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2009年 08月 31日

勝沼郵便電信局と山梨田中銀行

【旧田中銀行主屋全景】
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 平成9年5月29日に国の登録有形文化財に指定された、旧田中銀行主屋は、当初、勝沼郵便電信局の庁舎として建設されたものである。
 明治5年7月1日、若尾所右衛門により、勝沼郵便局の前身である勝沼郵便取扱所が郵便と電信を取扱業務として開設され、7年9月14日に田中栄兵衛、22年6月12日に田中英作と局長が替わり、明治30年代の田中英作が局長在任時代に勝沼郵便電信局庁舎として建設されたと言われている。
 若尾勘五郎が局長に就任(明治35年11月7日)した明治35年まで郵便局舎として使用されていた。
 (局長就任とともに、局舎は若尾勘五郎により新たに建設され移転したものと考えられる。)

 大正9年10月5日に田中董策(頭取)、田中慶重(取締役)らにより山梨田中銀行が開業すると、旧勝沼郵便電信局庁舎は同銀行の社屋として使用されることとなった。
 なお、田中慶重の父は勝沼郵便電信局長を務めた田中英作であり、妻は田中董策の妹。また、田中董策の妻は田中慶重の姉であった。


【旧田中銀行主屋の一部】
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【旧田中銀行主屋の平面図(「小さな洋風建築 旧田中銀行 博物館」より)】
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 旧田中銀行主屋の勝沼郵便電信局及び山梨田中銀行時代の平面図である。
 大正9年の開業以降、昭和恐慌などによる経済状況の変化から、昭和6年3月には休業同然の状態となりつつも銀行法による有資格銀行として存続したが、解散を決議し昭和11年7月26日に業務を終えている。
 銀行の解散後、旧田中銀行主屋は住宅として改修等が行われていったが、大正2年11月に北白川宮殿下の宿舎及び朝香宮殿下の休憩所として、大正13年4月に賀陽宮殿下の宿舎として田中董策家が御用を仰せ付かった経緯から、北白川宮家が田中董策家に戦時疎開した際、旧田中銀行主屋は北白川宮家の関係者の住宅として使用されていたようである。


【旧田中銀行土蔵】
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 旧田中銀行主屋の裏手に建つ、主屋とともに国の登録有形文化財に指定されている煉瓦造りの土蔵である。

【勝沼電信局創設費寄附の褒状】
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 前述した「小さな洋風建築 旧田中銀行 博物館」等の案内チラシには、「旧田中銀行主屋は明治30年代に勝沼郵便電信局舎として建設された」とあるが、勝沼電信局創設費として寄附したことに対する褒状が、明治25年2月2日の日付で出されていることや、既に明治27年の時点において、甲府、日下部、勝沼、市川大門、鰍沢、韮崎、谷村、上野原、猿橋に郵便電信局が開設されていることが『山梨鑑』の中に記されていることから、建設年代は明治25年頃と推量されるとも考えられるのではないだろうか。

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by kaz794889 | 2009-08-31 23:18 | 郵便局・逓信 | Comments(0)
2009年 08月 23日

山中湖ホテル

【山中湖ホテルの俯瞰】
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【「山中湖ホテル」ホテル案内】
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 大正15年、富士山麓電気鉄道株式会社とともに設立された富士山麓土地株式会社により、山梨県から貸与された土地に、山中湖ホテルが昭和3年に開業した。
 山中湖ホテルの開業は、山中湖畔開発の一環として、ホテルを中心とした個人別荘や貸別荘の建設を行うことを目論んでいたが、当初は別荘建設も芳しくなかったようである。
 山中湖ホテルは敷地面積が20,500㎡、木造2階建で客室数30室、収容定員120名、宿泊料金は1名室が2円から、2名室が3円からであった。


━山中湖ホテル━
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 終戦後の昭和20年10月6日、富士山麓鉄道が所有し、精養軒に経営が委託されていた山中湖ホテルは、
東洋自動車工業(現在の国際興業)に買収され、昭和21年5月15日から昭和27年2月29日の接収解除まで、GHQに接収されていた。

【「山中湖ホテル」ホテル案内】
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 新築後、44年が経過した昭和48年の秋、山中湖ホテルは改築されることとなり、昭和49年8月1日に南欧コテージ風の4階建、延床面積6,600㎡の建物と、経営を富士屋ホテルと賃貸契約しオープンした。
 その後、平成9年10月31日に山中湖ホテルは開業以来70年の歴史を閉じ営業を終了している。



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by kaz794889 | 2009-08-23 18:40 | 旅館・ホテル | Comments(3)
2009年 08月 22日

国産愛用 甲府勧業博覧会

【国産愛用 甲府勧業博覧会 記念絵葉書】
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 昭和4年11月21日、金解禁に関する省令が公布され、翌5年1月11日から金解禁が実施された。
 当時は為替相場が低下する傾向の中、円を切り上げる方向での金本位制度復帰となったため、円高による増加が見込まれる輸入を抑え、輸出の増加を図るため日本の産業界全般にわたる合理化が必要となり、政府は商工省の外局として臨時産業合理局を設置し産業合理化を進めていく中、その一環として昭和5年6月3日に国産品愛用運動が政府通牒された。
 こうした背景のもと、昭和5年9月22日から10月31日までを開催期間として『国産愛用 甲府勧業博覧会』が、第一会場を舞鶴公園(甲府城址)、第二会場を太田町公園として開催された。


【国産愛用 甲府勧業博覧会の入場券】
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 博覧会の入場料は20銭であった。



━第一会場 正面━
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 甲府城址の入口である、遊亀橋のたもとに設置された、第一会場の正面入口である。

━第一会場━
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 甲府城址の鍛冶曲輪(城内の広場)に設置された展示棟である。

━第一会場 大礼館━
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 昭和3年に行われた、昭和天皇の即位の大礼に関する展示棟である。

━第一会場 台湾館━
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 当時は日本の統治下にあったことから、国産品愛用の一環として設けられた台湾についての展示棟である。

━第二会場 正面━
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 太田町公園に開設された国産愛用甲府勧業博覧会の第二会場正面入口である。
 左に写る展示棟が機械館、その右の三角形の建物は第二会場の本館である。

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by kaz794889 | 2009-08-22 21:48 | 博覧会 | Comments(0)
2009年 08月 16日

シンボルとしての謝恩碑

【恩賜林記念館附近から見た謝恩碑】
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【山梨県名所めぐり】
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 大正13年11月10日に山梨県が発行した『山梨県名所めぐり』と題する62頁の観光案内冊子である。
 甲府城の石垣と松の中にそびえ立つ大正11年に建設された謝恩碑と富士山の遠望が、この冊子の表紙に描かれている図案である。
  謝恩碑はその建設経緯と甲府城内に高くそびえる総高30mのオペリスク型の姿から、山梨県内では謝恩塔として親しまれ、その情景は戦前期における山梨県や甲府市のシンボルとなっていた。
  高い建物がなかった当時は、甲府駅頭から南東の方角にそびえ立つ謝恩塔を間近に見ることができ、市街地各所からもその姿が見られたようである。



【甲府舞鶴公園の桜 (絵葉書のタトウ)】
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 桜の名所として親しまれていた頃の舞鶴公園(甲府城)を写した絵葉書のタトウである。
 満開の桜が咲く舞鶴公園内に建つ謝恩碑をシンボルイメージとして図案化している。



【甲府駅の記念スタンプ】
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 ブドウの葉を輪郭とし、その中に昇仙峡の覚円峰と甲府城の満開の桜の中にそびえる謝恩碑が図案化された、昭和13年5月29日の甲府駅の記念スタンプである。


【「甲府の観光」 記念スタンプ】
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【「新興の甲府温泉郷」 記念スタンプ】
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 いずれも甲府観光協会による昭和13年5月29日の記念スタンプである。
 甲府観光協会は、甲府市を中心とする県内観光地、物産を紹介・宣伝するとともに、観光の利便を図ることを目的とし、従来の御嶽昇仙峡保勝会を解体して昭和7年11月に設立した。
 「甲府の観光」スタンプは、謝恩碑を中心として昇仙峡の覚円峰、富士山、湯村温泉、ブドウ、水晶、甲府市街地を図案化している。
 「新興の甲府温泉郷」スタンプは、謝恩碑の遠望と甲府市内の温泉郷をイメージして図案化している。

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by kaz794889 | 2009-08-16 12:46 | Comments(0)
2009年 08月 15日

昭和21年4月 第22回総選挙

【山梨常会資料 第27号 昭和21年1月21日発行】
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 幣原喜重郎内閣当時の昭和20年12月18日に衆議院が解散され、戦後最初の総選挙を迎えるにあたり、当時の衆議院議員選挙法が改正されたことを伝える『山梨常会資料』である。
 幣原内閣は連合軍最高司令官から指示された衆議院議員選挙法改正案を昭和21年11月27日に第89臨時帝国議会に提出し、12月17日に同法改正が公布されると翌18日に衆議院を解散した。
 衆議院議員選挙法の改正により、婦人参政権、選挙権の引き下げ(25才から20才)などが得られたのである。


【山梨常会資料号外 隣保組回覧板 昭和21年3月20日発行】
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 昭和21年2月25日に政府は第22回総選挙の投票日を昭和21年4月10日に決定した。
 この選挙は戦後最初の選挙であるとともに、大日本帝国憲法下における最後の総選挙であり、20才以上の男女に選挙権が与えられた最初の選挙であった。
 また、前議員の多数が公職追放されたことや婦人参政権が得られたことから、山梨全県区においては定員5名に対し女性4人を含む32人が立候補した大選挙区、2名連記制による選挙となったが、終戦後の社会状況等から立候補者の中には紙不足の状況から選挙ポスター用紙の割当を目的とした者や政見放送を商売の宣伝に利用する者もいたようである。

【選挙法の罰則に関する御注意】
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 山梨県警察部、甲府地方裁判所検事局が発行した選挙違反に対する注意喚起を促す回覧用の案内チラシである。
 第22回総選挙における山梨全県区は、投票率71%による投票の結果、平野力三(社会党)、天野久(進歩党)、樋貝詮三(自由党)、笠井重治(無所属)、松沢一(社会党)の5名が当選している。


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by kaz794889 | 2009-08-15 17:03 | 選挙 | Comments(0)
2009年 08月 09日

島田組と山梨第十国立銀行

【山梨県第十国立銀行】
f0191673_12514228.jpg 明治4年12月に山梨県における官金為替の取扱いが若尾逸平、風間伊七に命ぜられた後、明治政府の方針により三井組、小野組、島田組に府県為替方が委ねられることとなり、山梨県為替方は明治6年11月24日に京都に本拠を有する島田組の甲府支店(甲府柳町30番地)が命ぜられ、県為替方として全ての公金事務を取り扱うこととなった。

 明治7年9月には島田組の新店舗が常盤町(現在の山梨中央銀行本店の位置)に完成したが、同年12月には島田組が破産し甲府支店も閉店を余儀なくされたことから、新築したばかりの建物は山梨県に引き上げられ処分が検討されたが、いわゆる擬洋風の建築物でありの当時の一般商家には向かずその使い道が限られていたことから、県は銀行類似会社である興益社(第十国立銀行の前身)に建物の買取を要請し、明治9年3月に同社が払下を受けることとなったものの、山梨県が県庁舎として使用していた甲府勤番時代の追手役宅が庁舎狭隘を極めていたことから、地租改正を所管する組織である地券掛の庁舎としてしばらくの間賃貸するなどした後、明治10年4月15日に第十国立銀行として営業を開始している。
 
 写真の建物は、前述した旧島田組として明治7年9月に建設され、明治22年11月に本店が新築されるまで第十国立銀行、第十銀行として使用されていた建物である。
 
【貯蓄預リ通帳(表面)】
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 第十国立銀行の設立初期頃の通帳である。
 明治13年末頃には第十国立銀行の本店、支店、出張所の他、県内外の21箇所(県外は東京支店1か所のみ)に貯蓄を預かる「興産金取扱所」が設けられていた。



【貯蓄預リ通帳(裏面)】
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by kaz794889 | 2009-08-09 16:30 | 銀行 | Comments(0)
2009年 08月 08日

日本基督教団 甲府教会

【『郷土風景』より】
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 『郷土風景』と題する昭和8年発行の版画集の中にある、甲府教会を題材とした「教会風景」という作品である。作品解説の冒頭に「ポプラの木立の向ふにゴシック風な建築美を見せてゐるのは甲府キリスト教会。」とある。


━日本メソヂスト甲府教会 献堂式記念(大正5年6月4日)━
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 大正5年6月に甲府市桜町60番地(現在:甲府市中央2-8-12)に建設された甲府教会。
 昭和20年7月の甲府空襲で焼失している。
 なお、大正5年に新築される以前の甲府教会は、明治24年5月に土蔵造り平屋建で同じ場所に建設されていた。



【甲府教会が建てられていた場所の現状】
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【甲府教会員名簿】
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 昭和18年8月に甲府教会が発行した「甲府教会員名簿」である。
 全体で40ページのこの冊子は、甲府教会の沿革と戦時期における教会の現状、甲府教会の役員一覧とともに、18組で構成された教会員の名簿となっている。



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by kaz794889 | 2009-08-08 23:45 | 基督教会 | Comments(0)
2009年 08月 02日

恩賜林謝恩碑

【甲府城址に建つ謝恩碑】
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 明治40年及び43年の大水害は山梨県内に多大の被害をもたらしたが、その原因のひとつに県内林野の三分の二を占めていた旧小物成地の官有地、御料地への編入により従来からの入会慣行が制限されたことにより、濫盗伐、山火事などによる山林荒廃が進み水害の脅威が年ごとに増していったことによるといわれている。
 被災した町村などでは、「御料林の還付請願」などの機運が水害後に高まり、県会で意見書が当時の政府に対して提出されるなどの運動が功を奏し、明治44年3月11日に県下御料地298,203町歩を県有財産に下賜する旨の御沙汰書の伝達を受けたのである。(以来、3月11日は恩賜林記念日とされている。)
 こうした恩賜県有林の経緯を記念するため謝恩碑が建設されている。



━[甲府名所] 謝恩碑━
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 謝恩碑の建設は大正6年7月の臨時県会で議決され、伊東忠太、大江新太郎の設計・指導により、甲府盆地を一望にし恩賜県有林が遠望可能な地を考慮し、甲府城址本丸広場西南端への建設が着工された。
 謝恩碑の碑材は東山梨郡神金村上萩原(現在の甲州市)の萩原山恩賜県有財産内の花崗岩を使用した。
 碑高19mのオペリスク型、高さ7.5mのバイロン型による台座としその周囲は回廊式とした謝恩碑は大正11年9月に竣工し除幕式が挙行された。
 


━謝恩碑表面に彫刻せる山縣公爵揮毫の扁額━
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 謝恩碑の碑身は東側を正面とし、その台座に刻まれた山縣有朋による『謝恩碑』の揮毫である。

━謝恩碑裏面に彫刻せる山脇前知事の撰文━
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 謝恩碑の正面裏側である西側の台座に刻まれた、山脇春樹知事の撰文である。
 なお、謝恩碑が竣工した大正11年9月当時の知事は長野 幹であった。

━御沙汰書━
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 内務大臣の上京命令により、この御沙汰書は当時の山梨県知事熊谷喜一郎に伝達されている。

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by kaz794889 | 2009-08-02 18:21 | Comments(0)
2009年 08月 01日

山梨開發協會

【山梨開発協会の趣旨】
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 大正6年6月、山梨自動車運輸株式会社は甲府駅~小笠原間に山梨県内で最初の定期乗合自動車を運行開始させ、大正13年には鰍沢乗合自動車会社と合併し、車両44台を有する県内最大のバス事業社となった。
 当時の山梨県内における公共交通は、バス路線ににより確保されていたため、中小業者が増加し、路線が競合するなどの経営面における問題点が少なくなかったことから、資本力の大きな事業者に自主的に統合する機運が高まっていた。こうしたことから、昭和2年6月1日に山梨自動車運輸と山梨公衆自動車、御嶽開発組合が合併して設立された新会社が『株式会社 山梨開発協会』である。


【山梨開発協会設立当時のチラシ】
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 山梨開発協会設立当時の本社は、甲府市相生町46番地に所在していた。


【甲斐名所案内】
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 山梨開発協会が発行した山梨県内の名所案内である。
 御嶽昇仙峡、身延山、下部温泉、西山温泉、富士五湖などの県内観光スポットについて、自社のバス利用を通じて紹介しているとともに、「甲府を中心としての自動車網の大整理」「御嶽昇仙峡を中心とする景勝開発」「新旧物産の整理及び創造」を自社の三大使命として掲げている。


【山梨開発協会の案内】
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 昭和2年の会社設立後、山梨開発協会は昭和6年には東部乗合自動車、8年に輿石自動車、10年に甲府自動車運輸、13年に八ヶ岳自動車、アサヒ自動車、14年に台ケ原自動車、16年に御嶽自動車、17年に三日月自動車と合併し国中地域のバス網を拡大させていった。
 この案内は昭和15年の春頃のものである。
 山梨開発協会はその後の戦時期における事業統合により、峡西電気鉄道、身延自動車と合併するとともに、百観音自動車、中央自動車商会、クラブ自動車、下部温泉自動車、武田神社バスなどを統合し『山梨交通株式会社』となり、昭和20年5月1日から事業が開始された。




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by kaz794889 | 2009-08-01 21:57 | 交通 | Comments(0)