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2009年 06月 30日

街路樹繁る昭和通り

━観光都市・甲府 街路樹繁る昭和通り━
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 岡島百貨店が甲府市柳町から常盤町に百貨店ビルを建設しオープンしたのは昭和13年10月1日であった。
 百貨店ビルオープン後の戦時体制化における情景である。ビルの正面右側の壁には「堅忍持久」の垂れ幕が掲げられている。
 堅忍持久は尽忠報国とともに、昭和12年頃から盛んに使われだした言葉である。戦時体制下のこの頃は常盤通りが昭和通りと言われていた。

【現在の常盤通り、岡島前】
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 上の写真の現在の様子である。岡島百貨店は昭和47年7月以降から大増築等が始まり、昭和49年6月1日に全館完成オープンし、現在の規模となっている。

【昭和13年の初売り出し案内】
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 昭和13年元旦に発出された、戦時体制期におけるダイレクトメールである。この年10月の百貨店ビルオープンを控え、旧店舗である「甲府市柳町1-5 岡島百貨店」として武田神社を背景として発出されている。


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by kaz794889 | 2009-06-30 23:29 | 甲府市街点描 | Comments(0)
2009年 06月 28日

私立山梨県衛生会主催 衛生品展覧会

 大正2年10月28日から11月5日まで、衛生思想を普及・発達させることを目的とした衛生展覧会が私立山梨県衛生会の主催により開催された。
 当初の開催期間は11月3日までの7日間を予定していたが、参観の会期延長を望む声から2日延長し11月5日まで開催したものである。

【衛生品展覧会案内】
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 近代医学が発展し治療も整備されていったが、当時の社会における一般の人々の保健衛生に関する知識は、今だ十分とは言い難い状態であり、迷信にとらわれたり、伝染害毒の存在を知らず重患に陥るなど社会・公衆における問題となる事態が往々として存在するなどしており、保健衛生における知識の浸透と、それを以っての予防策は重要課題に位置付けられ、山梨県内の主要町村において家庭衛生講習会が催されるとともに、衛生品展覧会が開催された。 




【衛生展覧会場・本館及庭前噴水之図】
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 衛生展覧会は大正2年6月に甲府市深町(現在の甲府市立図書館及び甲府市教育研修所の場所)に新築移転した旧工(たくみ)学校(明治40年4月に琢美小学校と改称)の校舎(現在:甲府市城東一丁目15及び16番地附近)全部を仮用し午前九時から午後四時までを観覧時間として開催された。
 写真の噴水は、本館(いわゆる藤村式建築である工学校校舎を使用)と会場正門の間に開催期間中に設置されたものであり「大に風趣を添へたり」と伝えられている。
【現在の会場跡】
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 衛生展覧会が開催された旧工学校跡の現在の様子である。
 なお、旧工学校の校舎は大正6年4月28日に徒弟学校令により創設された市立甲府工芸学校(現在の甲府工業高校の前身)としても使われていた。

━衛生品展覧会記念絵葉書 本館・正門━
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 会場の正門には大緑門を設け衛生展覧会の扁額を掲げ国旗を交差させていた。

━衛生品展覧会記念絵葉書 保健部の内一室・陳列室の一部及裏門━
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 旧工学校は甲州街道に面して正門が設置され、裏門は山田町通りの甲斐奈神社に面した附近に設置されていた。

━衛生品展覧会記念絵葉書 売店━
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 売店は会場内の5か所に設けられ、衛生に関係する物品が主に販売されていた。

【衛生品展覧会場平面図】f0191673_16533994.jpg


 展覧会は保健、墓地及び火葬場、防疫、地方病、生理及び解剖病理、皮膚病及び花柳病、薬品、参考品の8部門を核とした各部門単位による陳列が行われていた。

【私立山梨県衛生会主催 衛生展覧会開解疏】f0191673_1656165.jpg
 大正3年11月15日に私立山梨県衛生会が衛生展覧会総括のために発行した『衛生展覧会開解疏』である。
 10月28日から11月5日までの期間中における観覧者は103,690人に達し、予想以上の盛況を呈していたようである。
 また、期間中の余興として甲府市三日町の巴座において、衛生展覧会関係者の起稿による衛生演劇「いのち」が演じられこれも盛況を呈していた。




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by kaz794889 | 2009-06-28 19:23 | 博覧会 | Comments(0)
2009年 06月 23日

甲府城と舞鶴橋

━甲府城━
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 かつての甲府城は中央内城の石垣に沿った周囲に一の堀が巡らされていたが、明治維新後の甲府市街形成や甲府駅設置などの過程において徐々に埋め立てられていった。
 この写真は数奇屋櫓跡周辺の石垣下(現在の甲府城西側)に沿った道路西側(甲府市中央二丁目の4番地、5番地附近)の一の堀が残されていた頃、桜町と橘町の境であった堀を渡るために架橋されていた舞鶴橋である。

【現在の甲府城・壕の最西側】
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 前記の写真に写る一帯の現在の状況である。
 甲府城の堀も現在は城址南側にその一部が残されているのみである。堀に架橋されていた舞鶴橋は堀の埋め立てとともに、大正11年9月に撤去されている。

【現在の甲府城図(部分)】
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 山梨県発行『舞鶴城公園』パンフに掲載された甲府城図に描かれた、舞鶴橋があった附近の現状である。
 ④が数奇屋櫓跡である。また、Pの位置が前記現状写真の中央に写るアスファルト部分である。

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by kaz794889 | 2009-06-23 17:57 | 甲府城 | Comments(1)
2009年 06月 21日

山梨桜桃忌と天下茶屋

 太宰治生誕百年・天下茶屋七十五周年記念桜桃忌と山梨桜桃忌が御坂峠天下茶屋等において、平成21年6月20日に開催された。

【御坂峠の天下茶屋】
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 『甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠へたどりつく。御坂峠、この峯の頂上に天下茶屋という、小さい茶店があって、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもって仕事をして居られる。私は、それを知ってここへ来た』(富嶽百景)
 御坂峠に木造ニ階建、八畳三間の天下茶屋が建設されたのは昭和9年の秋といわれ、建設当初は富士見茶屋、天下一茶屋などとよばれていたが徳富蘇峰の新聞紹介記事がきっかけで「天下茶屋」となったようである。
 富嶽百景の一節である「思ひを新たにする覚悟」で旅に出た太宰治が初めてここを訪れたのが昭和13年9月13日、同年11月15日までの三ヶ月余をここで過ごしたのである。
 天下茶屋の現在の建物は昭和58年4月1日に開店した三代目の建物である。

【御坂峠 天下茶屋の案内チラシ】
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 富士山と河口湖を一望できる天下茶屋の二階には、太宰治が滞在した初代天下茶屋の部屋が復元された太宰治記念館が設置されている。

【御坂峠・天下茶屋と河口湖分店・峠の茶屋の案内図】
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 山梨桜桃忌は御坂峠の天下茶屋で、太宰治生誕百年・天下茶屋七十五周年記念桜桃忌は天下茶屋の河口湖分店である「峠の茶屋」において開催された。



【御坂峠からの河口湖】
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 山梨桜桃忌の開催された当日は、御坂峠から天下一富士の眺望は残念ながら見ることができなかったが、太宰治生誕百年の節目である今年の山梨桜桃忌の例年以上の参加者による開催となっていた。

【太宰治の文学碑】
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 天下茶屋の一室における講演会に先立ち、昭和28年10月31日に建立された『富嶽百景』の一節「富士には月見草がよく似合ふ」を刻んだこの文学碑に山梨桜桃忌参加者による献花が行われた。

【御坂隧道】
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 平成10年1月28日に国の登録文化財に指定された天下第一の扁額を掲げた「御坂隧道」の天下茶屋側の口である。
 大正9年施行の旧道路法により、東京から大月、吉田、御坂峠を経由し甲府までの経路が国道8号線として指定され、この経路の改修が昭和6年11月に竣工すると東京から甲府が8時間で結ばれることとなった。
 昭和27年の現在の道路法による国道の再編成により、東京から甲府のは現在の国道20号線の経路となったが、昭和40年2月に着工された新御坂トンネルが昭和42年3月29日に完成し同年4月7日に供用開始となるまでは、この御坂隧道を経由する御坂峠は東京と山梨、郡内と国中を結ぶ交通の要衝として重要な位置を占めておりその往来も盛んであったことから、この場所における天下茶屋の役割は大きなものがあったと考えられる。

【「御坂天下茶屋」バス停】
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 天下茶屋への公共交通機関である、天下茶屋前の富士急「御坂天下茶屋」バス停である。
 太宰治が天下茶屋に滞在した当時の国道8号線であった、吉田と甲府の間に昭和9年には御坂国道バスが開通し、所要時間は1時間50分(吉田と御坂峠が50分、御坂峠と甲府が1時間)で結んでいた。
 昭和18年には戦時下における統合体制から富士山麓電鉄(現在の富士急行)に御坂国道バスは統合されている。
 なお、御坂国道バス時代、御坂峠のバス停留所の名称は「天下富士」であったようである。


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by kaz794889 | 2009-06-21 20:18 | Comments(1)
2009年 06月 16日

中巨摩郡小笠原町

【小笠原町勢一班 昭和十一年版】
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 明治8年、小笠原村、桃園村、山寺村の合併により発足した明穂村の町制施行により、昭和11年7月1日に誕生した山梨県内14番目の町が小笠原町である。
 小笠原は、いわゆる峡西地方の交通の中心地として商業が発展し、昭和10年10月の国勢調査によれば、人口6,538人、戸数1,241戸を擁する中巨摩郡下における最初の町制施行地であった。
 この町勢一班は小笠原町の町制施行を記念して昭和11年10月20日に同町役場で発行したものである。


【町制祝賀式参列方の件通知】
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 小笠原小学校で挙行された町制祝賀式の案内である。
 町制施行にあたり、記念写真帳も小笠原町役場から同時期に発行されている。
 なお、小笠原町は昭和29年4月1日に榊村、野之瀬村と合併して櫛形町となった後、昭和35年に豊村を編入し、平成15年4月1日には八田村、白根町、芦安村、若草町、甲西町と合併し南アルプス市となっている。


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by kaz794889 | 2009-06-16 21:08 | Comments(0)
2009年 06月 07日

峡西電力株式会社


【峡西電力株式会社二十五年略史(昭和10年7月25日発行)】
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 戦時期における電力国家管理の一環として、昭和17年4月1日に配電統制令に基づく配電会社9社の設立をはじめ、昭和26年5月1日の電気事業再編成令により新たに発足した電力会社9社による現在の電力体制が確立されるまで、山梨県内にあった中小の電力会社の一つが峡西電力株式会社である。
 峡西電力は明治43年7月7日に資本金10万円、株式2000株を以って創立し、中巨摩郡明穂村265番地(現在の南アルプス市)に本社が置かれた。創立当時の社員数は19名、需要戸数は421戸、1069灯であった。


【電気供給規定】
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 峡西電力は本社の他に韮崎、若神子、倉庫町に出張所を開設していたとともに、野之瀬第一発電所(野之瀬村:大正3年11月7日開設)、野之瀬第二発電所、津金発電所(津金村:大正13年9月20日開設)、芦安発電所(芦安村:昭和5年4月25日開設)、韮崎火力発電所(韮崎町:大正12年12月23日開設)の5か所の発電所を有し、中巨摩郡の20か村(釜無川の西側全域(芦安村を除く))及び北巨摩郡の1町20か村を電力供給地域とする他、山梨電気鉄道、芦安電灯、穂坂村電気部を大口電力の供給先としていたが、昭和17年9月1日に山梨県内にあった宮川電灯、高尾水力電気、駒電力とともに関東配電に統合された。


【峡西電力 本社(昭和10年頃)】
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 業務拡大による狭隘化に伴い、峡西電力本社は会社創立時の場所から大正8年1月8日に明穂村小笠原243番地に新築移転している。

━発電所(峡西電力株式会社発行)━
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 中巨摩郡野之瀬村に明治44年12月22日に開設された野之瀬第二発電所である。

━鉄管(峡西電力株式会社発行)━
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 野之瀬第二発電所の水路鉄管である、同発電所の有効落差は191.8mであった。

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by kaz794889 | 2009-06-07 16:23 | 電力 | Comments(0)
2009年 06月 06日

【藤村紫朗 没後100年】 3 山梨県庁舎


【明治17年頃の書簡】
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 東海道総督府参謀 海江田武次が甲府に入った慶応4年3月12日が「本県立庁ノ日」とされ、甲府勤番追手御役宅(現在の甲府市役所及びその北側の一帯)が新政府による国事代理機関の庁舎となり、山梨県庁のはじまりと言われている。
 また、甲府勤番追手御役宅は明治10年11月に新庁舎が建てられるまで、山梨県庁として使われていた。



【完成当時の山梨県庁舎(手札写真)】
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 旧甲府勤番追手御役宅であった庁舎が官員増加に伴う狭隘により、県庁新庁舎の建設が決まり、明治9年11月、県庁は甲府富士川町の旧甲府代官所(現在の富士川小学校の位置)を仮庁舎として移転した。
 新庁舎は主任技師中川篤与が中心となり経費14,232円95銭を以って、擬洋風いわゆる藤村式建築により建設され、藤村紫朗が山梨県在任中の明治初期に積極的に建設された擬洋風建築の中でも、この山梨県庁舎は意匠、規模においても群を抜いた建築物であり、藤村の治世におけるモニュメント的なものであった。
 
 新庁舎の落成にあたり次の布達がなされている。
 「 甲第三百七号 第一区甲府錦町新築県庁落成に付き来る二十三日開庁同三十日より事務取扱候事右  に付来る二十四日より二十八日迄五日の間庶人庁中縦覧を許す
   右布達候事  明治十年十一月十四日 山梨県令 藤村紫朗」

  この布達に対し甲府日日新聞(明治10年11月16日)は、『いよいよお待ちかねの新築県庁お開きは来る二十三日と極まり二十四日より二十八日まで五日間の間は勝手に庁内の拝見を許されます、都合して是非とも五日間の間に拝見しておくがよろしかるべし。さて二十三日の開庁式には県官はもちろん上下残るところなく裁判官、区戸長、旧土木掛等ご招待にてその人員凡そ五百二十人もあり、用材運搬等に尽力せし二百九ヶ村及び新築に使役されたる諸職人一千人へも夫々酒肴料をくださるよし、実に御招待の多きことは甲斐国開闢以来未曾有うの盛宴たるべしという評判なり。』と伝えている。

━(甲府名所) 山梨県庁━ 
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 甲府日日新聞(明治10年11月27日)によると県庁新庁舎の開庁式と一般見学の様子を次のとおり伝えている。
 『御招待によりし人員は四百余人にて、県官と合せ其の総人員五百二十余人〔ご馳走に充てらるる為、牛三頭を屠りたる由〕にして、其の座組の大略は、県令を始め裁判支庁長、陸軍駐在官、県官、区長、学区取締総理、銀行頭取、弊社社主、記者等、百三十人余が正庁という大広間に、第六課と其の又隣室の二席に戸長、旧土木掛、甲府市中の書記等が、区村吏、教導職、神官が食堂の三席に分ち、いずれも二行又は三行にテーブルを並列し、その上に白木綿を敷列ね大花瓶に草花をさして各所に並べたるは、いと見ごとにて、料理は日本、西洋の混合にて日本料理は魚町の松亭が承り西洋料理は葡萄酒醸造果樹栽培方の授業師大藤松五郎氏の細君が承り、生徒並びに製糸工女二十余名之が手伝をなせりという。当日は儀式のみで諸人の総覧を許さる日ならねど、翌日からは雑踏で見物が出来難いことから市内四小学生徒「琢美、梁木、相生、師範校付属小学生徒」だけは格別を以って本日拝見を許され午後一時頃より毎校生徒、列を正して入り来る人員は凡そ一千三百人余にて、順次楼上、楼下を巡覧した後、一同へ菓子パン五ツ宛を賜りたり。夜に入り新県庁は勿論、勧業場、師範学校、銀行共、楼の上下及びフラフ竿より数百の紅提灯を釣り下げて之を點ぜると間もなく眼新しき(めあたらしき)機関(からくり)花火ありて勧賞の声は山岳も崩るばかりにて、其景況は恰も別世界を顕出せしかと疑われたり。翌二十四日よりは縦覧の初日なりしが、前夜半より雨天となりざる故、順延とり掲示ありて一昨二十五日午後より差許されたりしが、前日より甲府満街に溜り込みたる老少男女児が一時に詰掛けたることなれば、其群集譬るにものすごく怪我人もあらん勢なれば午後三時半頃一時門戸を鎖し、今日縦覧止という掲示ありしも、跡より押し来る群集は何も知らず無暗に押懸る勢いにて既に門戸を押破らんとせしを数十人の巡査人足等にて漸く防ぎ止め夫より俄に門外に丈夫なる手摺を設けらるるに至れり、此日属官一同にて拝見人へ与えようとしたが、其計算によれば、凡ろ半日足らずにて入込し人員は一万人余といふなり、昨日も今日も相替らず、おびただしく出懸けますが、二十五日の割合にては多分二万人からでござりませう、先年聖上お写真の拝観製糸機械開等の節も前後になき人出と申したるが此度は又右より数倍にたる人出でござります。』
【内容等一部要約】

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by kaz794889 | 2009-06-06 19:56 | 藤村紫朗 | Comments(0)
2009年 06月 02日

芸術の森公園と山梨県立農事試験場

【芸術の森公園正面入口】
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 山梨県立美術館(昭和53年11月開館)と山梨県立文学館(平成元年11月開館)が建つ敷地は「芸術の森公園」として親しまれている。
 今の時期は公園内の花菖蒲が見ごろであると、山梨日日新聞も伝えている。

           【山梨県立文学館から見た山梨県立美術館】
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━山梨県立農事試験場棉作試験地 庁舎━
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 約6haの「芸術の森公園」の敷地は山梨県立農事試験場の跡地である。
 明治の勧農政策に伴い、明治33年4月に甲府市錦町に山梨県立農事試験場が発足し、同40年には試験場本場が甲府市伊勢町に移転したものの、伊勢町界隈が次第に都市化し圃場が狭隘になったことから、昭和7年に研究に最適な場所として現在の芸術の森公園の敷地(旧:中巨摩郡貢川村下河原)への移転工事が進められ、同8年に甲府市伊勢町から移転が行われた。
 なお、農事試験場庁舎は施設移転後の昭和10年に完成したものである。

━山梨県立農事試験場棉作試験地 圃場━
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 甲府市貢川に移転以来39年が経過し庁舎も老朽化し、移転当時は甲府市郊外でもあった農事試験場周辺も都市化され環境も不適となってきたことから、昭和46年から甲斐市下今井(旧:北巨摩郡双葉町下今井1100番地)の土地買収、基盤整備が進められ、同47年10月1日に同地の新庁舎に移転した。

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by kaz794889 | 2009-06-02 23:40 | 甲府市街点描 | Comments(0)