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2012年 03月 31日

甲府停車場

【(甲府名所) 甲府停車場】
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 甲府駅の開業は明治36年6月であり、写真の駅舎は開業時に建設された本屋である。
 駅の車寄せには人力車や馬車が客待ちをしている。
 その後、この建物は駅待合室のストーブの失火により、大正13年3月19日に焼失している。
 

【現在の甲府駅】
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 現在の中央本線甲府駅である。
 この駅舎は昭和61年に完成した開業から三代目の建物である。
 初代の駅舎が建設されて焼失するまで21年間、大正14年3月10日に完成し甲府空襲にも焼け残った二代目の駅舎が61年間、そして現在の駅舎は今年26年目を迎える。


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by kaz794889 | 2012-03-31 20:22 | 鉄道 | Comments(0)
2012年 03月 25日

旧池田小学校校舎

【旧甲府市立池田小学校校舎】
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 昭和41年12月25日に現在の場所(甲府市長松寺町7-1)に新築移転するまで、池田小学校は中央本線の北側にあたるこの場所に置かれていたが、校地が1,036.75坪と狭隘であったこと、また、校地を隔てた南側80mに中央本線が通っているいるため、列車が往復するたびに揺れや騒音のため、授業等を中断する必要があったことなどから、昭和32年頃から学校移転が考えられていた。

 学校の移転後、その跡は製菓会社となり、現在に至っている。
 写真の奥に写る木造二階建ての建物が旧池田小学校校舎であり、前方の工場棟が並ぶ場所が校庭であった。


 
【旧池田小学校の敷地】
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 池田小学校は明治期から池田尋常小学校としてこの場所に置かれており、現在も使用されている写真の校舎は、甲府市に合併前の中巨摩郡池田村立池田小学校の新校舎として、昭和24年5月29日に落成したものである。(昭和24年12月1日に池田村は甲府市と合併し、その後甲府市立池田小学校と改称している。)
 


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by kaz794889 | 2012-03-25 11:47 | 学校 | Comments(0)
2012年 03月 24日

旧竜王郵便局

【旧竜王郵便局 正面】
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 竜王郵便局は、藤巻仲右衛門が初代局長として郵便御用を仰付かい竜王1699番地で明治7年7月に開局している。
 明治15年11月4日に小池善蔵が2代局長に着任するとともに、局舎も移転している。
 写真の建物が建つ場所は、明治15年に移転した住所地ではあるが、この建物が明治15年当時からのものであるか否かは未確認であるものの、昭和33年3月に竜王1658番地の竜王警察署の元庁舎に移転するまでの間、竜王郵便局庁舎として使用されていた旧庁舎である。
  写真の左側ドアの前に、以前は局舎の入り口部分が設けられていたが、現在は撤去されている。

【旧竜王郵便局 南側面】
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 明治・大正期に使用されていた郵便局庁舎として、山梨県内に現在も残されている数少ない建物の一つである。 


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by kaz794889 | 2012-03-24 23:53 | 郵便局・逓信 | Comments(0)
2012年 03月 18日

野口正章とビール醸造

【山梨麦酒沿革】
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 我が国最初の国産ビールは、甲府柳町の十一屋、野口正章により醸造発売されたと云われている。
 大正3年12月15日に甲府市役所あて十一屋から提出された『「山梨麦酒沿革書』によると、「山梨麦酒は明治7年1月の創業にして当時本邦に於いて麦酒を醸造するものあらず、民間麦酒醸造の濫觴とも称すべき時代なり」と記されている。
 野口正章は、明治2、3年頃からビールの試醸に着手し、明治4年には京都に在留していた外国人に指導を求め、ビール醸造機器のの製作研究を続け、その後、藤村県令の奨励を受けて醸造機械と設備を備え、更に横濱から招いた英国人技師コプランの指導のもと醸造法などを研究習得するなど、数年間に渡って多大の私財を投入しビール醸造の完成に至っている。



【十一屋の跡】
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 醸造されたビールは「甲斐ビール」「三つ鱗」の商標を付けて京浜地方に売り出し、明治8年には京都で開催された内国博覧会や明治10年に東京で開催された内国勧業博覧会において賞牌を受けるなど、製品は認められるものの、当時の社会環境的には、必ずしもその売れ行きが芳しいといった状況ではなく、ビール醸造に充てた負債は当時の金額で九万円余となり、十一屋の長男であった正章は稼業の一切を弟の富造に譲り、明治15年には東京に移住している。


【野口正章の墓】f0191673_11503317.jpg



 野口正章は嘉永2年3月7日に生まれ、大正11年10月7日に東京市麹町区内幸町の自宅で74歳で没している。



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by kaz794889 | 2012-03-18 13:33 | Comments(0)
2012年 03月 17日

山梨の蔵元 6 『十一屋』

【君が代のラベル】
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 「君が代」は、かつて十一屋が醸造していた代表銘柄である。
 十一屋を営む店主である野口家は、明和元年(1764年)に近江(滋賀県蒲生郡)から来住し、十一屋の屋号を以て酒造及び質屋業を営み、安永元年(1772年)に柳町に移転し醤油醸造を兼営するため、質屋業を廃業し酒・醤油醸造の拡張に勉め、寛政年間から明治維新に至る間、札差を務めていた。

【君が勲のラベル】
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 創業以来の販路拡大により醸造所が狭隘となり、大正5年に醤油醸造所を緑町に移転させ、大正13年には酒の醸造所を横沢町に、販売店を桜町に移転している。

【甲府柳町 現在の十一屋跡】
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 甲府ワシントンホテルプラザの建つ場所(甲府市中央4-3-5)が、かつて十一屋があつた場所である。
 大正13年に甲府市横沢町(現在:甲府市朝日3-8-54)に十一屋が移転した後、柳町の敷地は甲府仲見世となり現在に至っている。

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by kaz794889 | 2012-03-17 15:23 | 蔵元 | Comments(1)
2012年 03月 11日

中央本線 穴山駅

【穴山駅駅舎】

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  中央本線の韮崎駅から富士見駅間は、日野春駅、小淵沢駅の2駅を中間駅として明治37年12月21日に延伸開業している。
  延伸開業された約7年後、韮崎、日野春間、7哩8分(約13㎞)という駅間距離と鉄道開通後の利用者像に伴う沿線住民の熱心な要請から、中間駅建設の必要性が生じ、大正2年8月1日に穴山駅が開設された。
  穴山駅の場所は、当時、その大部分が畑地であり窪地であったため、トンネル掘削や掘割を切り取った際の土で埋め立て、それでも不足する分は駅附近の能見城跡の裾の一部を欠いて補ったと言われている。
 また、こうした埋め立て地に建設したため、駅舎が沈み、開設から数年後に再び駅舎を建て直している。   現在の駅舎は近年立て直したものであるが、建て直し前の駅舎は、大正7年に建築されたものであり、待合室、事務室、小荷物取扱所など、ほとんど建設当時のまま残されており、山梨県教育委員会が平成9年に発刊した「山梨県近代化遺産総合調査報告書」にも山梨県内の近代化遺産として掲載されている。

【穴山駅のスイッチバック跡】

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 韮崎、日野春間への中間駅設置について、当初は当時の北巨摩郡中田村中條の中原地内が候補地となっていた。 
 候補地は、山野とはいえ、比較的平坦な場所であり、相対式ホームによる駅の建設が容易な適地であったため、当時の鉄道当局が中田村に話しを持ち込んでいるが、中田村の村議会が鉄道当局の「敷地を寄附せよ」との要望に対し土地が減少することや、駅舎建設工事による風紀の乱れなどを理由に反対している。
 穴山駅はスイッチバックによる駅として建設されたが、昭和46年の複線化によりスイッチバックが廃止されている。

【穴山駅前】

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 駅舎の北側が穴山駅の駅前にあたり、写真のトラックの位置附近に取り壊し前の旧駅舎が建てられていた。
 穴山駅の開業後、駅前に移り住む者が増加し、当時の穴山村の中心は駅前に移っていったというが、現在は駅前の雰囲気が、その区画に僅かに残るものの、営業店舗等は無くなっている。

【小林翁頌徳碑】

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 穴山駅の開設にあたり、鉄道当局に敷地14,500坪を寄附することとなり、穴山村が土地所有者から買収することとなったものの、高額土地に係る買収費は村も負担することが困難であったが、当時の穴山村長であった小林保蔵の、自らの資産をなげうっても駅建設を成し遂げる決意により穴山駅が開設された。
 小林翁頌徳碑は昭和28年8月に、穴山駅開駅40年にあたり建設された頌徳碑であり、穴山駅前に建立されている。

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by kaz794889 | 2012-03-11 13:14 | 鉄道 | Comments(4)
2012年 03月 10日

甲府連隊【歩兵第四十九連隊】を歩く 6「地図で見る今昔」

【甲府連隊入峡記念 絵葉書】
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 甲府連隊の兵営は明治43年4月に完成し、4月23日には太田連隊長率いる二千の将兵が千葉県習志野の仮営を出発し、甲府の新兵営に入城している。
 以来、昭和20年までの35年間、この地に兵営が置かれていた。
 右に写る橋は、兵営と練兵場の間を流れる相川に架かる竜雲橋である。

【甲府連隊の旧兵営敷地内に建つ「歩兵第四十九連隊跡碑」】
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 甲府連隊の旧兵営敷地内に昭和44年4月に建立された連隊跡碑。

【兵営建設当時に作成された絵図】
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 甲府連隊の設置は、明治40年の甲府市議会における、陸軍省に対する甲府への軍隊設置の請願決議とともに、甲府市山田町の若尾民造による、連隊設置に要する敷地約百町歩の献納申し出があったことにより、陸軍省がその願意を容れたことによる。
 これにより、歩兵四十九連隊、甲府衛戍病院、甲府連隊区司令部及び甲府憲兵分隊が設置されることとなり、甲府市に隣接する当時の西山梨郡相川村の地に甲府連隊が設置された。
 兵営の地は、それまで田畑であったため、左記の絵図には敷地内にあった野良道などが記されている。




【昭和初期の甲府連隊附近】
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 昭和初期に発行された「甲府市全図」の甲府連隊附近である。
 兵営の下部にある県立甲府中学校は、甲府連隊設置後の昭和3年9月に旧甲府城内からこの場所に新築移転している。

【現在の甲府連隊跡附近】
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 平成13年8月1日に発行された「国土地理院1万分の1地形図 甲府」の旧甲府連隊附近である。
 昭和初期の地図と比較すれば一目瞭然のとおり、甲府連隊の区画は往事のまま残されている。
 旧兵営の敷地は国有地として売却されるなどして北側や南側の一部が民有地となり住宅地となっている。  また、民有地以外の区画は山梨大学附属小中学校など山梨大学の付属施設、公務員宿舎、自衛隊山梨地方連絡部(現在は甲府合同庁舎に移転)や県有地として山梨県の福祉プラザ、市有地として甲府市立北新小学校、北新保育所、市営団地となっている。
  兵営の西側を流れる相川の先は、甲府連隊の練兵場跡である。
  現在、練兵場の跡は、緑ヶ丘スポーツ公園、国土交通省甲府工事事務所のほか住宅地となっている。


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by kaz794889 | 2012-03-10 17:36 | 甲府連隊 | Comments(1)
2012年 03月 04日

商店の包装紙11 『中込呉服店』

【中込呉服店の包装紙】
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 中込呉服店は甲府市橘町18番地(現在:丸の内1-8-5)で営業していた呉服店である。
 この場所は、山梨県庁舎がこの一画(甲府中学の跡)に新築移転するまで、甲府城追手門の西側に位置あたる堀であり、県庁舎の新築移転に伴い埋め立てられた場所である。


【中込呉服店の店舗】
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 戦前期の中込呉服店の店舗である。


【以前の中込百貨店跡】 
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 終戦後、中込呉服店は中込百貨店となり、戦前期と同じ場所で営業していた。
 その後、終戦後に建てられた旧店舗が取り壊され、デパート形式の「アーバン中込」として写真の建物で営業されていた。
  その後、この建物は「西友」、「甲府西武」、「県民情報プラザ」となっている。


【現在の中込百貨店跡】
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 建物が山梨県の所有となり、県民情報プラザとして使用された後、この場所に防災新館が建設されることとなり、現在は建物が取り壊され、防災新館の新築工事が進められている。 


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by kaz794889 | 2012-03-04 13:36 | 商店の包装紙 | Comments(0)
2012年 03月 03日

甲府城三の堀 2 (城東二丁目地内)

【東側に流れを変えた三の堀】
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 城東二丁目地内に入り北上した三の堀の流れは、その後、東側に直角に流れを変える。
 写真は、北上した流れが突き当り、東側に流れが変わる位置を東側から見る情景である。

【再度北側にクランクした位置から笠森稲荷大神社脇に突き当たる三の堀】
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 上記の写真を撮影した位置で、三の堀の流れは更に小さくクランクして北側に流れを変え、笠森稲荷大神社の脇に突き当たり、再び西側に流れが変わっていく。

【笠森稲荷大神社】
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 笠森稲荷大神社は江戸享保年間に愛宕町から勧請したことにより創建された稲荷神社である。 

【笠森稲荷大神社前の橋上から見た三の堀東側】
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 左側から三の堀を流れる濁川は、右側に突き当り、東側にクランク(写真にを撮影した橋上方向)している。
 糸賀喜久太郎遺構『夢の深町六十年前の思出』によると、写真の場所は、明治4年に濁川通船が行われた当時は鰍沢から上がってきた舟の繁舟場であったという。

【笠森稲荷大神社の手前から東側の情景】

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 甲府城の三の堀としての役割は概ねこの場所までとなる。
 この先、三の堀の流れは濁川として市街地から農村地帯を南側に向けて流れ、笛吹川と合流する。


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by kaz794889 | 2012-03-03 15:29 | 甲府城 | Comments(0)