峡陽文庫

kaz794889.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

<   2011年 08月 ( 8 )   > この月の画像一覧


2011年 08月 28日

藤村紫朗の墓所再訪

【墓所全景】
f0191673_9155648.jpg


 この夏、熊本市の禅定寺にある藤村紫朗の墓所を再訪した。
 寺域の西側にある藤村紫朗の墓所は、門柱と塀に囲まれた墓所であり、門柱に残る金具を見る限りでは、当初はそこに鉄門が備わっていたようである。
 最初に墓所を訪れた17年近く前は、門柱左側の塀沿いを抜けて墓所の反対側に出られたが、左に写る木の根元が成長し、現在はそれが困難な状態である。

【墓所内からの入り口】
f0191673_9164643.jpg


 右側が前記の門柱から階段を上がった藤村紫朗の墓碑が建つ場所の入口である。
 また、左側の墓碑は後述する黒瀬家墓碑の側面である。

【黒瀬家累世之墓】
f0191673_9173318.jpg


 墓所の門柱から入ると右側に黒瀬家の墓碑、続く階段を上がった場所に藤村紫朗の墓碑が建てられている。
 藤村紫朗は弘化2年3月1日に熊本藩士の黒瀬市左衛門、登千子の次男として熊本城下坪井寺原町に生まれ、14歳の年に同じ熊本藩士であった萱野家の養嗣子となり、明治維新後に藤村姓を名乗って熊本藩籍を脱して東京府士族となっている。
 黒瀬家は藤村紫朗の父である黒瀬市左衛門が嘉永4年に没したため、実兄である黒瀬市郎助美之が継いでいたが、後に堤松左衛門、安田喜助とともに横井小楠を襲撃した際、その場に同席していたことから斬られて重傷を負って死に至った吉田平之助の遺子により、明治元年2月3日に仇を報じられ33歳で死去している。
 黒瀬家の墓は、こうした藤村紫朗の生家である黒瀬家累世の人々の墓である。

【男爵藤村紫朗之墓】
f0191673_9181396.jpg


 男爵藤村紫朗之墓と刻まれた藤村紫朗の墓碑である。
 墓前にある石製の花立てなどの諸具は荒れている状態であり、聞くところによるとこの墓所は長年に渡り風雪に任せた状態が続いているとのことである。

【墓石の側面】f0191673_9235694.jpg


 墓碑の右側側面に刻まれている、藤村紫朗の生年と没年である。墓碑には正面と右側側面以外には刻まれている文字もなく、墓域には藤村紫朗以外の墓碑は建立されていない。
 明治7年から20年3月まで山梨県令、知事を務めていたことなどから藤村記念館が建設され、現在も藤村式建築としてその名前が残る山梨県内と比較し、熊本で生まれ育ち、晩年を過ごし墓所のある地元の熊本では藤村紫朗の名前は知られていない。再訪した藤村紫朗の墓所にその実態が感じられた。
  再訪の際に熊本県立図書館に立ち寄り、室内に掲げられた富岡敬明の揮毫を目にしたため、富岡は晩年を山梨で過ごしているため、藤村紫朗とともに山梨県内では知られていることを話したところ、藤村紫朗のことはよく知らないが、富岡敬明は西南戦争当時に熊本県知事を務めていたため、熊本県内では知られている人物であるとのことであった。

にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします

by kaz794889 | 2011-08-28 11:38 | 藤村紫朗 | Comments(0)
2011年 08月 27日

身延自動車株式会社 湯村温泉━甲府南口駅線

【身延線 南甲府駅】
f0191673_212133.jpg


 昭和3年3月30日に冨士・甲府間の身延線が全通した際に開業した南甲府駅(開業当時の駅名は甲府南口駅)である。
 全通当時の身延線は冨士身延鉄道として開業したものであり、甲府南口駅を中心とした甲府市南部の開発が計画され、現在も駅前周辺を中心に碁盤の目状に道路が形成され、東一条、西一条、北大路、南大路といった通りの名前が過去の名称として記憶されている。

【身延自動車 自動車時刻表】
f0191673_21171421.jpg
 身延自動車は大正14年に開業したバス事業会社であり、昭和4年に身延弘通、昭和6年に富士川自動車を合併し、身延から静岡の芝川にいたる地域のバス事業を統合した峡南地域を中心としたバス会社であった。
 その後、戦時体制の強化から山梨県内は国中地方と郡内地方の2ブロックでのバス会社の統合が図られることとなり、山梨開発協会、峡西電気鉄道、身延自動車ほか6社が昭和20年5月1日に統合し山梨交通が発足している。
 統合当時の身延自動車は本社を甲府に置き、34両の車両を有していた。



【湯村温泉━甲府駅━南口駅間時刻表】
f0191673_21174636.jpg
 昭和13年2月1日改正の湯村温泉と甲府南口駅間のバス時刻表である。
 甲府南口駅から緑橋営業所、甲府駅を経由し、所要時間23分で湯村温泉とを結んでいた。
 当時、緑橋営業所は甲府市柳町70番地(法人会館(旧甲府商工会議所)と隣接した南側の場所)に置かれていた。 
 甲府南口駅は冨士身延鉄道の駅であったことから、湯村温泉とこの駅を結ぶ路線が設けられていたものと思われるが、身延線はこの年の11月1日に鉄道省による借り上げ運営が始まり、16年5月1日には国に買収されている。




にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします

by kaz794889 | 2011-08-27 22:15 | 交通 | Comments(0)
2011年 08月 26日

龍華池

【龍華池 北東側】
f0191673_1629433.jpg


 甲府市古府中町(武田神社の北東)の龍華池である。
 大正初期の大干害により、当時の西山梨郡相川村は相川耕地整理組合を組織し、大正3年9月に工費61,000円を以って起工し、相川村古府中町日影躑躅ヶ崎に三町五反余の大貯水池を築造し、大正7年1月に龍華池として完成させている。

【龍華池 南西側】
f0191673_16331550.jpg


 龍華池の流域面積は80町歩、貯水面積は3町1反1畝、貯水量は243,134㎥である。

【龍華池竣工記念碑】
f0191673_1631291.jpg
 龍華池の竣工記念碑は、南側の築堤下に建立されている。



【龍華池南側放水口】
f0191673_16314484.jpg
 龍華池の竣工記念碑脇にある龍華池の南側放水路である。
 龍華池は築造以来30年以上が経過し、老朽のため堤塘各所から漏水し所要量の貯水が不可能となり、豪雨に際しては堤体の安全も保ち難くなったため、昭和29年度から3か年計画を以って国庫補助事業として改修工事が行われている。
 現在、龍花池は相川土地改良区で維持管理を行っている。




にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします

by kaz794889 | 2011-08-26 17:04 | Comments(0)
2011年 08月 25日

甲府宝塚劇場・甲府シネマ新築開場

【現在の甲宝シネマ】
f0191673_15164379.jpg


 甲府市中央一丁目の春日通りに面した現在の甲宝シネマである。
 その始まりは、甲府市太田町の「演伎館」を改め昭和12年に開場した甲府宝塚劇場である。
 甲府空襲により焼失した後、昭和21年9月に現在の場所に移転し甲府宝塚劇場として再建している。
 平成7年に現在の建物が新築された際に「甲宝シネマ」と改称され現在に至っている。

【昭和39年頃の甲府市中心街と映画館】
f0191673_15174681.jpg


 昭和39年頃の甲府市街図と映画館(赤字表示)の位置である。
 この市街図の範囲内で、現在も上映を続けている映画館は、この甲宝シネマ(市街図には、甲府宝塚劇場、甲府シネマと表示)のみとなっている。

【新築開場のパンフレット】
f0191673_15181299.jpg
 昭和21年9月に再建された甲府宝塚劇場が昭和31年9月に鉄筋コンクリートで新築された際の新築開場パンフレットである。
 この新築の際にシネスコ映画館選択上映館として同一建物内に「甲府シネマ」が新たに開場している。



【新築開場パンフレットの内容 ①】
f0191673_15184221.jpg


 新築時に甲府宝塚劇場で上映されていた映画は「猫と庄造と二人のをんな」と「のんき夫婦」である。
 いずれも昭和31年10月に上映が開始された映画であり、昭和31年度キネマ旬報の日本映画のベストテンで「猫と庄造と二人のをんな」は第四位となっている。

【新築開場パンフレットの内容 ②】f0191673_15191130.jpg



 甲府シネマで上映されていた映画は記録映画である「カラコルム」である。
 この映画も昭和31年度キネマ旬報の日本映画のベストテンで第三位となっている。

にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします

by kaz794889 | 2011-08-25 15:53 | 劇場・映画館 | Comments(0)
2011年 08月 23日

戦時期の山梨 6 「動員学徒援護会山梨県支部」

【動員学徒援護会山梨県支部設置ニ関スル件】
f0191673_1159523.jpg


 昭和17年1月9日の国民勤労報国協力令施行規則に基づく学徒動員令により、学徒の勤労動員が始まって以来、昭和18年6月25日の本土防衛のための軍事訓練と勤労動員の徹底を図るための「学徒戦時動員体制確立要綱」の閣議決定、昭和19年8月23日の学徒勤労動員に対する法的根拠措置としての「学徒勤労令」の公布など、勤労動員の強化が図られ、山梨県内の全中等学校生徒は軍や民間の工場、農場などに動員されていた。
 こうした軍隊などに動員された学徒の、業務上における災害救済と教養指導を主な事業とした「動員学徒援護会」が昭和20年3月8日に文部大臣を会長として文部省内に設立され、山梨県においても山梨県告示第150号により同会の山梨県支部が同年6月15日に設置された。

【動員学徒援護会山梨県支部規程】
f0191673_1212352.jpg
 動員学徒援護会山梨県支部の設置に伴い定められた、同会山梨県支部規程である。
 山梨県支部は山梨県庁学務課内に置かれ、支部長は中島賢蔵山梨県知事、副支部長には県庁内政部長と教育会山梨県支部事務局長の2名、参与には県庁経済部長、警察部長、甲府中学、甲府高等女学校、農林学校、甲府男子国民学校、甲府女子国民学校、甲府女子青年学校の各校長ら8名が就任している。(山梨県支部の役職員としては、前記のほかに幹事、書記が24名就任している。)
 
 なお、動員学徒援護会は昭和20年7月1日に「財団法人勤労学徒援護会」となり、昭和22年1月7日には、終戦後の混乱から生活に困窮する学生・生徒に対する支援を主な事業とする「財団法人学徒援護会」となり、平成元年4月1日には新たに「財団法人内外学生センター」となり、現在に至っている。





にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします

by kaz794889 | 2011-08-23 13:04 | 戦時期の山梨 | Comments(0)
2011年 08月 22日

太宰治と甲府 1 【東洋館と新ハムレット】

【新築当時(昭和6年9月頃)の東洋館】
f0191673_2112040.jpg


 東洋館は春日通りに面した甲府市錦町18番地(現在の甲府市中央1-6-3)で営業していた温泉旅館であり、昭和6年の秋に写真の本館が新築落成している。
 太宰治は甲府市水門町の石原美知子と昭和14年1月に結婚し、甲府市御崎町56番地に新居を構え、同年9月に三鷹に転居している。
 太宰治は最初の書き下ろし長編小説である『新ハムレット』(昭和16年7月、文芸春秋社刊)の執筆を昭和16年2月から始め、静岡市三保の「三保松原の突端の、白い灯台の下の宿屋です。」と山岸外史あての葉書に記した、三保園で同月19日から月末まで執筆に取り組んでいたが、執筆の進捗が芳しくなかった気分一新のためか、4月5日に井伏鱒二と甲府に行った際、東洋館に滞在し「新ハムレット」の執筆を続け5月末に完成させている。
 なお、昭和16年4月9日の消印で、「甲府市錦町東洋館内」を住所として太宰治が山岸外史に宛てた葉書には「甲府では、どうも酒を飲む機会も多く、仕事が思ふやうに、はかどりません。甚だ心細く、淋しい気持であります。」と記している。

【昭和30年頃の甲府温泉郷略図】
f0191673_21191590.jpg
 昭和30年頃の甲府温泉郷の略図である。
 太宰治が東洋館に滞在していた昭和16年頃には営業していなかった旅館もあるが、市街地に所在する旅館の殆どは戦前期から営業している。
 東洋館は略図にある「⑪」の場所である。




【現在の東洋館跡①】
f0191673_2115617.jpg


 東洋館のあった場所の現在の様子である。
 黄色の看板の先が東洋館の位置であり、かつての敷地には居酒屋等が入居する「東洋館ビル」が現在は建てられている。

【現在の東洋館跡②】f0191673_2121845.jpg




にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします

by kaz794889 | 2011-08-22 22:29 | 太宰治と甲府 | Comments(0)
2011年 08月 14日

長坂駅開通祝賀会


【長坂駅開通祝賀会の開催通知】
f0191673_15414744.jpg
 中央本線の韮崎、富士見間の開通は明治37年12月21日である。
 この区間にある日野春駅と小淵沢駅の間は約14㎞あり、この駅間距離は単線であることから列車のすれ違いができず、対向列車が駅間を通り過ぎるまでの、両駅での待ち合わせには相当の時間を要するため、所要時間の短縮と合理化のため、大正4年に日野春、小淵沢間に信号場が建設されることとなり、鉄道院から信号場の設置が提示された。
 信号場設置の提示を受けた当時の日野春村長坂上条区は停車場の設置を要望し、これが長坂駅開業の始まりであり、16人の長坂上条区民有志による駅開設請願委員会が結成された。
 駅開設請願委員会は、駅開設に係る条件として鉄道院から示された、土地提供と建設費について、長坂上条区有地と建設費を寄附することにより条件を満たすとともに、開設される駅前の街づくりも計画に含めて準備を進めることとなった。


【祝賀会式次第】
f0191673_1542856.jpg



【長坂駅開設記念碑】
f0191673_15425118.jpg
 長坂駅の開設を記念し鉄道院総裁 床次二郎の揮毫により長坂駅前に大正7年に建立された記念碑である。
 長坂駅の開設にあたり、駅開設請願委員会は大正4年からの3年間に5500円余の寄付金を集め、駅の諸設備や停車場本屋に1000円、駅前の開発・整備に4000円が充てられている。



【現在の長坂駅】
f0191673_15431618.jpg


 大正7年12月11日に開業した現在の長坂駅である。

【長坂駅のスイッチバック跡】
f0191673_1544088.jpg


 長坂駅はスイッチバック構造の駅として開業したが、スイッチバックは昭和48年5月に廃止されている。
 写真は、小淵沢駅方向から長坂駅方向のスイッチバック跡の現状である。

にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします

by kaz794889 | 2011-08-14 16:40 | 鉄道 | Comments(0)
2011年 08月 07日

山縣大弐を歩く 2 【山縣神社の2】

【山縣神社本殿】f0191673_21155752.jpg


 明治34年に山縣神社創設の目的を以って山縣会が組織され、大正8年9月8日には山縣神社奉建会が創設され、奉建会の会長には廣瀬和育が就任している。
 その後、大正10年9月19日に山縣神社創立が許可され、同月21日には県社に列せられ、翌日の22日に鎮座祭が行われている。
 
【竣工当時の山縣神社本殿】
f0191673_21172218.jpg


 本殿は山縣神社の最初の社殿として、大正10年8月30日に竣工している。
 竣工から85年が経過し、前記現状のとおり竣工当時と比較して本殿周囲の樹木も確実に生育している様子がうかがわれる。

【山縣神社拝殿】
f0191673_21164429.jpg


 山縣神社の拝殿は本殿の竣工から6年後の昭和2年6月25日に竣工している。

【昭和10年頃の山縣神社拝殿】
f0191673_21174458.jpg
 昭和10年頃の山縣神社拝殿である。
 本殿、拝殿を主とした山縣神社の社殿工事は、昭和3年9月に竣工し、同月22日に竣工奉告祭が行われている。



にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします

by kaz794889 | 2011-08-07 21:46 | 山縣大弐 | Comments(0)