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2010年 03月 27日

明治天皇悠紀斎田

【甲府市:南西第一児童公園】
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 古来より、天皇の即位に当たっては即位式と並び全国から卜定した悠紀国、主基国で採れた新穀を天照大神を始めとする神々に供える一代一度の儀式として大嘗祭が行われている。
 明治天皇の即位に伴う大嘗祭における悠紀国及び主基国は全国を大正に占われ、悠紀国は甲斐国巨摩郡、主基国は安房国長狭郡に定められ、明治4年11月に東京において行われている。
 甲斐国が悠紀国とされたことから、斎田は、当時の巨摩郡上石田村(現在の甲府市)に、斎田の控地は当時の巨摩郡中楯村(現在の中央市)と決定され、その斎田の跡地が甲府市上石田三丁目にある「南西第一児童公園」の場所である。

【南西第一児童公園内の記念碑】
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 大正3年の大正天皇大嘗祭に際し、往時を追憶し遺跡の消滅を惜しむ機運から、悠紀斎田記念碑等による跡地の保存が企てられ、山梨県教育会を中心とした各種事業として記念碑、斎田跡の保存施設、周辺道路の改修等が行われている。

━明治天皇悠紀御斎田記念碑━f0191673_21234599.jpg


 大正11年3月建碑の明治天皇悠紀斎田跡記念碑(正碑)である。
 この正碑と後記の副碑を併せた「明治天皇御即位悠紀御斎田記念碑序幕式が大正15年4月8日に行われている。
【現在の正碑】
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━明治天皇悠紀御斎田記念副碑━
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 大正11年9月建碑の明治天皇悠紀御斎田記念副碑である。
【現在の副碑】
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【悠紀斎田跡附帯工事碑】
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 昭和2年6月に建碑された悠紀斎田跡附帯工事碑である。

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by kaz794889 | 2010-03-27 22:03 | 明治天皇旧蹟 | Comments(0)
2010年 03月 24日

御入学用品売出し 松林軒

【「御入学用品売出し」 さくら町 松林軒】

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 昭和12年10月2日に甲府市内最初のデパートとして開業した松林軒百貨店が作成した、昭和13年頃のダイレクトメールである。
 同年4月1日には国家総動員法が公布されるなど、戦時体制の色合いが次第に深まっていく頃ではあったが、入学用品として記載されている学用品など、必要な物資はまだ手に入れることが可能な時代であったようである。 


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by kaz794889 | 2010-03-24 23:16 | 広告・チラシ | Comments(0)
2010年 03月 22日

甲府女子高等小学校


【甲府市立甲府女子高等小学校 正門】
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 甲府市勢の発展に伴い年々学童が増加し、各小学校の校舎は狭隘を極めてきたことから、甲府市内各尋常高等小学校の高等科を分離し、単独の男女高等小学校2校の設置が昭和10年に決定された。
 こうした経緯から女子高等小学校は甲府市朝気町の敷地6,175坪を校地とし、昭和12年4月5日に甲府市立甲府女子高等小学校として開校した。
 国民学校令制定により昭和16年には甲府市女子国民学校と校名が改められ、昭和22年3月に同校として最後の卒業生を送り出すまでの10年間存在した甲府女子高等小学校の卒業生は3,408名である。


━甲府 女子高等小学校 校舎:御真影奉安殿━
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 女子高等小学校の校舎本館は南北の校舎二棟が建てられており、一棟は昭和11年11月8日に、残る一棟は昭和12年3月12日に附属建物とともに落成しており、各校舎は長さ48間、幅6間の木造2階建である。
 また、御後真影奉安殿は同月25日に落成している。


━甲府 女子高等小学校 講堂:応接室:清新鐘━
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 講堂は長さ15間、幅9間の木造平屋建ての建物として、昭和13年2月9日に落成しており、同年5月5日には全ての建物が完成したことから新築落成式が行われている。
 なお、こうした校舎等の建物については、昭和20年7月の甲府空襲により全てが焼失している。

【甲府市立東小学校正門】
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 昭和22年4月1日からの新学制により、新たに開設された甲府市立東中学校は旧甲府女子高等小学校の跡地に設置された。
 また、東中学校が現在の場所に新築移転したことから、同校移転後の昭和32年7月から翌33年12月までの間、旧校舎は甲府地方貯金局の新庁舎建設に伴う仮庁舎として、一部業務を行うための分室として使用されていた。
 その後、甲府市立湯田小学校の児童増加に伴い、かつての女子高等小学校が置かれていた、現在の場所
に甲府市立東小学校が開校され、現在に至っている。
 東小学校の正門は、一部改修がなされているものの、甲府女子高等小学校以来の正門が使用されている。

【学校敷地内からの正門】f0191673_12201360.jpg


 学校敷地内から見た、東小学校正門の内側である。


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by kaz794889 | 2010-03-22 14:39 | 学校 | Comments(0)
2010年 03月 15日

ラムネ

【ラム子広告】
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 黒船によりペリー提督が日本に来航した嘉永6年(1853年)に艦上で開国の交渉にあたった幕府側にラムネが振る舞われたことが、日本におけるラムネの最初というらしい。
 また、日本人の手による最初のラムネの製造・販売は慶応元年(1865年)、長崎の藤瀬半兵衛による「レモン水」として売り出されたものと伝えられているようだが、レモン水という名称が人々に応じられず、イギリスが出自のレモネードが訛った「ラムネ」の呼び名が一般化したという。
 国内における最初のラムネはコルク栓のもので、ビー玉入りのラムネは明治20年頃に輸入瓶を使用して製造されたものが嚆矢と言われている、その後、国内でビー玉入りのラムネ瓶が製造されるようになり全国にラムネが広まっている。
 写真の「ラム子広告」は芦原義信という経営者による涼水社が製造する「富士ラム子」の明治30年代頃の広告である。
 一瓶三銭、ドイツの製造法により、特に大阪ラムネ醸造所から良巧の技手を招聘して製造している旨が記載されており、涼水社の所在地は甲府市常盤町内藤前(広告中の大取次名に内藤伝右衛門の氏名も記載されているが、甲府日日新聞を野口英夫に譲り温故堂として業務を行っていた頃の当該事業所前に位置していたのだろうか。)とされている。

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by kaz794889 | 2010-03-15 16:25 | 広告・チラシ | Comments(2)
2010年 03月 14日

甲府 八日町見附

━(甲斐国)甲府市八日町見附━
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 常盤町通りと八日町通りの中間に位置する八日町見附の明治末頃の情景である。
 いわゆる通称通りの起点及び終点が明確ではないため、写真の位置が何通りに属するかの切り分けは難しいが、東京方向から甲府市街に入った甲州街道は、甲府城の八日町口(御門)の直前で左折(南側)して柳町宿に至ることとなるが、写真の場所は柳町通りから八日町口までの間にあたる場所である。
 また、旧町名で切り分けた場合、写真の両側は柳町(写真の左側が柳町10場地、右側が同9番地)であり、写真の手前あたりから桜町に属することとなる。
 道路の中央に写るのは、甲府から石和、勝沼方面に向かう馬車鉄道の軌道であり、右側の黒壁土蔵とその先の建物は、和洋紙、文房具、印刷等を業としていた淺川商店である。

【現在の同位置】
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 写真の周辺は昭和20年の甲府空襲で焼失していることなどから、昔の面影を残す物は失われている。
 また、中心街の空洞化等から、両側には空店舗やコイン式などの駐車場が現在は目立っている。

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by kaz794889 | 2010-03-14 14:38 | 甲府市街点描 | Comments(0)
2010年 03月 13日

甲府・柳町通り

━(甲府名勝)甲府市柳町通り━
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 明治末頃の柳町通りである。
 柳町は甲州街道の柳町宿として繁栄した、甲府城下の中心となった町のひとつであり、明治以降においてもも多くの商店が軒を構えた甲府市街の中心地であった。
 写真の手前左側の洋館入口は有信銀行、その奥は大正12年に甲府市横沢町に移転した、十一屋酒造である。
 右側に写る三層の建物は、かつて柳町宿の脇本陣を務めていた、佐渡幸旅館である。

【現在の同位置】
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 柳町は昭和20年の甲府空襲で、その家並みは焼失しており昔の面影を残す建物は残っていないが、道筋の雰囲気には、かつての面影が感じられるように思えるものである。
 現在、有信銀行跡は時間貸駐車場、十一屋跡は甲府ワシントンプラザホテル、佐渡幸跡は駐車場となっている。


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by kaz794889 | 2010-03-13 13:28 | 甲府市街点描 | Comments(2)
2010年 03月 10日

峡中新聞 「二つの第1号」

[二つの「峡中新聞 第1号」について]
 峡中新聞は「峡陽文庫」において過日紹介したとおり、山梨日日新聞の前身として明治5年7月に創刊した新聞である。
 その創刊号である第1号に、二つのタイプの新聞が存在する。
 彫工により彫られた木版により発行されていた当時の背景を考慮すれば、文字の字体の相違は納得の範囲と考えられるが、以下の相違点が認められる二つのタイプの第1号があることは、明治5年の創刊時における諸事情の存在が伺い知れるところである。

【峡中新聞(表紙) 第1号(A):左、第1号(B):右】
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 注: 本項の説明にあたっては、便宜的に左側の第1号をA、右側の第1号Bとして紹介する。
 
 Aは、これまで峡中新聞の第1号として『山梨日日新聞百年史』や山梨県内の自治体史誌等において掲載されてきたものである。
 表紙における相違点は、①発行年月について、Aは「明治壬申七月」、Bは「八月」(Bについては八月の前部分が欠落しているため、年号と干支表示が確認できないが、「明治壬申」とあったことが考えられる。)とあり、いずれも明治壬申(明治5年)ではあるが、発行月について一ヶ月の相違が確認できる。
 ②価格表示(第1号表示の右側)については、Aは「定価三銭」、Bは「新価三銭」とある。なお、峡中新聞の表紙において「新価三銭」と表示されるのは、明治5年11月発行の第4号以降からである。

【峡中新聞(最終面) 第1号(A):左、第1号(B):右】
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 売弘所の表示について、Aにおいて黒く表示されている部分に、Bにおいては「名古屋本町通二十五丁目 文明社」と表示している。
 なお、Aと同様の表示は第2号(明治5年8月発行)においても認められるが、第3号(明治5年10月発行)以降については、Bと同様の表示となっている。

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by kaz794889 | 2010-03-10 18:04 | 新聞 | Comments(0)
2010年 03月 07日

甲府新聞

[峡中新聞から甲府新聞への改題]
 明治5年に創刊された峡中新聞は明治6年3月発行の第8号を以って改題し、同年4月発行の第9号から甲府新聞として発行されることとなった。
 甲府新聞への改題については、編集、経営ともに、その全てが発行人である内藤伝右衛門の手に移ったことがその理由の一つとして考えられるところである。
 なお、甲府新聞と改題されたものの、峡中新聞創刊以来の発行号数を通算号数とし、その後、更に改題される「甲府日日新聞」、「山梨日日新聞」と継承し、本日(平成22年3月7日)現在の通巻発行号数(第46539号)に至っている。

[甲府新聞の体裁] 
甲府新聞第9号(改題後の第1号)から第23号までは、峡中新聞と同様に、その体裁は半紙二つ折り5、6枚の冊子形式である。
 また、第24号(明治6年8月:紙面に発行日付が入るのは第26号からである。)からは紙幅を美濃判型に広げ、1頁3段、1段13字×19行の四頁となり、第82号(明治8年3月12日)からは、これまでの和紙から洋紙となり紙幅もB4判(タブロイド版)、15字×20行×3段×4頁となり、その後も題号の横組みなど紙面の体裁が整備されながら、明治9年1月12日の第333号まで甲府新聞として発行されている。

【甲府新聞 第9号】
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 甲府新聞と改題後の第1号に当たる、「甲府新聞第9号」


【甲府新聞 第10号(左)及び同第11号(右)】
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【甲府新聞 第12号(左)及び同第13号(右)】
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【甲府新聞 第14号(左)及び同第15号(右)】
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【甲府新聞第15号:最終面の広告】
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 峡中新聞の創刊以来、一般の営業広告としては最初の新聞広告である、甲府新聞第15号に掲載された、甲府柳町三丁目、枡田屋平兵衛の新聞広告。


【甲府新聞 第16号(左)及び同第17号(右)】
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【甲府新聞 第18号(左)及び同第19号(右)】
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【甲府新聞第19号:最終面の広告(社告)】
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 甲府新聞への改題後、明治6年6月発行の第14号から、これまでの月に2回の発行から、週刊による発行となり、この頃から紙面における句読点の間違えが増加するなど、木版工による彫工の質が劣え、量も乏しくなり、その反面においては、新聞発行の迅速化と発行回数の増加が必要となってきたことなどから、これまでの木版による印刷から活字印刷に改めるとともに、発行回数も月8回の発行となった。
 こうした状況について、次号からの改善等を行う旨を伝える第19号に掲載された社告である。(木版による発行はこの第19号が最後である。)


【甲府新聞 第20号(左)及び同第21号(右)】
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【甲府新聞 第22号(左)及び同第23号(右)】
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by kaz794889 | 2010-03-07 21:43 | 新聞 | Comments(0)
2010年 03月 06日

メートル法度量衡

【メートル法度量衡を紹介した年賀状】
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 長さ、広さ、重さに関する計量についての制度(慣習)である度量衡については、明治24年にその根拠法律となる『度量衡法』(明治24年3月24日法律第3号)が交付され、同26年1月1日に施行されている。
 その後、従来用いられてきた尺貫法を廃止し、世界基準となったメートル法に一本化するため、同法が改正(大正10年4月11日法律第71号)されたが、長く用いられてきた尺貫法からメートル法に転換することについては、実行上における問題等もあり、同法の附則においても「従来慣用ノ度量衡ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ当分ノ内之ヲ用ウルコトヲ得」とされるなど、本格的なメートル法使用の義務付けは「計量法」(昭和26年6月7日法律第207号)の施行まで、その徹底は図られなかった。
 尺貫法を度量衡の主流としていた当時の実態の中で、大正13年にメートル法専用制が実施されたことから、市町村は、その普及を速やかに図るため相当の経費を投じて普及・宣伝に努めており、甲府市においては、市内の各小学校への金属製換算器設置、市内要所や金桜神社へのメートル元票建設、講習・講和会の開催などが当時行われていた。
 甲府・桜町、内藤呉服店による、この大正14年の年賀状も、こうした状況から作成されたものである。  



【松林軒発行のメートル法度量衡の案内チラシ】
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 この案内チラシも前述の経緯などにより松林軒が作成したものである。

【メートル法発布十周年記念 試売デーチラシ】
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 メートル法による一本化を目指した、大正10年の度量衡法改正から10年が経過し、メートル法強制猶予期間(昭和9年6月30日まで)も切迫してきたことから、昭和6年に鰍沢町主催、鰍沢町青年団後援により実施された、町内加盟商店によるメートル法試売デーの案内チラシである。
 4月11日から13日までの3日間、加盟各店においてメートル法普及を趣旨とし、メートル法による計り売りによる廉売が実施されている。
 また、改正法施行から10年が経過したこの年の8月1日からは、郵便料金に関する重量、容積も、これまでの尺貫法から、全てメートル法による料金区分となるなど、官公庁によるメートル法普及の徹底が図られた年であった。

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by kaz794889 | 2010-03-06 23:12 | Comments(0)
2010年 03月 04日

甲府・銀座通り

━甲府市銀座通り(甲府名所)━
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 繁華街としての盛り上げのための通称として使用された「甲府銀座」の始まりは、昭和5年12月頃に地元からの寄附4,000円で、甲府市が緊急予算の中から臨時費を出し、春日通りから桜通りを経て柳町通りに通ずる東西の道(約150m)を舗装化した頃からと言われている。
 写真に写る「代用食の興亜パン」の看板などから、現在の甲府市中央4-4-30附近における昭和12年夏頃の光景と思われる。

【現在の甲府銀座】
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 前記の写真とほぼ同位置を写した、アーケードが設置された現在の甲府銀座通りである。
 甲府市街も中心地の空洞化が進み、往時の賑わいを想像することも困難な状況である。

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by kaz794889 | 2010-03-04 21:11 | 甲府市街点描 | Comments(0)