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2010年 10月 30日

小林一三と練絲痕

【成器舎の生徒募集広告】f0191673_1845395.jpg


 小林一三は明治6年1月3日に河原部村(現在の韮崎市)の豪商「布屋」に生まれた。名前は生まれた月日にちなんで名付けられたものである。
 小林一三の母親である「菊野」は小林家の娘であり、父親の「甚八」は中巨摩郡竜王村(現在の甲斐市)の丹沢家から迎えられた婿養子であった。小林一三の母親は、彼が生まれた年の8月に、一三とその姉「たけよ」を残し21歳で逝去しており、その後、父親である甚八は小林家と離縁し実家に戻っている。
 小林一三は地元の韮崎学校を卒業後、東八代郡南八代村にあった私塾である成器舎に入学したが、明治20年の夏に腸チフスに罹り成器舎を退学している。

【小説 練絲痕】
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 成器舎を退学後、小林一三は上京し明治21年2月に慶応義塾に入学している。
 小説である「練絲痕」(れんしこん)は、明治23年4月4日の夜に、麻布鳥居坂の東洋英和女学校の校長である、ESラーヂ女史の夫で宣教師であるチーラーヂが何者かに殺害された事件を題材とした、慶応義塾在学中の小林一三による小説であり、明治23年4月15日から25日までの間、山梨日日新聞に所載されていたが、題材の事件は、当時怪事件とされていたこともあり、事件後10日以内に小説として発表されたことが、事件の内情を知る者による小説であると捜査当局に見られたことから、山梨日日新聞社に作者の住所氏名照会がなされ、当時の小林一三の下宿先に麻布警察署の捜査員が来るなどしたため、続稿の腹案が作者である小林一三にあったものの、第9回を限りに完としたものである。
 なお、写真の「練絲痕」は、『公私月報』第47号の附録として、昭和9年8月5日に発行されたものである。



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by kaz794889 | 2010-10-30 22:10 | 小林一三 | Comments(0)
2010年 10月 23日

旧室伏学校校舎

【旧室伏学校校舎・牧丘郷土文化館】
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  旧室伏学校校舎は明治8年に、いわゆる藤村式建築である擬洋風建築の校舎として建設され、翌9年に室伏学校として開校しており、その規模は南北・東西ともに12.6m(9間)の正四角形、木造2階建であり、他の藤村式建築の学校と比較し極めて簡素に造られ、そこが大きな特徴となっている。
 また、この校舎は現在の場所から南西に460mの場所に建てられていたものであるが、平成14年度、山間地域整備事業により、道の駅の一画であるこの場所に平成15年3月に移築され牧丘郷土文化館として運営されている。

【旧室伏学校・牧丘郷土文化館】
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 旧室伏学校校舎は昭和51年3月30日に旧牧丘町の文化財として指定され、現在も合併後の山梨市の指定文化財となっている。

【牧丘郷土文化館の平面図】
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 明治9年に室伏学校として開校したこの校舎は、諏訪尋常小学校(明治18年)、室伏尋常小学校(明治26年)、諏訪高等小学校の併設(明治43年)を経て、昭和8年に室伏尋常小学校は廃校となっているが、廃校後、校舎は室伏地区公会堂として使用された後、日川高校諏訪分校(昭和24年)、山梨高校諏訪分校(定時制)(昭和25年から29年)、牧丘第一保育所(昭和36年)、養蚕場(昭和37年)、室伏公民館(昭和47年)として使用されてきたものであり、室伏地域の住民からは、その形状から「インキ壺」の愛称で呼ばれ親しまれた建物である。
 また、旧室伏学校校舎は、愛知県犬山市の博物館明治村への移築が取りざたされたこともあったが、昭和44年に取りやめとなっている。




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by kaz794889 | 2010-10-23 08:57 | 藤村式建築 | Comments(0)
2010年 10月 17日

小林一三翁生家跡

【小林一三翁生家跡の石碑】
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 小林一三翁生家跡の碑が建てられている「にらさき文化村」(韮崎市本町一丁目)の敷地が、宝塚歌劇団や阪急電鉄の創設者である小林一三の生家跡地である。
 これまでこの敷地は、小林一三の美術コレクションを所蔵する逸翁美術館(大阪府池田市)が所有し、韮崎市が無償で借り受けていたが、同美術館から本年4月頃に韮崎市に寄贈されている。

【明治36年頃の小林一三の生家】
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 小林一三は明治6年1月3日に巨摩郡河原部村(現在の韮崎市)に生まれている。
 韮崎は甲州街道の要衝として、また北巨摩郡の中核として栄えた宿場町であった。
 小林家は屋号を「布屋」と称し、河原部村の名主や明治維新後は区長を努め、醸造業、製糸業、金融、地主経営を行なう近郷きっての大地主であり資産家であった。
 韮崎市内に長く残されていたこの生家は、昭和44年4月に宝塚ファミリーランド内に移築されていたが、阪神・淡路大震災により潰滅的な損傷を受け、現在は解体・撤去されている。

【小林家文書目録】
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 小林一三の生家が宝塚ファミリィーランドに移築された際、家屋とともに家財、文書も併せて宝塚に移されている。その際に、小林家所蔵の文書類についてはその性格を考慮し、池田文庫(小林一三により設立され、文芸、演劇関係の史料を収蔵。)に所蔵されることとなり、小林一三の旧蔵書籍とともに、小林家の屋号である布屋を冠した「布屋文庫」として所蔵されている。
 韮崎から宝塚に小林家の文書を移す際、文書は大小十数個の箱に入れられており、土地売買証文等は小林家において過去に整理されていた形跡があったものの、その他の文書については虫害の発生など必ずしも良好な伝存状況ではなかったようである。
 こうした小林家文書の目録は池田文庫から平成8年3月20日に発行されている。



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by kaz794889 | 2010-10-17 21:55 | 小林一三 | Comments(1)
2010年 10月 10日

明治天皇御登臨之址

【明治天皇御登臨之址碑】
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 明治13年3月、明治天皇による山梨、三重の両県及び京都府への御巡幸が決まり、同年6月16日に明治天皇は御巡幸に向け皇居を出発、翌17日に山梨県に入られ、上野原宿(上野原市)の行在所である加藤景明方に着御され、18日、19日は野田尻、鳥沢、猿橋、笹子、勝沼、日川、石和、甲府と巡行され、19日の16:30に甲府の行在所である錦町の師範学校に着御されている。
 20日は山梨県庁、静岡裁判所甲府支庁、勧業製糸場に臨幸され、21日は甲府城内の勧業試験場において葡萄酒の醸造を御覧になった後、甲府城の天守台跡に臨幸され、その場所に設けられた御仮屋で暫時御休息されている。
  「明治天皇御登臨之址」碑はこうした明治天皇の御登臨を記念し昭和13年3月に建設されたものである。


【山梨県聖跡保存聖徳顕彰会趣意書】
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 全国を御巡幸等された明治天皇ゆかりの地は、聖跡として当時の「史跡名勝天然記念物保存法」に基き、内務大臣又は文部大臣の指定を受けており、山梨県内においても明治13年の御巡幸ゆかりの地である「菅原行在所」「上野原行在所」が昭和8年11月に、「勝沼行在所」「花咲御小休所」「円野御小休所」が昭和10年11月に国の史跡として指定されている。
 また、明治13年の明治天皇御巡幸から60年の年が紀元2600年の昭和15年にあたる年でもあることから、昭和12年の山梨県議会において、「明治天皇聖跡を保存顕彰し奉るは山梨県民一致の仰望する所なり、当局は之が保存顕彰に関し聖跡保存会を設立し適切なる方策を以って奉公せられん」との意見書が議決された。
 こうした経緯等により山梨県聖跡保存聖徳顕彰会(総裁:山梨県知事、会長:貴族院議員 名取忠愛、副会長 山梨県学務部長)が設立されている。


【同会竜王村副支部長の嘱託状】
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 明治天皇御巡幸ゆかりの地として史跡に指定されていた「菅原行在所」「上野原行在所」「勝沼行在所」「花咲御小休所」「円野御小休所」については、その指定が昭和23年文部省告示第64号により昭和23年6月29日、一斉にその指定が解除されている。




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by kaz794889 | 2010-10-10 23:13 | 明治天皇旧蹟 | Comments(0)
2010年 10月 10日

峡中沿革史

【峡中沿革史】
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 『峡中沿革史』は、南涯野史こと望月直矢の編述により、明治21年9月1日に温故堂発兌として刊行された出版物であり、山梨県の明治維新期における状況から明治21年頃までの間における勧業、土木、教育、政治、風俗等に関する諸状況を論じた明治前半期における山梨県内の同時代史といったものである。
 著者である、望月直矢は、万延元年に山梨郡八幡北村(現在の山梨市)で生まれ、明治初年に谷村、千塚での教員生活を経て甲府日日新聞に入社し、その後東山梨郡役所、甲府地方裁判所日下部主張所主任などを務め明治31年8月21日に38歳で逝去している。
 なお、峡中沿革史の内容については、この原書以外に、昭和7年からその刊行が始まった『甲斐志料集成』の「第七巻(昭和8年発行)歴史部(一)」及び『山梨県議会史 第一巻』(昭和45年12月10日発行)に収録されている。




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by kaz794889 | 2010-10-10 01:17 | 郷土誌 | Comments(0)
2010年 10月 03日

甲府城山手御門

【再建された甲府城山手渡櫓門】
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 甲府城内への出入口として、かつて追手門、山手門、柳門の三つの門が配置され、この内、甲府城の内城の最北端にあった門が「山手御門」である。
 平成9年に日本鉄道建設公団用地内で山手御門に関する堀や土橋などが出土し、それに係る発掘調査の結果、山手御門の位置が特定、確認されたことなどから、JR甲府駅の北口で甲府市歴史公園の建設を進めてきた甲府市により、この山手渡櫓門と山手門が平成19年に再建されたのである。 

【甲府市歴史公園 甲府城山手御門案内図】
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 城外から木橋と土橋で堀を渡った先に山手門があり、その先の虎口空間を直角に折れた位置に二層の山手渡櫓門が置かれている。

【甲府城周辺の地図(明治時代後期)】
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 この地図は、明治42年3月に発行された「改正新刻 甲府市街全図(縮尺5000/1)」の甲府城周辺の部分である。
 山手御門の場所は「甲府停車場」と記載された「甲」の文字の上部である。
 前記の案内図に示されている山手門への土橋や掘割が残されていることが明確に記されている。こうした掘割等について、大正初期頃までの甲府市街図などに記されているが、その後、この場所に鉄道官舎が建設されるなどしたため、掘割なども埋め立てられ山手門のあった跡形は完全に失われていた。 



【甲府城山手御門附近の発掘調査 1】
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 山梨文化会館前から南側の発掘状況である。

【整備後の現状】
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 平成9年に山手門跡の周辺において、約60mにわたって出土した掘割や石垣は埋設保存され、その位置には芝生が植えられている。

【甲府城山手御門附近の発掘調査 2】
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【甲府城山手御門附近の発掘調査 3】
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【発掘調査2及び3附近の現状】
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by kaz794889 | 2010-10-03 15:31 | 甲府城 | Comments(0)
2010年 10月 03日

旧尾形学校校舎

【旧尾形学校校舎】
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 旧尾形学校は明治10年5月に設立し、翌11年5月に校舎が竣工しており、その際に竣工した校舎が写真の建物である。
 擬洋風建築として建てられた、いわゆる藤村式の校舎であり、昭和50年3月17日に「旧尾形学校校舎」として、山梨県指定の文化財として指定されている。
 建物は間口、奥行きともに7間(12.7m)の正方形であり、延べ床面積331.86㎡の木造2階建である。
 現在の建物は昭和48年12月に復元工事が完了したものであり、屋根が亜鉛鉄板葺、外壁は白壁造りとなっているが、かつては、屋根は板葺き、外壁は下見板張であり、2階の前面のみが白漆喰塗りとなっていた。
 また、尾形学校は明治10年の設立後、尾形尋常小学校となり昭和16年3月31日に禾生尋常高等小学校に併合されることとなり、同年4月1日から禾生国民学校となり、それ以降、この校舎は地域の集会所や青年団、消防組が使用するなどしてきたが、昭和45年に都留市指定文化財となり、同48年に約半年にわたる復元工事を行い、尾形郷土資料館として開館し、同61年には教育史料を中心とした館内展示に改められ、現在に至っている。 

【旧尾形学校校舎】
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 旧尾形学校校舎は稲村神社に隣接した場所に建てられており、学校の敷地は元々、稲村神社の境内であったが、学校用地として内務省からの払下げを受けたものである。
 また、学校の運動場はかつて校舎正面左側に設置されていたが、現在は民有地となり住宅が建てられている。

【尾形郷土資料館としての平面図】
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 平成2年3月28日に都留市指定文化財となった「旧尾形学校文書」は、旧尾形学校校舎である尾形郷土資料館で管理されている。
 指定文化財である「旧尾形学校文書」は三点であり、その概要は次のとおりである。
 1 校舎建築にあたり、明治8年頃から建築用材としての学校臨の伐採、搬出等に取り掛かったことを記録 
  した「学校人足記」
 2 左官業者との請負である「請負契約証」
 3 火災のための建物補修資金を県令から借用した「御拝借金之証」
 



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by kaz794889 | 2010-10-03 00:10 | 藤村式建築 | Comments(0)