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2012年 04月 21日
【甲府駅前の記念碑】 ![]() 明治36年6月に甲府駅が開業した頃の駅前は、特段何もない広々とした風景だったことから、駅前に庭園を造り乗降客の憩いの場を建設することとなった。 その完成を記念し明治41年6月に建立された石碑がこの記念碑である、当時の建設費用は千円、石碑の裏には当該事業の発起人、賛同者等の指名が刻まれている。 建設された庭園はその後、この記念碑とともに大正時代には撤去されている。 その後、甲府駅の開業75年を記念し昭和53年に再び駅前に移設され、現在は武田信玄の銅像裏に建てられている。 駅前への移設直前まで、この記念碑は北口の国鉄官舎の一画(現在、甲府城山手門が再建されている一帯)に残されていた。 【甲府駅開業直後の甲府駅前】 ![]() 写真のとおり、当時の甲府駅前広場の一帯は特に何もない殺風景な状況であった。 【駅前庭園建設後の甲府駅前】 ![]() 甲府駅前の植栽の中に建立された当時の記念碑。 下記の甲府駅前を写した写真の右側植栽を拡大したものである。 ![]() 2011年 07月 17日
【甲府駅前時代の笹子隧道記念碑】 ![]() 中央本線の笹子トンネル開通を記念した石碑は、明治36年6月11日に除幕されている。 笹子隧道記念碑の建設経緯については、峡陽文庫の「23年8月27日、笹子隧道記念碑」を参照されたい。 明治36年6月の除幕当時、この記念碑は甲府駅前(現在の山交デパート南側の山交タクシー附近)に建てられていたが、昭和初期に甲府城内の一角に移され、更に現在は笹子駅前に移されている。 写真は甲府駅前に建てられていた頃の記念碑である。 大正15年9月28日に、甲府駅前にあった中米旅館と内藤薬店が主催した「伊勢琴平参拝団体旅行」に出発した団体が、同年10月になって甲府に戻った際に撮影された写真である。 2011年 06月 11日
【西教寺墓地】 ![]() 甲府市中央5-5-28の児童遊園地は、その敷地内に秋葉神社が鎮座するため地域の人から「あきばさん」と呼ばれ親しまれている。 寺院の建物はないが、この場所は浄土宗内田山西教寺のあった場所であり、秋葉神社の社殿南側の奥には教安寺が現在は管理する西教寺の墓地が残されている。 【西教寺墓地内の小尾迪幽画伯】 ![]() 小尾迪幽(明治32年~昭和11年9月24日)は甲府市出身の独学の日本画家であるが、少年期の生い立ちなどの詳細は不明である。 小尾の青年期である甲府在住時代は当時の山梨県衛生課長であった渡辺啓次郎の助力により画業に専念していた。 昭和6年の夏、当時東北帝国大学の衛生学の教授であった近藤正二博士が紫外線測定のため長野県奥蓼科の温泉旅館に滞在中、当地を写生旅行で訪れていた小尾を知り、その画才の非凡なるを惜しみ、近藤博士は小尾を仙台に招いている。 以降3年間、小尾は仙台で制作活動を続けていたが、持病である地方病が悪化し昭和8年には甲府へ帰郷し療養に努めていたが昭和11年に38歳で亡くなっている。 西教寺の墓地内にある小尾の墓と、その傍らに建つ「迪幽小尾先生之碑」は近藤博士ら東北帝国大学の教授15名によって昭和13年9月に建立されたものである。 なお、石碑の側面には東北帝国大学の教授時代に小尾から画を習っていた、土井晩翠の筆による歌が刻まれている。 【小尾迪幽画伯遺作展の冊子】 ![]() 近藤博士が秘蔵してきた小尾迪幽画伯の作品を中心に、昭和50年5月26日から3日間、山梨県民会館地下展覧会場で開催された、「郷土画家 小尾迪幽画伯遺作展」の冊子である。 2011年 05月 29日
【愛宕神社拝殿】 ![]() 甲府市愛宕町の愛宕神社境内に「椎山近藤翁碑」が建立されている。 椎山近藤翁とは、明治12年に開設された山梨県議会の初代議長を務めた南巨摩郡睦合村(現在の南部町)出身の椎山を号とした近藤喜則(天保3年~明治34年)のことであり、「椎山近藤翁碑」には、その事跡が刻まれている。 【愛宕神社境内の竹林】 ![]() 境内の拝殿に向かった右側に神社の神事で使用するために植栽された竹林があるが、その竹林の樹勢に隠れるように「椎山近藤翁碑」は建てられている。 【椎山近藤翁碑】 ![]() 近藤喜則は維新後に区長、区長惣領代理、学区総理を務め県議会開設とともに議員、議長に就任するとともに、峡南地方の特産である三椏栽培の増産を図るための殖産社の設立や病院、私塾の開設を行うなど、山梨県の明治期における大きな事跡を残している。 事跡を讃えるこうした石碑は山梨県内にも少なくないが、この石碑の注目する点は、明治40年10月にその撰文を藤村紫朗が行っていることである。 山梨県内の明治初期における殖産工業に関し、藤村と近藤がそれぞれに関わり両者に接点があったことは明らかであり、当時県令の地位にあった藤村が近藤の功績を讃える撰文を行ったことに違和感はないが、明治20年3月8日に山梨県知事から愛媛県知事に転任した以降、藤村紫朗が山梨県を訪れることはなかったとされているが、この石碑の序幕など、山梨県を訪れることはなかったのだろうか。 なお、藤村紫朗は明治40年当時は郷里の熊本で生活しており、明治42年1月5日に熊本市本荘の自宅で急性肺炎のため亡くなっている。 2011年 05月 15日
【山梨大学教育人間科学部構内の碑】 ![]() 篆額に「重新徽典館碑」と刻まれたこの石碑は、甲府勤番士とその子弟を教育する目的で寛政8年 頃に創設された教育機関である徽典館の重要性から、その育成、発展を図るため幕府の命により、江戸の昌平坂学問所の分校とする組織改編が天保14年1月に実施されるとともに、徽典館の学舎をこれまでの甲府城追手門南から、敷地面積一千有余坪、建坪177坪の学舎を造営し追手門前に新築移転したことを記念し天保14年12月に建立されたものである。 徽典館は追手門前、維新後には山梨師範学校となり甲府錦町と移転していくが、校舎狭隘のために明治43年3月に西山梨郡相川村(現在の場所)に移転した際に学舎とともに移されたものである。 【重新徽典館碑】 ![]() 重新徽典館碑は高さ1.7m、幅1mの石碑である。 石碑表面のひびは、昭和20年7月の甲府空襲で山梨県師範学校が全焼した際の炎によるものである。 【大正13年頃の碑】 ![]() 大正13年6月発行の山梨県師範学校編纂による「創立五十周年記念」誌に所載された、戦前期の重新徽典館碑である。 【重新徽典館碑の銘文】 ![]() 2010年 10月 10日
【明治天皇御登臨之址碑】 ![]() 明治13年3月、明治天皇による山梨、三重の両県及び京都府への御巡幸が決まり、同年6月16日に明治天皇は御巡幸に向け皇居を出発、翌17日に山梨県に入られ、上野原宿(上野原市)の行在所である加藤景明方に着御され、18日、19日は野田尻、鳥沢、猿橋、笹子、勝沼、日川、石和、甲府と巡行され、19日の16:30に甲府の行在所である錦町の師範学校に着御されている。 20日は山梨県庁、静岡裁判所甲府支庁、勧業製糸場に臨幸され、21日は甲府城内の勧業試験場において葡萄酒の醸造を御覧になった後、甲府城の天守台跡に臨幸され、その場所に設けられた御仮屋で暫時御休息されている。 「明治天皇御登臨之址」碑はこうした明治天皇の御登臨を記念し昭和13年3月に建設されたものである。 【山梨県聖跡保存聖徳顕彰会趣意書】 ![]() 全国を御巡幸等された明治天皇ゆかりの地は、聖跡として当時の「史跡名勝天然記念物保存法」に基き、内務大臣又は文部大臣の指定を受けており、山梨県内においても明治13年の御巡幸ゆかりの地である「菅原行在所」「上野原行在所」が昭和8年11月に、「勝沼行在所」「花咲御小休所」「円野御小休所」が昭和10年11月に国の史跡として指定されている。 また、明治13年の明治天皇御巡幸から60年の年が紀元2600年の昭和15年にあたる年でもあることから、昭和12年の山梨県議会において、「明治天皇聖跡を保存顕彰し奉るは山梨県民一致の仰望する所なり、当局は之が保存顕彰に関し聖跡保存会を設立し適切なる方策を以って奉公せられん」との意見書が議決された。 こうした経緯等により山梨県聖跡保存聖徳顕彰会(総裁:山梨県知事、会長:貴族院議員 名取忠愛、副会長 山梨県学務部長)が設立されている。 【同会竜王村副支部長の嘱託状】 ![]() 明治天皇御巡幸ゆかりの地として史跡に指定されていた「菅原行在所」「上野原行在所」「勝沼行在所」「花咲御小休所」「円野御小休所」については、その指定が昭和23年文部省告示第64号により昭和23年6月29日、一斉にその指定が解除されている。 2010年 08月 27日
【笹子隧道紀念碑(正面)】 ![]() 【同碑(背面)】 ![]() 明治29年5月、八王子、甲府間の鉄道建設工事が開始された中で、笹子隧道(4656m)の建設が最大の難工事であったことは言うまでもない。 『中央東線笹子隧道工事報告』(明治37年3月25日:鉄道作業局建設部発行)の緒言に「笹子隧道ハ本邦未曾有ノ長隧道ニシテ其延長3哩ニ及ビ、中央鉄道線中ノ最難工事タルノミナラズ我ガ国工業界ノ大事業ニシテ其成否ハ実ニ日本ニ於ケル学術技芸進歩ノ程度ヲ卜スルニ足ルモノト謂フモ敢テ過言ニ非ザルベシ」と記している。 隧道の完成まで7年を要し、また工事に必要であった材料資材の運搬には頗る困難を要しており、東口工区において必要とするものは、御殿場から籠坂峠を越えて吉田、谷村を経由かるか、八王子から甲州街道により小仏峠を越えていた。西口工区においては、静岡の岩淵から富士川を遡り、鰍沢に陸揚げし、甲府、勝沼を経て現地に運んでいた。 工事の起工以来、竣工に至るまでのの延べ工事人数は200万人、工費は220万円を要していた。 また、工事中に5名の犠牲者と94名の負傷者が発生し犠牲となっている。 こうした大規模かつ難工事の末に完成した笹子隧道について、その成功と工事完成について永く記念するために建設された記念碑は、宮城県石巻産の石材を用い、東京深川の石材師によって完成された、高さ約8m、幅約3mの巨大な板碑であり、明治36年6月11日に除幕式が甲府駅の駅頭で開催されている。 なお、この記念碑については、建設当時、甲府駅の駅前西側に当初建てられていたが、その後旧甲府城内に移築され、平成以降における旧甲府城の整備に伴い、現在は笹子隧道の最寄駅である、中央線笹子駅前に移築されている。 ━笹子隧道 東口(笹子駅側)(左)━ ━(甲斐名所) 日本一隧道中央東線笹子西口(甲斐大和駅側)(右)━ ![]() 【中央東線 笹子隧道工事報告】 ![]() 2009年 11月 29日
【東宮台臨之地碑】 ![]() 「東宮台臨之地」碑は甲府市総合市民会館(甲府市青沼3-5)の駐車場側である北西の一画に建てられている。 この石碑が建つ甲府市総合市民会館の地は、かつて甲府市立商業高校のあった場所であり、この石碑は当時の市立甲府商業学校に皇太子殿下(後の大正天皇)が行啓されたことを記念して建てられたものである。 ━東宮殿下山梨県行啓記念 絵葉書①━ ![]() 明治45年3月27日から4月4日まで、当時の皇太子殿下が陸軍演習御見学の目的を以って山梨県内各地に行啓された。 甲府市内については山梨県庁、県立高等女学校、草薙合資会社製糸工場、市立甲府商業学校、県立甲府中学校、矢島製糸第三工場、歩兵第四十九連隊、山梨県師範学校、武田氏館跡などに行啓されている。 市立甲府商業学校には、3月30日の午後に行啓され校長等に謁を賜い、英語、商業実践等の教授、生徒成績品を台覧され午後2時25分に退出され県立甲府中学校に向かわれている。 また、4月1日には西山梨郡里垣村の誓願寺境内の御野立所に成らせて陸軍の演習を御見学後、市立甲府商業学校内の御野立所に成らせて御昼餐を召され午後2時50分に還啓された。 こうした東宮殿下の行啓を記念し、市立甲府商業学校は「東宮殿下 山梨県行啓記念」として二枚一組のこの絵葉書を発行している。 絵葉書の下に写る建物は御旅館とされた甲府城跡に建つ機山館である。 ━東宮殿下山梨県行啓記念 絵葉書②━ ![]() 絵葉書の右側は市立甲府商業学校の商業実践室、左側は学校校舎の全景である。 2009年 01月 10日
まちに出ると、思わぬ場所に興味ある歴史の遺物が残っています。そうした遺物のひとつに石碑があります。 地域の石造物を市町村などが調査し、そうした成果を『○○○の石造物』として刊行するケースも少なくありません。こうした場合、地域の殆んどの石碑は調査対象として紹介されていますが、知られていない石碑も街には少なくありません。こうした石碑を折に触れて紹介していきます。 【記念碑】 ![]() 「記念碑 為報恩謝徳 大蔵省払下地寄附」写真では見にくいですが、石碑の正面にはこのように刻まれています。 この石碑については、相当以前から気になっていました。 写真のとおり、現在は表通りである新平和通りに背を向けた形になっていますが、周辺の道路が整備される以前は、荒川土手と表通りに面した住宅の間の狭い道路に、三方を住宅に囲まれてひっそりと建っていたことから、その状況と石碑の正面に刻まれた「大蔵省払下地寄附」の文字との相関性がとても疑問でした。 石碑を確認したところ、石碑の裏面には次の文字が刻まれていました。 「昭和8年6月6日 三吉町一番地之内一 土地281坪 碑石及工事費共 自 鈴木音兵衛氏 光沢寺」 石碑に刻まれた文字の内容を解析するまでもありませんが「昭和8年に大蔵省から払下を受けた、この石碑附近の甲府市三吉町一番地の土地281坪と、この石碑と工費を鈴木氏が光沢寺に寄附した」ことの記念碑ということでしょうか。 石碑に氏名が刻まれている鈴木音兵衛は、文久3年9月17日に生まれ、明治32年に政太郎から先代の音兵衛を襲名した、資産家としても知られた松林軒の経営者です。また、光沢寺は甲府市相生3-5-8にある東本願寺の甲府別院です。 【記念碑附近の甲府市街図】 ![]() 鈴木氏が寄附した三吉町一番地(石碑が建つ現在の甲府市相生3-6-22附近)は、どうして大蔵省が所管する地域だったのでしょうか。 (あくまで想定の域ですが。) この場所は荒川土手のすぐ下に位置し、三ツ水門がすぐ近くにあります。三ツ水門は、荒川の水門ですが、大正2年に甲府市に近代水道が敷設されるまでは、この水門からの用水を三吉町、緑町、太田町方面で飲料水とし、他の流れは田畑の用水として利用されていました。 左の甲府市街図(明治42年3月15日:山梨図書出版協会発行)のとおり、赤い丸印が石碑の建つ附近であり、荒川から用水が分かれる地点が三ツ水門です。こうしたいくつかの用水がこの地域に見られることから、河川やその附近は公有地が多くを占めていたのでしょうか。 同じ場所を大正後期の甲府市街図で確認すると、三ツ水門から分かれる用水は左図ほどの流れが無いことから、役割を終えた用水跡の公有地が払下の対象となったのではないでしょうか。 < 前のページ次のページ >
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