催したことを機に、東洋農会、東京談農会を中核とした有志団体としての大日本農会が皇族を会頭に勧農官僚を役員として設立されている。
  明治20年以降、各府県に地方組織としての農談会、農業会等が相次いで発足され、明治27年には全国農民の意向を代表する機関として全国農事会が設立すると、同会は町村農会、郡農会、道府県農会を組織すめ系統農会を目指すこととなった。
  これに対して政府は明治32年に農会法を成立させ、道府県農会以下、郡、市、町村農会に至るまで、農事改良を行う法人団体として認めることとなり、更に明治43年には中央に帝国農会が設立され、傘下に全国の系統農会を組み込み農会の中央機関として認められることとなった。
  その後、戦時中の国内統制強化に伴い、昭和18年の農業団体法公布により農会は産業組合と統合されて農業会となり、農会は解消されている。
  北巨摩郡農会はこうした経緯の中で設立された、北巨摩郡を所管する系統農会であり、写真の旧庁舎は昭和11年に建設された建物である。




【旧同庁舎正面玄関部分】
f0191673_23161896.jpg  正面玄関の作りは、旧北巨摩郡農会庁舎の特長的なポイントのひとつである。




【旧同庁舎側面】
f0191673_23164847.jpg  旧北巨摩郡農会庁舎は現在使用されていないが、「山梨県近代化遺産総合調査報告書」において調査対象物件のひとつとなっている。




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by kaz794889 | 2012-12-09 00:00 | 山梨の近代建築 | Comments(0)
2012年 12月 02日

山梨県立韮崎中学校 2

【山梨県立韮崎中学校 全景】
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  韮崎中学校が開校した大正12年の学校全景である。
  現在は学校周辺も住宅や商業施設のある韮崎の市街地となっているが、開校当時の学校周辺は田畑の中に建つ学校の感である。




【昭和20年代の韮崎高校正門前の通り】
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  昭和23年の学制改革により韮崎中学校は韮崎第一高校と韮崎第二高校となり、その後の高校再編成により昭和25年に韮崎高校と改称されている。
 写真は、通りの右側に植えられている桜が満開となっている、昭和20年代の韮崎高校正門前の通りの様子である。




【現在の韮崎高校正門前】
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  路面は当然の如く舗装され、正門と学校を囲む塀、その下の溝も改修された現在の正門前の通りである。
  正門前に植えられた桜も現在は残されていないが、通り沿った奥に写る樹木は当時の桜の一部だろうか。




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by kaz794889 | 2012-12-02 13:18 | 学校 | Comments(0)
2012年 12月 01日

旧岩間郵便局

【旧岩間郵便局庁舎】
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  旧岩間郵便局は明治15年7月1日に、山梨県西八代郡岩間村(現在:西八代郡市川三郷町岩間)字西町に岩間郵便取扱所として開設され、その後同19年3月に岩間郵便局と改称している。
  郵便取扱所開設当時の岩間村は河内路における中心に位置しており、西八代郡下の落居、鴨狩津向、楠甫、宮原、葛籠沢、久那土、冨里、共和、古関村、南巨摩郡下の西嶋、切石村などを管轄としていた。




【旧岩間郵便局庁舎 2】
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  写真の旧岩間郵便局庁舎は明治34年1月に竣工した庁舎であり、入口部分は相当改装されているものの、現在も現役の印章関係店舗として利用されている。
  なお、庁舎の左側に写る蔵造りの建物は、昭和12年9月に局舎新館として増築された建物である。




【旧岩間郵便局新館南側】
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  前記で説明した局舎新館の北側(前記に写る新館の裏側)である。道路に面した表側には付けられていないが、北側の屋根には飾り屋根が設けられている。
  旧岩間郵便局は開局以来、集配郵便局(郵政省時代の集配特定郵便局)として業務を遂行してきたが、昭和58年3月28日に廃止され、同日、JR身延線甲斐岩間駅前に岩間郵便局の業務と久那土郵便局の集配業務を承継する形で、峡南郵便局が集配普通郵便局として設置され、現在に至っている。




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by kaz794889 | 2012-12-01 17:01 | 郵便局・逓信 | Comments(0)