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カテゴリ:石碑( 13 )


2014年 12月 21日

野口英夫君碑

【野口英夫君碑】
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 「野口英夫君碑」は新聞人、政治家であった野口英夫の顕彰碑であり、名取忠愛、矢島栄助、細田武雄、新海栄太郎、山本伊作、三枝治郎の6名が発起人となり、有志366人の賛同を経て甲府城跡二の丸入口に建碑され、昭和4年9月23日に約300人が出席のもと除幕式が行われている。

 この顕彰碑は前述のとおり、当初は甲府城跡内(武徳殿敷地の入口右側附近)に建てられていたが、甲府城跡整備のため平成10年に移設され、現在は甲府市の「丸の内公園」に建てられている。
 

 

 












【「野口英夫君碑」表面】
f0191673_17350403.jpg 篆額は内閣総理大臣を務めた清浦奎吾、撰文は徳富猪一郎による碑は、製作から完成まで一年を要したという。







【野口英夫の墓】
f0191673_15510692.jpg 野口英夫は安政3年9月3日に徳島県板野郡大山村(現在の上坂町)で藍問屋を営む野口亀太郎の四男として生まれ、幼名は長十郎、8歳で仏門に入り僧名を英鳳とし、22歳で還俗し英夫と名乗ることとなった。
 明治6年に東京に出て中村敬宇の同人社に学び、山梨県との縁のきっかけは、明治12年2月21日に山梨日日新聞の前身であり峡中新聞、甲府新聞を改題した甲府日日新聞の主筆として迎えられたことによる。
 明治14年1月に甲府日日新聞が山梨日日新聞に解題されると、社主である内藤伝右衛門から一切の権利譲渡を受け、以降は山梨日日新聞の社長となり、その前後には山梨県会議員、甲府市会議員となり正副議長を務めている。
 大正11年2月20日に66歳で没している。













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by kaz794889 | 2014-12-21 18:05 | 石碑 | Comments(0)
2014年 05月 03日

城北新道開鑿碑

【城北新道開鑿碑】
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  甲府市中央2丁目の民家の宅地内に建つ「城北新道開鑿(かいさく)碑」は明治43年5月に建立された石碑である。
  石碑に刻まれた内容によると、明治36年6月に中央本線が甲府まで開通し、甲府城清水曲輪の位置に甲府停車場が設置されたことに伴う線路の敷設により、甲府城の周囲にあったこれまでの道路が分断され、特に東西の交通路の閉鎖は周辺住民にとっては不便甚だしいものであったという。
  このため、周辺住民等の有志者が道路の新設を発起し義捐金を募り、1000余円を集めたことなどから甲府市もその趣旨に賛同し、明治43年4月に新たな道路の建設が起工され、長さ250間、幅3間、工費3300余円の城北新道が完成したという。



【明治42年の甲府市街図】
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  新道、シンミチ(赤線部分)が城北新道の位置である。
  周辺住民がこれまで利用していた東西を結ぶ生活道路は中央本線の敷設により消滅している。



【現在の城北新道】
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 現在の城北新道(上記市街図の矢印方向)である。
 道路に沿った右側民家の先に「城北新道開鑿碑」が建てられている。道路突き当りは甲府城稲荷櫓である。



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by kaz794889 | 2014-05-03 12:20 | 石碑 | Comments(0)
2013年 09月 07日

晦斎竹内先生之碑

【晦斎竹内先生之碑】
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  「晦斎竹内先生之碑」は明治5年10月に招かれ、学制当初の甲府の小学校において訓導や教頭などを務めた竹内忠告の教育振興に尽くした功績を称えるため、門人の中山正俊の撰文により門弟有志により明治23年に甲府市内の瑞泉寺境内に建立された石碑である。
  竹内は弘化4年4月21日に二本松藩士竹内恒の三男として生誕し、二本松藩の藩校である敬学館の学監を務めるなどしていたが、明治5年に甲府に招かれた後は甲府の小学校に勤務していたが、明治14年に母親が老衰のため退職し郷里に戻った後の明治14年12月15日に逝去している。




【甲府琢美小学校 第三十五回記念】
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  竹内忠告は琢美学校の教頭を務めるなどしたため、明治41年2月に発行された「琢美小学校第35回記念」絵葉書において、その右側上段に竹内の肖像写真が記されている。





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by kaz794889 | 2013-09-07 23:59 | 石碑 | Comments(0)
2013年 09月 01日

学級増加記念碑

【学級増加記念碑】
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  県立韮崎高等学校の敷地内に建つ写真の石碑は、昭和12年7月に建立され正面に「学級増加記念碑」「貴族院議員 小野耕一書」と刻まれている。
  石碑の裏面に刻まれた「学級増加校舎増築略誌」によれば、石碑の建立された当時、旧制韮崎中学校の入学志願者が著しく増加したため、諸方面から学級増加の要望が極めて切なるものとなったことから、同窓会員がその実現に努力し北巨摩郡選出の県議会議員を始めとした有志らによる熱烈なる援助等により、校舎増築の目的が達成したこと。また、その実現は石碑の揮毫者である小野耕一並びに左記各位の寄進を得たことによると記されている。
  
  また、寄進者として百観音自動車会社、台ケ原自動車会社、峡西電力会社の他、79名の個人名、合計82名の氏名等が刻まれている。
  なお、石碑正面の揮毫者である小野耕一は韮崎町出身の実業家であった小野金六の長男であり、父親の事業を引き継ぐなどし、東京在住の東京府多額納税者として昭和11年から貴族院議員を務めていた。



【県立韮崎中学校 校舎増築落成記念 新築校舎】
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  学級増加に伴い昭和12年に増築・竣工した校舎である。



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by kaz794889 | 2013-09-01 14:31 | 石碑 | Comments(0)
2013年 08月 18日

笹子隧道記念碑

【甲府駅前時代の笹子隧道記念碑】
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  笹子隧道記念碑は宮城県石巻産の碑石による高さ2丈6尺、幅8尺7寸の石碑であり、東京深川の田鶴念の彫刻によるものであり、 明治36年6月11日に次の順序による除幕式が行われている。
  ① 開式之挨拶  委員総代 若尾逸平
  ② 序幕 陸軍少将 田村怡與造
  ③ 式辞 委員総代 佐竹朔太郎
  ④ 祝辞 来賓
  ⑤ 閉式之挨拶 委員総代 浅尾長慶

  
  写真は甲府駅前時代のものであり、碑の後方は甲府城である。
  笹子隧道記念碑は昭和初期に甲府城内に移設され、現在は所縁の地である中央本線笹子駅前に移設されている。
  



【現在の同位置】
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  甲府駅前の山交百貨店の南側、現在、山交タクシーのりばの位置周辺が、かつて記念碑が建てられていた場所と考えられます。




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by kaz794889 | 2013-08-18 15:20 | 石碑 | Comments(0)
2012年 04月 21日

甲府駅と記念碑

【甲府駅前の記念碑】
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 明治36年6月に甲府駅が開業した頃の駅前は、特段何もない広々とした風景だったことから、駅前に庭園を造り乗降客の憩いの場を建設することとなった。
 その完成を記念し明治41年6月に建立された石碑がこの記念碑である、当時の建設費用は千円、石碑の裏には当該事業の発起人、賛同者等の指名が刻まれている。
 建設された庭園はその後、この記念碑とともに大正時代には撤去されている。
 その後、甲府駅の開業75年を記念し昭和53年に再び駅前に移設され、現在は武田信玄の銅像裏に建てられている。
 駅前への移設直前まで、この記念碑は北口の国鉄官舎の一画(現在、甲府城山手門が再建されている一帯)に残されていた。


【甲府駅開業直後の甲府駅前】
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 写真のとおり、当時の甲府駅前広場の一帯は特に何もない殺風景な状況であった。


【駅前庭園建設後の甲府駅前】
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 甲府駅前の植栽の中に建立された当時の記念碑。
 下記の甲府駅前を写した写真の右側植栽を拡大したものである。 


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by kaz794889 | 2012-04-21 16:31 | 石碑 | Comments(0)
2011年 07月 17日

甲府駅前の笹子隧道記念碑

【甲府駅前時代の笹子隧道記念碑】
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 中央本線の笹子トンネル開通を記念した石碑は、明治36年6月11日に除幕されている。
 笹子隧道記念碑の建設経緯については、峡陽文庫の「23年8月27日、笹子隧道記念碑」を参照されたい。
 明治36年6月の除幕当時、この記念碑は甲府駅前(現在の山交デパート南側の山交タクシー附近)に建てられていたが、昭和初期に甲府城内の一角に移され、更に現在は笹子駅前に移されている。

 写真は甲府駅前に建てられていた頃の記念碑である。
 大正15年9月28日に、甲府駅前にあった中米旅館と内藤薬店が主催した「伊勢琴平参拝団体旅行」に出発した団体が、同年10月になって甲府に戻った際に撮影された写真である。


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by kaz794889 | 2011-07-17 22:48 | 石碑 | Comments(0)
2011年 06月 11日

迪幽小尾先生之碑

【西教寺墓地】
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 甲府市中央5-5-28の児童遊園地は、その敷地内に秋葉神社が鎮座するため地域の人から「あきばさん」と呼ばれ親しまれている。
 寺院の建物はないが、この場所は浄土宗内田山西教寺のあった場所であり、秋葉神社の社殿南側の奥には教安寺が現在は管理する西教寺の墓地が残されている。

【西教寺墓地内の小尾迪幽画伯】
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 小尾迪幽(明治32年~昭和11年9月24日)は甲府市出身の独学の日本画家であるが、少年期の生い立ちなどの詳細は不明である。
 小尾の青年期である甲府在住時代は当時の山梨県衛生課長であった渡辺啓次郎の助力により画業に専念していた。
 昭和6年の夏、当時東北帝国大学の衛生学の教授であった近藤正二博士が紫外線測定のため長野県奥蓼科の温泉旅館に滞在中、当地を写生旅行で訪れていた小尾を知り、その画才の非凡なるを惜しみ、近藤博士は小尾を仙台に招いている。
 以降3年間、小尾は仙台で制作活動を続けていたが、持病である地方病が悪化し昭和8年には甲府へ帰郷し療養に努めていたが昭和11年に38歳で亡くなっている。
 西教寺の墓地内にある小尾の墓と、その傍らに建つ「迪幽小尾先生之碑」は近藤博士ら東北帝国大学の教授15名によって昭和13年9月に建立されたものである。
 なお、石碑の側面には東北帝国大学の教授時代に小尾から画を習っていた、土井晩翠の筆による歌が刻まれている。 

【小尾迪幽画伯遺作展の冊子】
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 近藤博士が秘蔵してきた小尾迪幽画伯の作品を中心に、昭和50年5月26日から3日間、山梨県民会館地下展覧会場で開催された、「郷土画家 小尾迪幽画伯遺作展」の冊子である。



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by kaz794889 | 2011-06-11 16:41 | 石碑 | Comments(0)
2011年 05月 29日

椎山近藤翁碑

【愛宕神社拝殿】
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 甲府市愛宕町の愛宕神社境内に「椎山近藤翁碑」が建立されている。
 椎山近藤翁とは、明治12年に開設された山梨県議会の初代議長を務めた南巨摩郡睦合村(現在の南部町)出身の椎山を号とした近藤喜則(天保3年~明治34年)のことであり、「椎山近藤翁碑」には、その事跡が刻まれている。

【愛宕神社境内の竹林】
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 境内の拝殿に向かった右側に神社の神事で使用するために植栽された竹林があるが、その竹林の樹勢に隠れるように「椎山近藤翁碑」は建てられている。

【椎山近藤翁碑】
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 近藤喜則は維新後に区長、区長惣領代理、学区総理を務め県議会開設とともに議員、議長に就任するとともに、峡南地方の特産である三椏栽培の増産を図るための殖産社の設立や病院、私塾の開設を行うなど、山梨県の明治期における大きな事跡を残している。
 事跡を讃えるこうした石碑は山梨県内にも少なくないが、この石碑の注目する点は、明治40年10月にその撰文を藤村紫朗が行っていることである。
 山梨県内の明治初期における殖産工業に関し、藤村と近藤がそれぞれに関わり両者に接点があったことは明らかであり、当時県令の地位にあった藤村が近藤の功績を讃える撰文を行ったことに違和感はないが、明治20年3月8日に山梨県知事から愛媛県知事に転任した以降、藤村紫朗が山梨県を訪れることはなかったとされているが、この石碑の序幕など、山梨県を訪れることはなかったのだろうか。
 なお、藤村紫朗は明治40年当時は郷里の熊本で生活しており、明治42年1月5日に熊本市本荘の自宅で急性肺炎のため亡くなっている。



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by kaz794889 | 2011-05-29 12:47 | 石碑 | Comments(0)
2011年 05月 15日

重新徽典館碑

【山梨大学教育人間科学部構内の碑】
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 篆額に「重新徽典館碑」と刻まれたこの石碑は、甲府勤番士とその子弟を教育する目的で寛政8年
頃に創設された教育機関である徽典館の重要性から、その育成、発展を図るため幕府の命により、江戸の昌平坂学問所の分校とする組織改編が天保14年1月に実施されるとともに、徽典館の学舎をこれまでの甲府城追手門南から、敷地面積一千有余坪、建坪177坪の学舎を造営し追手門前に新築移転したことを記念し天保14年12月に建立されたものである。
 徽典館は追手門前、維新後には山梨師範学校となり甲府錦町と移転していくが、校舎狭隘のために明治43年3月に西山梨郡相川村(現在の場所)に移転した際に学舎とともに移されたものである。 

【重新徽典館碑】
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 重新徽典館碑は高さ1.7m、幅1mの石碑である。
 石碑表面のひびは、昭和20年7月の甲府空襲で山梨県師範学校が全焼した際の炎によるものである。



【大正13年頃の碑】
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 大正13年6月発行の山梨県師範学校編纂による「創立五十周年記念」誌に所載された、戦前期の重新徽典館碑である。



【重新徽典館碑の銘文】
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by kaz794889 | 2011-05-15 09:34 | 石碑 | Comments(0)