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2012年 06月 24日

日本基督教団 山梨教会

【山梨日本基督教会】
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 日本基督教団山梨教会は、明治36年12月21日に日本基督教会甲府講義所として甲府市百石町に開設されている。
 その後、明治38年に錦町8番地、同44年に錦町10番地に移転し、大正5年には春日町15番地に教会堂が完成している。(大正5年に建設された教会堂については、峡陽文庫に平成20年11月4日に掲載した「絵葉書で見る 山梨 14」を参照されたい)
 
 昭和4年に山梨教会は自給独立20年を迎え、その記念事業として会堂改築が計画され、牧師館と会堂が増築されることとなり、昭和5年に完成(増築建坪62坪、経費約7000円)した建物が写真の教会堂である。



【昭和16年当時の甲府市街図】

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 山梨教会が建てられていた甲府市春日町15番地は、相生町時代の甲府市役所裏(市街図の青色で囲んだ位置)である。



【現在の山梨教会跡】

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 甲府空襲で甲府市役所、山梨教会は焼失しており、戦後、いずれの建物もこの場所から移転し、現在は飲食店街の一部となっており、道筋以外には戦前期の面影は全く残されていない。




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by kaz794889 | 2012-06-24 14:59 | 基督教会 | Comments(0)
2012年 06月 23日

商店の包装紙15 『梅林堂』

【御菓子司 梅林堂の包装紙】
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 梅林堂は生菓子の店として明治12年に甲府市柳町18番地、いわゆる甲府銀座のアーケード街の場所で創業している。
 清水の次郎長が湯村の厄除地蔵尊に参詣した帰りに梅林堂の磯巻を土産に買ったとの伝説があるようである。写真は昭和初期の梅林堂の包装紙である。

【梅林堂の営業品目】
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 包装紙に印刷された営業品目である。
 生菓子の他にも、それに付随する菓子や甘味を取り扱っていた。


【戦前期の梅林堂】
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 戦前期の梅林堂である、甲府銀座のアーケードは戦後建設されたものである。また、営業品目にも記載があるように、昭和7年には喫茶部の営業を始めている。
 営業開始当時は甲府銀座の通りを挟んだ向かいに中央館(映画館)や仲見世があるなど人通りも活発であった。




【現在の梅林堂跡】
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 甲府空襲による店舗の焼失後も、戦前期と同じ場所で営業がつづけられてきたが、現在はパチンコ店の駐輪場となるなどして営業は休止している。



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by kaz794889 | 2012-06-23 20:30 | 商店の包装紙 | Comments(1)
2012年 06月 10日

戦時期の山梨 8 「衣料切符制」

【衣料切符制の一問一答】
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  昭和12年7月の盧溝橋事件に伴う日中戦争以来、綿花の輸入は軍需・生産手段輸入確保のために統制が厳しくなり、昭和13年2月には「ステープル・ファイバー等混用規則」が公布され人造繊維の混用強制が実施され、輸出用、軍需用、特免品を除き、国内向けの綿製品にはスフ又は綿や毛でない繊維を重量の30%以上混用が強制され、純綿製品製造は禁止されていった。
  その後、昭和17年1月20日には、国家総動員法による物資統制令に基づき、「繊維製品配給消費統制規則」が制定され、同年2月1日から衣料品の切符制が実施され、点数制の衣料切符による販売が開始され、繊維製品についても切符制による配給統制を受けることとなった。
  衣料切符の点数制は2種類あり、甲種は郡部で一人当たり一律80点、乙種は都市(市制施行地を主体)で100点、切符の有効期間は原則1年とされた。

  左記の写真は、衣料切符制の実施にあたり、昭和17年1月に山梨県経済保安課及び商工課により発行された「衣料切符制ノ一問一答」冊子である。
  衣料切符制を実施について、この冊子には「繊維原料については、生糸を除き、綿はインド、アメリカ、羊毛は豪州等から輸入されており、スフ等もその原料は自給自足できるものの、副原料である苛性ソーダ等は外国からの輸入している状況であったが、満州事変以来、軍需資材や生産拡充のために使用する資材を確保するする必要がある関係上、衣料方面を制限しなければならなくなった。」と記されている。
  また、一人あたりの切符の点数については「甲府市以外の町村に居住する者には点数80点の甲種衣料切符、甲府市に居住する者には点数100点の乙種衣料切符を交付」また「切符は必ず販売者に切り取ってもらう。切符から切り取ってしまったものは無効」である旨も記されている。



【第二種 衣料切符】
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  昭和17年の衣料切符制の実施以降、繊維製品の不足はさらに深刻化し昭和19年には甲種、乙種の区別が撤廃され、一人あたり30歳以上40点、30歳未満50点を交付する切符制に改められている。
左記の写真は、昭和19年に改正された30歳以上40点の「衣料切符 第二種」である。


【第二種 衣料切符の内容】
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by kaz794889 | 2012-06-10 14:00 | 戦時期の山梨 | Comments(0)
2012年 06月 03日

山梨県病院診察券

【山梨県病院診察券】
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 昭和14年の小児科診療に係る「山梨県病院診察券」である。
 当時の診察科は診察券にも印刷してあるとおり、8科を擁しており、昭和15年度における各科別の入院、外来患者数によると小児科は、入院延人員4,337人、外来延人員5,444人であった。



【山梨県病院診察券(裏面)】
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 昭和14年は、9月1日に初の「興亜奉公日」(毎月1日に酒類の不売、ネオン消灯、勤労奉仕などを実施)が制定されるなど市民生活の戦時統制が強まった年であり、山梨県病院においても、山梨県病院特別警防団が組織され防火訓練が実施され、患者の防護非難方法が定められている。



【昭和10年代の甲府市地籍図】
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 山梨県病院は昭和45年10月に山梨県立中央病院として現在の場所に新築移転するまで、甲府市錦町(現在:中央中央1-11の中央公園を中心とした位置)に置かれていた。



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by kaz794889 | 2012-06-03 10:03 | 病院 | Comments(1)
2012年 06月 02日

牛倉神社と楠公像

【牛倉神社の正面】
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 牛倉神社は上野原市街の甲州街道(国道20号線)から南側に80m程入った位置に鎮座している。

【上野原町郷社牛倉神社境内】
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 昭和初期頃の牛倉神社正面である。

【牛倉神社 拝殿】
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 牛倉神社の拝殿は明治13年に建設されたものである。

【忠臣大楠公之銅像】
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 牛倉神社境内(拝殿の右側)に残る楠公像である。
 この楠公像は昭和15年の紀元2600年記念事業として建設され、昭和16年11月3日に竣工した上野原国民学校奉安殿の脇(左側)に建立されたものである。
 紀元2600年の記念事業として、当時は全国的に楠公像が小学校に建立されていたが、その後の金属供出で供出された例が多く、こうして残されている楠公像は数少ない事例と考えられる。
 この楠公像は、富山県高岡市の廣野市次郎が製作したものであり、16名の寄贈者と上野原町長や上野原小学校長らの建設賛助者により建立されたものである。
 上野原小学校からこの場所に移設されたのは、奉安殿の取除作業が行われた、昭和21年8月20頃と思われる。

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by kaz794889 | 2012-06-02 09:12 | 神社 | Comments(0)