峡陽文庫

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2008年 11月 29日

小田切謙明と海洲温泉

━『小田切海洲先生略伝』 村松志考著 昭和11年11月25日発行━
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【小田切謙明】 
 弘化3年(1846年)12月1日に山梨県新青沼に生まれ海洲と号し、名主、戸長を務め明治9年に貸付会社補融社を設立。その後、当時の藤村県政を批判し同志と観風新聞を創刊。明治13年には峡中同進会の国会開設請願代表として上京し、大日本国会期成有志公会の創立に努力するなどし、明示14年に県会議員、自由党に入党するなど山梨県の民権運動の指導者として活躍し、明治26年4月9日に没しました。




【海洲温泉】
 海洲温泉の場所、甲府市桜町68番地(現在:丸の内1-9-3)は、明治初期、荊棘の密生した一帯の原野で、小田切は毎朝この場所を散歩していました。ある時、原野の中に一部分だけ土地が湿っていたため、この場所は鉱泉ではないかと掘削したところ、予想どおりの鉱泉であり、これが海洲温泉の起源となりました。
 明治17年6月には瀧泉社を組織し、この場所において温泉業を開始しました。

【海洲大権現】
 海洲温泉の開設後、その周囲には家屋が建ち並び、市街が形成されていったため、町内の有志や瀧泉社の関係者は、小田切の功績を頌し、その徳業を永遠に伝えるため、温泉創業の霊神として、小田切を生神として、明治21年9月に近地に祠宇を建て海洲大権現として崇め奉りました。
 その後、明治23年に近隣の料理屋から失火があり、それは町内に町の守護神が存在しないための不祥事でふるとの説が流布したため、明治21年に奉祇した海洲大権現を町内の守護神として祭事を営むこととし、甲府城の壕近くにあった祠宇を改築するため有志からの寄付金40円を集め、祠宇の地主と交渉したところ、地主は自分の手で建立するため40円の引渡しを要求したため、世話人はその要求を拒み、新たに別の場所に海洲大権現を再建しました。

━甲府市桜町 (内湯旅館)海洲温泉全景 「絵葉書①」━
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 海洲温泉の正面全景です。
 中央に写る暖簾がかかった門の左側の祠が、小田切謙明の生祠である海洲大権現です。

━海洲温泉があった場所(甲府市丸の内1-9-3)━
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 海洲温泉は、甲府税務署前の通り、西方向の突き当たりである、この場所にありました。

━内湯旅館 海洲温泉 御案内━f0191673_1424172.jpg
 案内の表には「創始者 生祠海洲大権現の祭神 小田切謙明翁」の記載があります。
 温泉は「塩類酸にして、硫化水素と僅かの甘味ある塩類泉」であり、午前5時からの朝湯が名物であったようです。



━甲府市桜町 (内湯旅館)海洲温泉全景 「絵葉書②」━
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 海洲温泉の建物(絵葉書①)はその後改築されました。
 絵葉書②は改築後の海洲温泉です。


 小田切謙明の没後、小田切の一人娘である嗣女 浦及子が甲府市白木町の清運寺に墓碑を建立しました。この小田切家の墓所に坂本龍馬の室、千葉さな子の墓碑も建立されています。
━『余話として』司馬遼太郎(文春文庫)━
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 千葉さな子の墓碑建立に関するいきさつは、『余話として』(文春文庫)に所収されている「千葉の灸」をお読みください。
 (「千葉の灸」は、朝日文庫『街道をゆく夜話』にも所収されています。)




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by kaz794889 | 2008-11-29 14:00 | 史料 | Comments(8)
2008年 11月 27日

山梨英和女学校


━私立 山梨英和女学校 本館正面━
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 山梨英和女学校は明治22年4月20日、宮腰信次郎、新海栄太郎を始めとした県下の有志とカナダメソヂスト教会婦人伝道会の協力により、山梨県内唯一のキリスト教信仰に基づく女子教育機関として設立が許可され、同年6月1日に西山梨郡甲府太田町22番地(現在:甲府市太田町8-1)の佐渡屋所有の建物を仮用して開校されました。
 
 その後、同24年10月に飯沼村西青沼(明治36年に甲府市百石町と改称)に移転し、同39年11月には甲府市愛宕町112番地に移転し、山梨英和学院として現在に至っています。
 絵葉書の校舎は、明治39年に移転新築された愛宕町の校舎です。

━『私立英和女学校創立趣意書』━
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 浅尾長慶、堤 江助、渡辺沢次郎、新海栄太郎、宮腰信次郎を発起者とし、多数の協賛者を得た山梨英和女学校設立発起人会が明治21年10月に組織され、同22年1月に5人の発起者名で発表された創立趣意書です。
 
 趣意書は「創業ノ経費ハ勿論将来校舎ノ建設等ニ要スベキハ金ニ至リテハ、ニ三発起者ノ能ク耐ユル所ニアラザルヲ以テ広ク有志ノ義損金ヲヲ募ヲント欲ス希クハ徴意ノアル所ヲ察シ多少ニ関セズ応分ノ義損アランコト切望ニ堪ヘザルナリ」と結ばれています。
 
 発起人の一人、宮腰信次郎の自叙伝には「趣意書を印刷し山梨県下の有志者に校舎建設の資金を募集し、約4000円の寄付を得た」胸が書かれているようです。

━『義損金募集約定書』━
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 義損金は本稿創立及び校舎建設の費用に充てること。また、義損金額、氏名は本校起業金義損名簿に登録し、永久に保存するとともに、新聞紙上において好意を謝することを伝えています。

━『義損金領収書』━
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 山梨英和女学校発起人の堤 江助、新海栄太郎、浅尾長慶の連名による明治22年の義損金領収書です。


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by kaz794889 | 2008-11-27 21:36 | 学校 | Comments(0)
2008年 11月 26日

身延線 南甲府駅

『身延線全通80年』
 身延線は、今年全線(富士・甲府間)開通80年を迎えました。
 大正2年の富士・大宮間(現在の富士宮)の開業以来、順次延長しながら昭和3年3月30日に富士・甲府間が全線開通しました。

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 身延線は戦時買収により、昭和16年5月1日に国買収・移管されるまで、「富士身延鉄道株式会社」という私鉄として運営されていました。

━『沿線名所案内』(富士身延鉄道会社発行)━
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  身延線も全線開通以来80年を迎え、山梨県内に残る当時の駅舎は、南甲府、東花輪、鰍沢口、下部温泉、波高島駅など数少なくなりました。
  こうした数少ない駅舎の中で、南甲府駅は重厚な駅舎として特に異彩を放っています。
  昭和3年3月30日の市川大門駅から甲府駅までの全通と同時に、「甲府
南口駅」として駅舎が完成し、同13年10月1日に駅名が「南甲府」と改称さ
れ現在に至っています。  

━現在の南甲府駅━
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 現在の南甲府駅の機能や旅客の利用状況、駅周辺の様子などを見た限り、駅舎の規模に違和感が感じられますが、逆にその違和感に甲府市南部の開発拠点として期待を込めて甲府南口駅が開設された、当時の状況が偲ばれます。
━甲斐 甲府南口駅━
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 甲府南口駅舎の開業当時の状況について、昭和評論社(甲府市愛宕町49番地)発行の雑誌『昭和評論』に次のとおり記されています。 

━『昭和評論』 第二巻・第三号(昭和3年4月15日発行)━
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 『壮観を誇る甲府南口駅』
 富士身延鉄道の中枢駅として全
力を注いで建設した甲府南口駅は
構内延長四十七、即ち 約一哩の
広大を有し鉄筋コンクリート二階建
である、階下は南方待合室、北方は
駅の事務所、二階は運輸所及び公
衆食堂で屋上庭園の設備をなし、ホ
ームに出るには地下道付住吉方面
と甲府方面との二方に分れアスハ
ルトの道路は踏心地よく、小手荷物
は総てエレベーターに依りて運搬さ
れる。発車信号は改札とホームとの
距離の関係で電気の信号に依り、
貴賓室は本県には従来見なかった
が、今回始めて設備され尚乗降客
の便宜を計る為め甲府駅と連絡す
る自動車を会社自身が運転する等、
甲府駅などは全く顔色なき設備で
至れり尽せりと云ふべく甲府南方
面は是より一大発展を遂ぐるに至
るであらふ。


 『昭和評論』に記された地下道は、自由通路として現在も東西の連絡に使用されています。
 この地下道の中間附近で一段天井が高くなっている場所が、ホームに続く
階段があった場所と考えられます。また、ホームの中ほどにも、階段口があ
ったと思われる場所が現在も認められますが、現在の南甲府駅に、昭和評
論に記された開業当時の様子を偲ぶことは、難しいのではないでしょうか。


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by kaz794889 | 2008-11-26 22:19 | 鉄道 | Comments(0)
2008年 11月 24日

甲府からのハイキング

 昭和初期における自然志向の広がりなどにより、登山・ハイキング活動とともに郷土の文化・歴史を研究する、甲府ワンドラーが創立するなど、昭和10年頃から全国的に徒歩旅行であるハイキングが流行し始めました。

━甲府からのハイキング━
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 甲府市役所内の甲府観光協会が発行したハイキング案内。日帰り案、京浜、静岡、諏訪など各方面からの一泊案などが掲載されています。



━甲府からのハイキング━
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 名古屋鉄道局が昭和12年3月に発行した小冊子風の案内です。なお、昭和25年4月に名古屋鉄道局甲府管理部が廃止されるまで、甲府は名古屋鉄道局の管轄区域でした。




 昭和12年7月の日中戦争勃発、同13年4月の国家総動員法公布などによる戦時体制下、旅行の目的は心身教練にあるという意見が強まり、練成旅行と名称を変えて行われるとともに、時代の風潮として享楽的な旅行の概念を一変させ、祖国や郷土を認識して心身を教練する、国策的な旅行である、史跡や遺跡巡りが奨励されていきました。

━国民精神総動員 ハイキングコース━
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 山梨県が発行したハイキングコースの案内であり、体力増進・精神修養ハイキングコースとして、富士山麓、甲府近郊、身延・下部、御嶽・増富、南アルプス、大菩薩方面と県内全域についての案内となっています。



━甲府からの史跡名勝めぐり━
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 甲府市役所、甲府観光協会が発行した案内であり、「御奉公の道は先づ心身の練成! 歩いて剛健なる体力を培いませう」と掲げながら、県内各地の史跡・名勝めぐりを紹介しています。




 軍事輸送の増加により、一般旅客を抑制させるため、不要不急の旅行は止めるよう呼びかけられ、昭和15年からは乗車券制限などがなされるようになり、当時の鉄道省は「不要不急の旅行は遠慮して国策輸送にご協力ください。」とのポスターを各駅に掲出しました。
 昭和19年4月からは、決戦非常措置要綱に基づく旅客輸送制限が行われ、東京都区内、川崎・横浜市内の鉄道駅から100km以上の旅行には、警察署等での証明が必要となりました。 なお、東京方面等から甲府より先の駅に向けては、旅行証明書が必要となりました。

━山梨県景勝地と温泉案内━
『銃後国民の第一義は心身の強健にあり』
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 山梨県景勝地協会が発行した、景勝地と温泉案内。昭和15年7月に、新宿伊勢丹で開催された、霊峰富士山展で配布されました。



━爽涼の秋 ハイキングに━
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 甲府市相生町の温泉旅館 小松屋が発行した案内。



━心身の練成は!甲府からの山山━
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 甲府市役所・甲府観光協会が従来のハイキング案内に替わって発行した登山の案内。
 『甲府市を中心として四囲に繞らす高山峻岳は心身練成の道場である』としながら、甲斐駒、鳳凰山、白根三山などを紹介している。




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by kaz794889 | 2008-11-24 16:17 | 観光案内 | Comments(1)
2008年 11月 23日

昇仙峡案内

 昇仙峡は昭和2年7月に日本二十五勝、戦後期に日本観光地百選・渓谷の部第一位に選ばれるなど、山梨県内の代表的観光地の一つです。
 昭和8年の山梨県内の観光者数では、富士五湖255,356人に次ぐ121,738人という記録があり、富士五湖、昇仙峡、身延山が県内三大観光地の様相を呈しています。
  このため、昇仙峡に関する観光案内は、戦前、戦後を通じ数多く発行されています。
  今回は、そうした昇仙峡に関する観光案内のいくつか紹介します。


『観光案内書』

━甲州御嶽観光案内━

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 山本松州・吉田岳雲編 芳文堂 大正7年8月15日発行 P86

━甲斐御嶽奇景集━
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 土橋永吉 山梨渓遊会 大正14年1月2日発行 P28

━御嶽昇仙峡と甲府案内━
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御嶽昇仙峡探勝会 昭和6年10月17日発行 P47


『観光案内』

━御嶽案内図━
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 鰍沢町今村写真館が昭和2年3月25日に発行。御嶽探勝と金桜神社の案内。



━昇仙峡案内━
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 御嶽自動車株式会社が昭和初期に発行。御嶽昇仙峡、里程と所要時間、自社乗合自動車の運行時刻の案内。



━昇仙峡案内━
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 御嶽自動車株式会社が昭和10年代前半に発行。前記と同様の内容の案内。



━御嶽昇仙峡御案内━
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 御嶽自動車株式会社が昭和10年代中頃に発行。東京・松本からの日帰りによる昇仙峡遊覧を案内。



━御嶽昇仙峡案内━
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 山梨県景勝地協会(山梨県庁内)が昭和10年代中頃に発行。御嶽昇仙峡と探勝行程を案内。



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by kaz794889 | 2008-11-23 23:53 | 御嶽昇仙峡 | Comments(1)
2008年 11月 22日

西湖点描

━(富士八景の内)西の湖━
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━文化洞ヨリ見タル西湖━
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『西湖』
  河口湖西岸の長浜より西方1kmで西湖の東岸に達する。この間乗物の便がない。
  西湖は東西3km半、南北800m、水面は海抜921m、その最深点は77m
に及び、富士五湖中最大を示している。従って水色は美しく、冬季は第3号
に相当する。モーターボート東岸から西岸の根場まで通う。(鉄道省編「日本案内記 関東編」昭和5年3月発行より)

━「西湖案内」(西湖渡船合資会社発行)━

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 河口湖を船津から船で横断して長浜に着き、そこから8丁で西湖に至ります。
 西湖の渡船場から、西湖渡船合資会社のモーターボートが西湖を縦断して対岸の根場を結んでいました。1日6便の定期船のほか、貸切船は随時運航していたようです。
  次の図は、この西湖案内に掲載されている西湖の案内図です。


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━「西湖附近御案内」━

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━「富士五湖 河口湖西湖御案内」(河口湖西湖遊覧渡船株式会社発行)━

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 河口湖西湖遊覧渡船会社は、河口湖及び西湖における渡船会社であり、西湖には遊覧渡船を10艘保有し、西湖では1日8便の定期船が所要時間40分で根場まで運行されていました。

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by kaz794889 | 2008-11-22 23:06 | 観光案内 | Comments(0)
2008年 11月 18日

精進湖点描

━精進湖上ノ富士━
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『精進湖』
 富士の西北麓に位置し、東北西の三方は山に囲まれ、南方のみ青木ヶ原の低地に接している。湖の周囲約10km、面積869㎡、最深25mで、富士五湖の中で最小の湖であり、湖上の風光は内外国人に賛美され、湖の南岸から湖心まで溶岩流の半島が突出しているので、湖形は鹿の頭の如く見える。
 自動車の終点、赤池(湖の東南岸)から精進地区のある湖の北岸まで約1.5kmあり、湖上モーターボートで約20分で達することができる。
 精進地区は精進湖の北畔に位置する戸数約100戸の一寒村で、湖畔の至るところキャンプに適し、諏訪神社の大杉が聳えている。
(ジャパン・ツーリスト・ビューロー発行「昭和9年版・旅程と費用概算」より)
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 精進湖遊覧運漕船合名会社発行の「精進湖附近案内」
  精進湖附近の名所として、精進大杉、パノラマ台、富士風穴、富岳風穴、鳴沢氷穴が紹介さ れています。 


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 「精進湖 富望閣 山田屋旅館」の案内
  精進湖畔パノラマ台登山口に位置した旅館であり、「湖上の富士を客室より居ながら望むことのできることが当館の誇りです。」と、精進湖と富士山の眺望について書かれています。


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 精進湖ホテル経営の「湖畔の家」発行の「富士五湖廻りの栞」
  パノラマ登山道の基点に位置し、精進ホテルと同一系統の経営に移し、経営にサービスに満幅の努力を払って皆様に御奉仕申上げますと書かれています。



「国立公園富士五湖 精進ホテル」と「精進湖ホテル栞」
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 精進ホテルは精進湖畔の半島状の小丘に位置し、明治28年イギリスの帰化人、星野芳春(英国名:ハリイ・スチュアート・ホイットウォーズ)によって創設されたホテルです。
 この観光案内チラシの頃は、大正7年に精進湖畔の赤松材を使って建設された木造洋館とその後に建築された木造日本館によるホテルであり、昭和天皇が皇太子時代に二泊するなど、他にも皇族や外国王室の賓客が利用されるホテルであったようです。

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by kaz794889 | 2008-11-18 22:37 | 観光案内 | Comments(0)
2008年 11月 17日

絵葉書で見る山梨 15

━旅館 佐渡幸 本店━
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 柳町の旧甲州街道沿い(柳町通りの東側)。柳町宿の脇本陣を勤めた佐渡屋幸三郎家が明治に入いり、看板を掲げた旅館が「佐渡幸」です。
 昭和8年に廃業するまで、柳正堂の南隣(現在:中村荘助商店の場所)にありました。
 絵葉書の建物は、明治34年に起工された木造3階建・曲尺型で、建築は
全て東京の建設職人が携わりました。当時は甲府市内第一の旅舎として
50室を有し、上流貴紳士が定宿として利用していました。 


━本店裏庭・停車場前支店━
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  佐渡幸の裏側と、甲府駅前にあった停車場前支店です。


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by kaz794889 | 2008-11-17 20:55 | 絵葉書で見る山梨 | Comments(0)
2008年 11月 16日

旧甲府刑務所跡を訪ねて

【旧跡地を訪ねて】
 
 現在の場所(甲府市堀之内町)に昭和55年4月に移転するまで、甲府市立琢美小学校や旧山梨厚生年金会館のある甲府市朝気1-2周辺に甲府刑務所は所在していました。
  移転から約30年が経過し、現在は住宅地となった一帯を訪ねました。

【甲府刑務所の沿革】
  明治6年5月甲府橘町の約11,784坪の地に監獄署が設置され、同19年
 8月に甲府監獄、同22年に山梨県監獄署と改称された後、同36年に当時
 の司法省直轄となり甲府監獄と改まりました。
 当時の甲府監獄は橘町1番地の西側、現在の丸の内2丁目周辺に所在していたため、明治36年の中央線甲府駅開業時、駅と監獄の位置は道路一つ隔てた状態であつたため、駅前一帯の広大な地域を占めていた甲府監獄の位置が問題となり、多くの市民から移転が強く要望されたことから、同39年4月に西山梨郡里垣村大字梅ヶ坪(現在:甲府市朝気1-2)の約21,951坪の地に移転が決定し同時に新庁舎の建築が始まり、同45年3月に竣工・移転しました。
  なお、橘町の甲府監獄跡地は大正4年までに整地区画され市街地となり、現在に至っています。

━移転地の新庁舎━ 
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  大正11年10月14日の官制の改正により、甲府監獄も甲府刑務所と改称され、昭和12年8月には里垣村の甲府市合併に伴い、所在地も甲府市善光寺町100番地と改称されました。

━郷土風景(昭和8年9月発行)より━
『刑務所風景』
 見るからに冷たそうな刑務所のスケッチ、今では大分モダン化して刑務所独特の赤煉瓦の塀もコンクリートに変っている。其北を東へ流れているのは甲府夜曲にある濁川で、遥か彼方に連る山脈は南アルプスの一部である。
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 昭和20年7月の甲府空襲により、庁舎・施設の90%が焼失し、同21年度以降順次復旧工事を行い、同26年10月に復旧工事が完了し、以来、同55年4月の移転に至っています。

━戦災復旧後の庁舎本館━
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 空襲により焼失した箇所を復旧させ、昭和55年4月の移転時まで使用されていた庁舎本館。
 竣工時に比べ、屋根周辺が改装されています。
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【跡地を歩く】
  旧甲府刑務所は、前述のとおり、現在の甲府市朝気1丁目2から3、
一等官舎といわれた幹部官舎のあった城東2丁目28を含めた一帯に
ありました。
  今から約30年前の刑務所移転当時の様子は次のとおりです。
  正門は朝気通りに面した、琢美小学校と朝気ふれあい公園の間の
道路を少し入った小学校と公園の角附近にあり、正門を中心に、高い
塀が北側は濁川、南側は「総合女性センター入口」のバス停附近まで
巡らされ、朝気通りに面して大人の胸程度の高さの塀があり、奥まった
高い塀(琢美小学校の西側沿いの位置)と、通りに面した低い塀の間に
は空間(自動車を縦に3台並べた程度の奥行き)があり、バス停附近に
は煉瓦造りの「物品受渡場」と石に刻み込まれた建物が建っており、そ
こから南側には刑務官の一戸建官舎が建ち並んでいました。
 旧山梨厚生年金会館前の道路が刑務所の裏側にあたります。
 刑務所の裏側は、現在の広い道路からは想像できないほど狭い、自
転車のすれ違いが可能な程度の未舗装の道路が裏側の塀に沿って南
北に通じており、北に向かって左側には刑務所の塀とともに現在は暗渠
となっている小さな川が流れ、右側の道沿いには全く人家がなく、葦が鬱
そうとした空き地が続き、濁川に架かる幅員の狭い第一池添橋に続いて
いました。
 
━琢美小学校と朝気ふれあい公園の間の道路━
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  緑の木立が朝気ふれあい公園、道を挟んだ反対側が琢美小学校。
  公園沿いの亀甲形の石を用いた塀は、移転前に朝気通り沿いにあ
 った低い塀として使割れていたものです。当時は、もう少し高さがあっ
 たようです。

━濁川の排水溝━
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  刑務所の北側は、濁川に沿っていました。この写真では暗くて見え
難いですが、「川をきれいに」の看板の下が、濁川に面した刑務所の
排水溝口です。
また、排水溝口の左側は刑務所建設当時に作られた石積です。

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 排水溝口を近くで写しました。

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 排水溝口に続く石積みです。

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  東側から西側に向けた、濁川に沿って続く石積みです。
  移転前は、この石積みの上に高い塀が巡らされていました。


【訪問後記】
  刑務所跡地を早足で訪ねました。跡地に残る遺物はここで紹介し
たもの以外に、朝気ふれあい公園の東側入口附近で使用されてい
る敷石の一部に、その可能性が考えられましたが、断定できません
でした。
 以前、朝気ふれあい公園内に、この場所への刑務所新築を記念し
た「建築之碑」といった石碑がありましたが、今回訪れた際には見当
たりませんでした、どこか由緒のある場所(現在の甲府刑務所とか)
に移動させたのでしょうか。
  また、旧刑務所正門の一部は、どこかに移築保存されているよう
です。
  石碑の移転場所、旧正門の移築場所をどなたか御存知であれば、
御教示ください。




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by kaz794889 | 2008-11-16 14:45 | 訪問記 | Comments(2)
2008年 11月 07日

富士川舟運

【富士川舟運】
 慶長12年、徳川家康は角倉了以に富士川の開削を命じ、了以、玄之の
親子二代により、慶長19年に鰍沢、青柳、黒沢の富士川三河岸から駿河
岩淵までの18里に舟を通じさせました。
 富士川舟運は、江戸幕府の年貢米を江戸に回送することを主たる目的と
して開かれたものですが、近世における経済発達に応じ、甲州のみでなく
信州から駿州を結ぶ物資輸送のルートとして、約300年間、経済・交通の
大動脈としての役割を担ってきました。
  当時、甲州から駿河まで、徒歩で2日を要した行程が6時間ほどで到着
できました。
  富士川舟運の華やかな時代は、甲府に鉄道が通じる明治36年頃まで
続きました。

━鰍沢町ヨリ七面山ヲ望ム━
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 鰍沢は、富士川三河岸の一つであり、その中心として、また、甲州の新し
い玄関口として富士川舟運の歴史とともに歩んだ町です。


━(富士川風景)鰍沢ノ河岸━
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 富士川舟運による、駿河からの上り荷、甲州からの下り荷などは、鰍沢
河岸に集まりました。
 これは、明治40年代頃における、富士川船への荷物の積み上げ作業
の様子です。
  
━送券━
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 明治初年、富士川舟運の重要性がより高まりました、このため、旅客
物資の安全輸送を図るため、時の県令藤村紫朗の主動により、富士川
運輸会社が設立され、船頭全てを会社所属とし、所属以外の者の通船
を禁止するなど、富士川通船を一手に握り会社が発展していきました。
 これは、富士川運輸合資会社の送券(荷物の送り状)です。
 なお、富士川運輸合資会社は、富士川運輸会社の組織替えにより誕
生した合資会社です。

━送リ券━
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 明治14年、同業会社の出現により富士川運輸会社の舟運統制が崩
れ誕生した会社の一つである、丸甲合資会社の送り券です。 

━諸荷物通送券━
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 青柳河岸にあった、青柳運輸会社の諸荷物通送券です。


━甲州富士川 鰍沢乗船場━
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 富士川の鰍沢乗船場です。

━乗船券━
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 富士川船への乗船券です。
 乗船地が鰍沢、上陸地が岩淵となった、富士川共同乗船所発行のものです。


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by kaz794889 | 2008-11-07 21:56 | 史料 | Comments(0)