カテゴリ:樋口一葉( 4 )


2015年 11月 21日

「たけくらべ」発表120年記念の一葉祭


【平成27年 一葉祭のチラシ】
f0191673_17422463.jpg【樋口一葉「たけくらべ」の世界展 チラシ】
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 明治28年1月30日発行の「文学界」第25号に「たけくらべ」が掲載(以降、一年間にわたり断続的に掲載され、明治29年1月30日発行の「文学界」第37号を以て完結)されて、今年は120年の年にあたという。
 このため、台東区立一葉記念館では「「たけくらべ」発表120年記念特別展」として「樋口一葉「たけくらべ」の世界」展が平成27年10月1日から12月24日まで開催されている。
 また、恒例の一葉祭も、今年は「たけくらべ」発表120年記念として、11月21日から11月23日まで一葉記念館を会場に行われている。
 「一葉祭」初日の今日は「文化ボランティアガイドと行く「たけくらべ」ゆかりの地めぐり」が開催されるとのことから、事前に申し込みを行ったところ、運よく参加できることとなり10時30分出発の午前の部に参加し、一葉記念館周辺の「たけくらべ」ゆかりの地を巡ることができた。

 本日のコースは、下谷龍泉寺町の一葉旧居跡、飛不動、松大黒寮、見返り柳、吉原神社、大鳥神社、大音寺、千束稲荷神社である。
 今回巡った場所と「たけくらべ」や樋口一葉との関連事項などについては、引き続きこうした形で掲載していきたいと考えている。




【台東区立一葉記念館と一葉祭の横断幕】
f0191673_17565389.jpg 台東区立一葉記念館は、昭和36年5月11日に開館した女流文学者単独の記念館としては、国内第一号の記念記念館である。
 また、一葉記念館開館前の昭和23年には、一葉文学を顕彰しその功績を永く後世に遺していくとの趣旨から、地元の人々の熱意により「一葉協賛会」が結成され、記念館建設のための敷地が台東区に寄付されたことから、その熱意と努力に台東区が応える形で一葉記念館が開設されたという。
 なお、現在の一葉記念館は平成18年11月に建て替えられている。














【一葉記念公園内の「たけくらべ」記念碑】
f0191673_17573462.jpg 一葉記念館の前に位置する一葉記念公園内の一画には昭和26年11月に「一葉公園協賛会」により、「たけくらべ」を記念して建てられた、歌人の佐々木信綱の書によるものである。
 




















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by kaz794889 | 2015-11-21 22:50 | 樋口一葉 | Comments(0)
2011年 10月 16日

樋口一葉と若尾逸平

 明治24年11月に発表された樋口一葉の随筆「森のした艸」の中で一葉は若尾逸平に言及している。

【樋口一葉の随筆『森のした艸』の一節 春陽堂文庫「文範と随筆 樋口一葉全集第三巻」・昭和9年6月15日発行より】
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【概訳】
『若尾が甲州から商売のため江戸に出立した斉に、八王子近辺の宿屋に泊まった際、夜中に隣室の二人ずれが話す甲州という言葉が耳に入り「最近、横浜沖に数多く貿易のために訪れる外国船は水晶を特に高価で求めている」旨の会話を聞くと、いち早く甲州に戻り、大量の水晶屑を廉価で求め、横浜で外国商人に高価で売りさばき、それを基に更なる富を得て、明治23年の国会開設時には多額納税者として貴族院議員に互選された。甲州から志しを抱いて江戸に出立したのは若尾が30歳余の時期であったらしい。』

【若尾逸平】
f0191673_13581146.jpg若尾逸平は文政3年12月6日に巨摩郡在家塚村(現在:南アルプス市)に生まれ、天秤棒一本で甲州と江戸、横浜の間を品物を担いで往復して利益を得、横浜開港期には貿易の一角に入り生糸、水晶等を甲州から運び外国商人に売り、また、明治維新の混乱期ら変動の激しい相場を利用し富を増大させ、いわゆる甲州財閥の巨頭の一人となり、後に山梨県内第一の富豪といわれるようになっている。




【若尾逸平の墓(甲府市・長禅寺)】
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 大正2年9月7日、若尾は94歳の天寿を全うした。若尾の死後に刊行された『若尾逸平傳』(大正3年刊・内藤文治良編著)には「万延元年12月26日のこと幾造(若尾逸平の弟)は生糸の売り込みに出かけたところ、そこの商館で何か光る石片を二三人の商人から買い取るのをみて、幾造はよそながら、注意深くみると、それは水晶のくずであった。幾造は黙ってみていたがその値段の高いのに心ひそかにはっとして驚いた。幾造はそのまま売り込みのため八王子に来ていた兄(若尾逸平)のもとに走り、その日の内に兄弟は甲州に帰って御嶽村に急いだ。この頃、御嶽村では黒平で採取した水晶の原石を数戸の細工人が玉や印材等に細工をしていた。逸平兄弟はこの細工品を採った用途のない水晶の屑を殆どただのような値段で買い取り、これを麻袋に入れて天秤棒が肩にめり込むほど担いで甲府に戻り、幾造が横浜を出発し、わずか中一日おいて28日の晩には再び横浜に着き、その足で逸平兄弟は水晶屑を買い入れていた異人館を尋ね、百斤について8~9ドル程の価格で売りさばいた。意外なほどの利益を得たため次から次に甲州から水晶屑を運び、その年の暮れから翌年の正月にかけた十数日の間に1500円の利益を得、このことを称して逸平兄弟は水晶大尽と呼ばれた。」といった内容が記されている。


 更にこの逸話にも伏線があり、『山梨の百年』(昭和43年、NHKサービスセンター甲府支所刊)には「若尾逸平傳を見ると横浜貿易で一旗あげようとしていた逸平が、旅籠屋の隣座敷の客が外人が水晶をいたく好むのをみて、これから買出しに行くのだというひそひそ話しを立ち聞きして、自分が先回りして飛びかえり、甲州の水晶を全部買い占めて巨利を得たというふうに書かれている。ところが、この話の裏話が実は篠原家(甲州屋篠原忠右衛門家)に伝わっている。逸平が立ち聞きしたのは甲州屋で、立ち聞きされたのは忠右衛門と次男の直太郎で、帳場でたまたま甲州産水晶を買ってきて外人に売ったなら儲かるだろうと投機的な話をしていたのを聴かれてしまったのだという。その当時逸平は、甲州屋へ委託荷を天秤棒でせっせと運んでいたのである。」


 「森のした艸」の逸話は、作者である樋口一葉が当時の社会に広く伝わっていた話題から聞き及んだものなのか、両親が甲州生まれであったことから甲州における地域の話題として耳にした逸話であったのだろうか、若尾の死後に発刊された前述の伝記である『若尾逸平傳』に同様の逸話が記されている事実を踏まえると、樋口一葉が生前に両親の故郷でもある甲州の地を踏んだことがあるのではといったことにも関係する事項であり、樋口一葉が若尾の逸話をどのようにしてしることとなったのかが非常に興味のあるところである。




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by kaz794889 | 2011-10-16 14:08 | 樋口一葉 | Comments(0)
2010年 05月 08日

樋口一葉展

【樋口一葉展目録】
f0191673_1684051.jpg 樋口一葉の両親は共に山梨郡中萩原村(現在の甲州市)の出身であり、山梨を描写した作品があることなどから、古くから樋口一葉は山梨ゆかりの作家とされている。
 昭和30年11月20日から26日を開催期間とした「樋口一葉展」が山梨県立図書館(今年取り壊された県庁構内に旧県立図書館)で開催された際の展示目録である。
 B6判13ページの小冊子ではあるが、第8回読書週間記念行事として開催されたものであり、11月20日(土)には一葉研究者である和田芳恵を講師とした講演会も県議会議事堂において行われている。




【「樋口一葉の世界」観覧券】
f0191673_16202239.jpg 平成元年11月3日の山梨県立文学館開館後、一人の文学者に焦点をあてた最初の企画展が「樋口一葉の世界」(開催期間:平成2年10月13日~11月18日)である。
 同館発行の樋口一葉の世界展図録において「本企画のように一葉に関する貴重な資料が150点余も展示される機会は今後も滅多にないと思われます」と記されており、企画展開催の意義と企画関係者の自負が示されている。
 その後山梨県立文学館においては、山梨県ゆかりの作家である樋口一葉に係る企画展が平成16年の夏と秋、平成21年の秋と、3回の企画展が開催されている。




【「樋口一葉の世界」案内チラシ】
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by kaz794889 | 2010-05-08 17:13 | 樋口一葉 | Comments(0)
2009年 11月 14日

樋口一葉の『ゆく雲』と甲州の風景

【開館二十周年記念企画展 樋口一葉と甲州】
f0191673_16115268.jpg 開館二十周年記念の企画展として、平成21年9月19日から同年11月23日までの間、山梨県立文学館において、「樋口一葉と甲州」が開催されている。
 樋口一葉の父親である則義と、母親の多喜は甲斐国山梨郡中萩原村(現在の甲州市塩山)の農家に生まれており、樋口一葉自身の生活は東京であったものの、山梨県の親族や知人との関わりが深く、原点の一部には甲州の血や気質が脈々と流れていたと考えられのではないだろうか。
 こうしたことから、山梨県立文学館においては、平成2年に「樋口一葉の世界」、平成16年には春期、秋期の二回に渡り「樋口一葉展Ⅰ われは女なりけるものを」「樋口一葉展Ⅱ 生き続ける女性作家」が開催されるなど、樋口一葉については山梨県ゆかりの作家として重要な位置付けとして認識されている。
 山梨県ゆかりの作家である樋口一葉の作品の中で、両親の故郷である甲州の風景が重要な役割を果しているのが、『ゆく雲』である。
 『ゆく雲』は博文館発行の雑誌である「太陽」の第一巻第五号(明治28年5月5日発行)に初出された、22歳の青年が東京での恋心をおさえ、大藤村へ帰郷する物語であり、その冒頭に描かれた甲州各地の風景について、紹介することとしたい。


【「ゆく雲」冒頭】
酒折の宮、山梨の丘、塩山、裂石、さし手の名も都人の耳に聞きなれぬは、小仏ささ子の難処を越して猿橋のながれに眩めき、鶴瀬、駒飼見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京にての場末ぞかし。甲府は流石に大廈高楼、躑躅が崎の城跡など見る処のありとは言へど、汽車の便りよき頃らならば知らず、こと更の馬車腕車に一昼夜をゆられて、いざ恵林寺の桜見にといふ人きはあるまじ』
 上記のとおり「ゆく雲」の冒頭に描かれた甲州各地の風景写真と、作品が初出された時期におけるその風景に対する一般的な認識について、当時の観光案内である『日本名勝地誌 第三篇』(野崎左文著:明治27年5月7日、博文館発行)から紹介する。

【甲斐酒折宮】
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「甲州街道の里垣村字酒折に在り、此地は日本武尊行宮の古跡にして古へ九條の道路は皆茲より起れり、本社は即ち尊の霊を祀り社殿は丘陵の上に鎮して一條の石塔之に通じ丘上には雑樹森々として繁茂し景趣幽邃一見して其の旧社たるを知るべし、本社は元と今の地より四五町北の山間に在り今も石祠の跡を存し里人称して古天神と云ふ」

【差出之磯】
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「秩父街道に衝り笛吹川の西岸八幡村字八幡南組にあり、丘岡直ちに河岸より壁立し岡は岩石より成り松樹頂きにてんてつして其形ち蒼海に枕める一岬角の如し、丘頭に亀甲橋あり、長さ62間、幅3間、丘上丘下割烹店、茶亭多く就中、甲背楼最も名高く紳士豪商の甲府より来りて宴を張る者陸続絶えず、近時其地に桜花数十株を栽え又夏季は無数の蛍を生ず」

【(日本三奇橋之一)甲斐猿橋】
f0191673_16182730.jpg「大原村字猿橋に在り、桂川の流れ此地に来たりて幅最も狭く両岸相迫りて断崖壁立、水勢最も急にして観望亦雄偉なり、橋は長さ17間、幅3間にして橋下に一柱の支ふるものなく橋礎は先づ両崖に各々挿さみ層々
相畳みて前部に突出せしめ両端の接近するに及んで上面にいたを敷きて人馬を渡す、伝えて飛騨の匠の造る所なりと云い、数百年前にして此の奇行ありして其の構造自ずから泰西の建築法に適うと云う亦奇ならずや、橋上より俯瞰すれば水は数尋の却下に在りて両岸は皆岩より成り雑樹其の上をてんてつして見て以って人の気迫を動かしむ、或いは之を東京の御茶ノ水に比する者あれども景の壮絶なるに至っては彼の及ぶ所にあらず」



【舞鶴城公園ヨリ甲府市ヲ望ム】
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「西山梨郡の西南部に位し西は荒川を隔てて中巨摩郡に界し東西32町、南北1里6町、山梨県庁の所在地にして市坊64、戸数6889、人口32676、街区端正にして百貨一たび此地に集りて後ち国内に分散するを以って商業殊に繁盛を極め国産の生糸、繭等の問屋を持って業とする者亦頗る多し、其の官がの重なるものを挙ぐれば県庁、地方裁判所、尋常師範学校、県立病院、警察本部は共に錦町に在り、市役所は柳町に在り、〒電信曲は常盤町に在り、監獄署は橘町に在り、勧業試験所は旧城内にあり、柳町、八日町は商店のきを連ね市街最も殷賑を極め之につぐものを桜町、魚町、三日町等とす」

【(甲斐名勝)躑躅岡ノ景】
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「相川村古府中に在りて今猶ほ城壕の跡を存す、此地を元と躑躅ヶ崎と称し永正6年信虎之を築きて石和館より移り伝えて晴信に至る、天正9年勝頼荒田ににら裂くにしろを構えて之に移り時、人称して新城と云へり、勝頼亡びて後ち二城共に荒廃に帰し只だ野草の悉しいままに繁茂するのみ、亦今昔の感に堪えず」

【甲斐八景 恵林寺】
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「乾徳山と号し秩父道の松里村字小屋敷にあり、元徳2年二階堂入道当寺を創建して夢想国師を開山す、後ち永徳元年武田晴信(機山)寺領300貫を附して壽蔵所として改めて臨済宗古規開山派とす、天正10年近江の佐々木承禎等当寺に潜伏し織田信長怒って之を追い終に火を放ちて堂宇を焼く、後世徳川家康寺を復興せしめしも其規模古へのものに比すれば其の半ばにも及ばずと云う、山門あり形ち日光の皇嘉門の如く俗に竜宮門といふものに似たり、門を入れば本堂あり構造頗る壮麗にして釈迦の像を安す、其西客殿の後に至れば武田晴信の祠あり」

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by kaz794889 | 2009-11-14 21:22 | 樋口一葉 | Comments(1)