カテゴリ:花子とアンとその時代( 6 )


2014年 09月 27日

村岡花子の「昇仙峡と葡萄」

【『甲斐路の素描』】
f0191673_10524024.jpg 昭和31年5月に山梨県観光連盟が発行した『甲斐路の素描』は、山梨県に縁故を持つ中央の地名人から、甲斐路を訪れた際の有りのままの印象を書いてもらい、それを綴った書物である。

 村岡花子は「昇仙峡と葡萄」と題した小文を寄せており、その最後に「昇仙峡と甲州の葡萄には私の青春への哀歓がこもっている。」と記している 

 
 NHKの連続テレビ小説『花子とアン』も本日が最終回である、いわゆる「朝の連ドラ」放映をきっかけとし、花子とアンとその関連事項を観光資源とする、今後の山梨県内の観光に期待していきたい。




















【甲府英和女学校】
f0191673_10524771.jpg 「甲府に山梨栄和学院という学校がある。三十年以上にもなろうという昔、私があの学校へ若い英語の先生として赴任した頃は、校名も山梨英和女学校であった。」、「女教師たちが一泊旅行した時で、西洋人の女教師も二人加わっていた。その時の人たちも西洋人は既に本国のカナダへ帰っており、日本人たちはみんなそれぞれに一家の主婦となっている。」

 甲府で生まれ育ち、五歳の時に一家で上京した村岡花子は、東洋英和女学校高等科を卒業後、大正3年4月から同8年3月まで、東洋英和女学校と同じカナダのメソジスト教会婦人伝道界会の協力を得て、甲府教会の信者たちにより設立されたミッションスクールである、山梨英和女学校の教師を務めている。





【御嶽昇仙峡 覚円峰】
f0191673_10522865.jpg 「昇仙峡へは、一昨年の五月だったが、久しぶりで行って、昔と様子の変わったのに驚いた。」、「あの学校にいた頃、昇仙峡へ遠足に行ったのをよく憶えており、その記憶をたどって、この春行ってみたので、あの一帯がすっかり便利になっているのに驚いたわけである。」

 御嶽昇仙峡は昭和28年3月31日に国の特別名勝に指定され、同年の毎日新聞社主催全国名勝地百選で渓谷の部第一位に入選するなど、言わずと知れた景勝地である。
 














【祝村葡萄園】
f0191673_11075488.jpg 「女教師たちの一人が勝沼の葡萄園の娘さんであったので、私たちは秋になると、この人の家に招かれて葡萄のごちそうになった。」、「私は勝沼の葡萄園の娘であるその友だちから、あんまり葡萄栽培にからまる苦労を聞いたためか、甲州葡萄の美しい一房を手にとるたびに「ああ、よくもこんなに房房と育ってくれた」と賞めたくなるような気持がする。」














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by kaz794889 | 2014-09-27 12:13 | 花子とアンとその時代 | Comments(0)
2014年 05月 31日

「花子とアンとその時代」 5

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【「第5週 波乱の大文学会」から】
  甲府では、吉太郎が朝市に、新たに芽生えた夢を打ち明けていた。兵隊になりたいという夢だ。東京の女学校に通うはなや、家に送金するために工場で働くかよに先を越され、長男として忸怩たるものを抱えていた吉太郎は、軍隊に入れば周造やふじに楽をさせてやれると意気込む。それを聞いた朝市は複雑な思いだった。実は、朝市の父親も兵隊だったが、朝市が小さい頃、日清戦争で命を落としていたからだ。



【日清戦役献納に係る褒状】
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 明治27年8月1日の清国への宣戦布告による日清戦争開戦から、今年は120年を迎える。
 甲府市役所から昭和3年10月15日に発行された『甲府市制四十年記念誌』によると、「明治二十七年韓山の風雲漸く険悪を告ぐるや、市内在籍予備役、後備役の兵員に対し応召準備を注意すると共に予餞会を挙行し応召準備を為さしむ」と日清開戦による甲府市内の状況と、甲府市出身者の日清戦争による論功行賞者は72名、戦病死者は2名であったことが記されている。


 
【「征清役従軍死者忠魂碑」】
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  武田神社境内西曲輪に建立されている「征清役従軍死者忠魂碑」である。
  石碑正面には山梨県出身の日清戦争従軍戦病死者143名の氏名が刻まれている。




【「征清役従軍死者忠魂碑」の裏面】
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by kaz794889 | 2014-05-31 17:06 | 花子とアンとその時代 | Comments(0)
2014年 05月 10日

「花子とアン」とその時代 4

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【「第4週 嵐を呼ぶ編入生」から】
  その頃、甲府では、朝市が一つの決断を母親のリンに打ち明けていた。「師範学校を受けて、教師になる」
  東京で勉学にいそしむはなに触発され、朝市は本を読むため、教会に通い続けていた。



【山梨県師範学校の二代目校舎】
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  朝市が母親に打ち明けた場面が、歩兵第49連隊が甲府を衛戍地として甲府に入った明治42年4月以前であるドラマのストーリーからすると、当時の師範学校は山梨県師範学校であり、その場所は甲府市錦町(現在の甲府市中央1丁目11の中央公園の位置)であった。
  写真は明治17年9月に竣工し明治43年3月まで使用されていた山梨県師範学校の2代目校舎である。



【山梨県師範学校の初代校舎】
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  明治9年7月に新築された山梨県師範学校の初代校舎である。
  この校舎は明治13年6月の明治天皇山梨御巡幸の際には行在所とされた由緒ある校舎であったが、明治16年1月29日に校舎本館からの失火により本館と左右の附属建物二棟が焼失している。


【徽典館跡碑】
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  明治8年に山梨県師範学校と改称された同校は、江戸寛政年間に創設された甲府勤番子弟の教育施設である甲府学問所、後の文化2年に命名された徽典館(キテンカン)を嚆矢としており、甲府城追手門の南側から、徽典館跡碑の建つこの場所に明治9年の初代校舎落成とともに移転している。
  「徽典館跡碑」はかつて山梨県師範学校のあった中央公園内に、学制百年を記念して昭和48年3月に建碑された記念碑である。
 


【明治末期の甲府市街図】
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  山梨県師範学校は校舎狭隘のため、西山梨郡相川村昌永(現在の甲府市武田4丁目)に移転することとなり、明治43年3月に新築移転している。
  左記市街図の青色で囲んだ部分が明治43年に新築指定した山梨県師範学校の位置である。
  また、赤色で囲んだ部分が移転前の山梨県師範学校の位置である。

  山梨県師範学校は昭和24年5月の新制大学設置に伴い、山梨大学学芸学部となり、昭和41年に教育学部、平成10年には教育人間科学部と改称し現在に至っている。
  なお、青色で囲んだ新築移転後の山梨県師範学校の位置は、現在山梨大学教育人間科学部となっている。





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by kaz794889 | 2014-05-10 17:45 | 花子とアンとその時代 | Comments(0)
2014年 05月 05日

「花子とアン」とその時代 3

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【「第1週 花子と呼んでくりょう!」から】
 その頃、吉平は教会に通っていた。はなに洗礼を受けさせ、東京の女学校に入学させようと考えていたのだ。・・・・・・一方、大人たちの思いを知らないはなは、吉平に連れていかれた教会で、たくさんの本が並ぶ図書室を見て大興奮する。




【明治後期の甲府市街】
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 村岡花子の父親である安中逸平は静岡県で茶商を営んでいたが甲府に移り住み、てつと結婚している。
 キリスト教のカナダ・メソジスト派の信者であった逸平は、花子が2歳の時に同派を系譜とする甲府教会の8代目牧師であった小林光泰から幼児洗礼を受けている。
  ドラマに出てくる「阿母里基督教会」は韮崎市民俗資料館に移築されている韮崎出身の実業家小野金六の生家である韮崎宿の豪商小野家の蔵屋敷を使用しているが、村岡花子が洗礼を受けた明治28年頃の甲府教会は甲府市桜町60番地にあり、約70坪の敷地内に明治24年5月に建てられた約42坪の土蔵造り平屋建ての会堂であり、新会堂建設工事のために取り壊された大正4年まで使用されていた。




【明治後期の甲府市街図】
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  甲府教会のあった甲府市桜町60番地は赤マル印の位置である。
  また、上記の写真に写る「進徳幼稚園」は
  赤マル印の左側の幼稚園は、上記の写真に写る「進徳幼稚園」であり、現在その位置は「甲府市社会教育センター」となっている。




【現在の日本基督教団甲府教会跡】
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  甲府教会のあった甲府市桜町60番地の現在の状況である。



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by kaz794889 | 2014-05-05 15:47 | 花子とアンとその時代 | Comments(0)
2014年 04月 29日

「花子とアン」とその時代 2

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【「第3週 初恋パルピテーション」から】
  翌朝、はなが川で水汲みをしていると、朝市も水を汲みにやってきた。はなは、兄妹たちが自分との間に壁を築いているような気がすると、つい本音を漏らす。朝市は何か言いたそうだ。
  「・・・はなにゃあ黙ってろ、口止めされたけんど・・・」年明け早々に、かよが製糸工場へ女工として働きに行くことになっているのだと、朝市は明かした。




【工女募集従業者之証 表面(右)・裏面(左)】
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  ドラマの時代背景である明治後期の甲府は、近代的な工場の勃興や水晶研磨工業が伸びていたものの、製糸は甲府の主要な工業であり、そこで働く工女は重要な担い手であった。
  明治40年前後、甲府市内には器械製糸工場が10数工場、座繰工場が70工場操業していたというが、明治42年には工場数が減少するなど、明治30年代から山梨県内の製糸工場は興亡を繰り返していた。
  こうした山梨県内の製糸業にとっての大きな打撃は、製糸女工の県外流失であり、明治36年の中央本線開通は県外への出稼女工の数を飛躍的に増加させた。
  明治44年当時、長野県諏訪地方を始めとした他府県から出願され山梨県庁の許可を得た女工募集数は12,000名達しており、その数は山梨県内で操業していた製糸女工数(明治44年現在、13,862名)に匹敵する女工が県外に流失していた。
  山梨県は、県外からの女工募集を取り締まる目的で「職工募集届出規程」等を制定し、契約内容の届け出を義務づけるまでしたが、製糸女工の県外流失は衰えなかったという。
  写真は大正7年に甲府警察署が発行した「工女募集従事者之証」である。
  山梨県内全域を募集区域とし、市内横沢町の民家に募集事務所を設けていた、長野県諏訪郡川岸村(現在の岡谷市)の製糸工場によるものである。


【製糸商標】
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  製糸工場(製糸生産者)は意匠をこらした商標(シルクラベル)を作成し、製糸荷につけて出荷していた。
  写真は「甲西社器械製糸」の製糸商標である。  



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by kaz794889 | 2014-04-29 14:42 | 花子とアンとその時代 | Comments(0)
2014年 04月 27日

「花子とアン」とその時代

【NHK 連続テレビ小説 『花子とアン』】
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  赤毛のアンの翻訳者である村岡花子の波乱万丈の半世紀として、NHK連続テレビ小説『花子とアン』が放送(平成26年3月31日~9月27日)されている。
  主人公である村岡花子は明治26年6月に父・安中逸平、母・てつの長女(8人兄弟)として甲府市に生まれ、2歳の時に日本基督教団甲府教会で幼児洗礼を受け、明治31年、5歳の時に一家は東京南品川に転居している。その後、東洋英和女学校高等科を卒業した花子は、甲府の山梨英和女学校の英語教師とし大正3年4月に着任し、退職した大正8年3月まで甲府で生活している山梨県ゆかりの文学者である。
  主人公である村岡花子が山梨県にゆかりがあるため、『花子とアン』には山梨を舞台とする場面が少なくない。もちろん、テレビドラマとしてその内容には、フィクションと事実をが織り交ぜられている。
  ドラマに出てくる山梨について、その内容と時代の状況を見ていきたい。




【歩兵第四十九連隊 行軍 桜町】
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 第4週「嵐を呼ぶ編入生」が放送された週、4月26日の放送最終場面は、歩兵第49連隊が甲府入りし、徳丸と武の親子がこれで景気がよくなると気勢を上げている。
 
 歩兵第49連隊が甲府を衛戍地に定め、甲府に到着したのは明治42年4月22日である。
 明治38年4月に歩兵第49連隊が東京で編成され、その後日露戦争に伴う樺太進撃、3年間に渡る韓国警備を終え、同連隊は明治41年11月に内地に帰還し習志野の仮兵舎に入っている。
 その後、山梨県内において連隊誘致運動が進められることとなった。
 連隊誘致により兵営が甲府に設置されることとなれば、3000人の人員を擁する連隊が常駐することとなり、兵隊に対する物資の供給や、兵隊が甲府市内で消費することなどが、連隊誘致に向けた最大の理由である。 

  写真の絵葉書は歩兵第49連隊が桜町通りを北から南に向けて行軍する様子であり、歩兵第49連隊入峡記念のスタンプが押されている。




【明治42年3月の甲府市街図】
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  明治42年3月15日発行の甲府市街図である。歩兵第49連隊が甲府に設営される以前の発行によるものであるが、赤線で囲まれているとおり、既に歩兵第49連隊の位置と名称が記されている。





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by kaz794889 | 2014-04-27 01:55 | 花子とアンとその時代 | Comments(0)