峡陽文庫

kaz794889.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

カテゴリ:甲府細見( 4 )


2014年 05月 17日

甲府市南口町界隈

【昭和30年代の南甲府駅付近の市街図】
f0191673_18263782.jpg
  甲府市南口町はJR身延線南甲府駅の北側に位置する町であり、昭和41年に施行された住居表示整備に伴う町名であり、東一条通、東二条通、東三条通、東四条通、東五条通、東六条通、北大路の各町と伊勢町、住吉本町の一部を対象として改称している。

  昭和3年に身延線の前身である富士身延鉄道が甲府駅まで全通し南甲府駅(開業時は「甲府南口駅」)が開業した後の昭和8年6月、甲府市は用地別地帯計画として甲府市内に住宅地帯、工業地帯、商業地帯を内定しており、その際に甲府市南部の甲府南口駅を中心とする一帯より伊勢町、里垣方面に及ぶ地帯が工業地帯として内定している。
  工業地帯を定めるにあたっての必要条件としては、生産能率の増進を第一に、その位置は地勢、気象、交通運輸の状況、土地開発の動向などを勘案したという。昭和9年2月には、具体的な町名として現在は南口町となっている東五条、東六条各町の全域及び東三条、東四条各町の一部も工業地帯の対象指定町の一つとなっている。
 最終的には住宅、商業、工業の三地帯の指定は未決定となったが、工業地帯指定の必要条件を同地域は満たしていることもあり、現在の南口町地域は工場や倉庫が多く立地する地帯となっていったのである。

 ※ 上記市街図の①から④は次の写真の標題の①から④にリンクしており、地図上の数字の傍らに表示さ  れた傍線の方向を撮影したことを表している。


【南口町界隈 ①】
f0191673_18275981.jpg
  市街図のとおり、南甲府駅を中心とした東四条、東五条といった地域にはかつて多くの倉庫が建てられていたが、国鉄の分割民営後以降から倉庫は取り壊され、その跡地には新たな建物が建てられたり空き地とっている。
  駅前の日本通運(正式には甲府通運株式会社南甲府営業所)、秩父セメント倉庫から鈴与貯炭場の間も倉庫が林立していたが、現在は二社の異なる葬祭センターとなっている。
  
  写真の位置はかつて甲府倉庫の倉庫が建てられており、写真左側の身延線の線路沿いにも線路側に入口を設けた倉庫が建てられていた。




【南口町界隈 ②】
f0191673_1828329.jpg
  この界隈の倉庫は現在、全て取り壊されており倉庫が林立していた面影は殆ど失われているが、旧東五条通りから旧東四条通りに通じる旧東五条通りの少し奥まった位置に、旧鈴与倉庫(現在は他社の倉庫)であった倉庫が一棟のみ、この通り界隈における唯一の名残りとして今も倉庫として残されている。




【南口町界隈 ③】
f0191673_182983.jpg
  道筋はかってと変わりなく残っており、僅かな町の面影は感じることができるが、当時の建物は全てなくなっている。




【南口町界隈 ④】
f0191673_18293894.jpg
  旧北大路の通りに面した北側の南口運輸倉庫は、当時から営業している会社であるが、写真右側に写る市道が拡幅されたため、以前よりは敷地が縮小されたものの、この敷地内にも倉庫の一部(写真の奥)が現在も残されている。




にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。


by kaz794889 | 2014-05-17 19:52 | 甲府細見 | Comments(0)
2013年 07月 28日

甲府 仲見世

【昭和16年頃の甲府仲見世附近の地図】
f0191673_953927.jpg
  甲府市柳町の十一屋野口酒造店が大正13年に甲府市横沢町に移転し、大正13年10月17日にその跡地に開業したのが、三日町見附の甲府仲見世(地図の黄色で囲んだ概ねの場所)である。
  「甲府銀ぶら三日町見附ヨ ネオンサインは恋の色」と、西條八十作詞、中山晋平作曲の甲府夜曲にあるように、柳町通りと甲府銀座の東側入口付近を中心とした当時の三日町見附は甲府市街の中心地の一つであった。
  当時の仲見世は、映画館である中央館を中心として、東側(柳町通り)、西側(桜町通り)、南側(甲府銀座)の三方向に入口が設けられていた。
  昭和16年頃の地図ではあるが、そこに記されているとおり、衣料品、文具、玩具などの生活用品を中心とした商店街であり、飲食店街となっている現在の仲見世とはその趣が異なっている。  




【甲府・中央館】
f0191673_9241690.jpg
  中央館は仲見世の中心として、大正14年8月1日に柳町16番地に開館した。
  その後、昭和4年8月に火災により全焼し、昭和5年1月に再建している。
  写真は再建後の中央館である。



【(甲府名所) 仲見世】
f0191673_9193457.jpg
  甲府銀座に面した南側入口(上記地図の緑色矢印の方向)から見た、昭和10年代の甲府仲見世である。
  中央の建物が中央館、右側の店舗がスギヤ洋品店である。



【甲府 仲見せ スギヤ洋品店の包装紙】
f0191673_925661.jpg
 前記の写真に写る、スギヤ洋品店の包装紙である。




【現在の仲見世 ①】
f0191673_9121225.jpg
  上記の地図に記した緑色矢印方向の現在である。
  仲見世を含む三日町見附周辺は甲府空襲で焼失しており、仲見世は戦後復興したものの、戦前期の区画とは異なっている。
  中央館に替わり、昭和29年3月には柳町通りに面し(甲府ワシントンプラザホテルの位置)、甲府武蔵野館が開館したが、現在は閉館している。
 



【現在の仲見世 ②】
f0191673_912581.jpg



【現在の仲見世 ③】
f0191673_9132519.jpg
  現在は飲食店街となっている仲見世の中心から眺めた、桜町通り(西側入口)側の入口。




にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。

by kaz794889 | 2013-07-28 10:30 | 甲府細見 | Comments(0)
2008年 12月 23日

若尾公園と銅像

 いわゆる甲州財閥の巨頭である若尾逸平については、既に広く知られているところです。
 文政3年12月6日に山梨県巨摩郡在家塚村(旧白根町)に生まれ、大正2年9月7日に没するまでの93年間の生涯でした。

━奮闘の勝利者 若尾逸平翁の銅像(甲府市愛宕山に在り)━
f0191673_15495575.jpg

f0191673_15502870.jpg

 明治40年、若尾逸平の米寿を記念し東京電燈社長 佐竹作太郎をはじめとした人々により、甲府市愛宕山中腹の若尾家の土地に、河村嘉祥の作により、漆原新七が鋳造した若尾逸平の銅像が建設されました。
 銅像の台座には、重野安繹の撰文が日下部鳴鶴の筆により刻まれていたようです。

━(甲府名所)若尾公園より見たる甲府市全景━
f0191673_15504274.jpg

 大正10年、若尾逸平像が建てられた長禅寺裏山から甲府市水道配水場にかけて、若尾家により若尾公園が建設されました。
 桜の名所として市民に知られていましたが、戦後、廃園となりました。
 廃園後の旧若尾公園跡地は、甲府空襲による校舎焼失により、終戦後建設された復旧木造建築校舎の近代化構想の一環として、山梨英和学院が昭和30年12月に買収し、昭和37年の夏にプール、体育館が完成し、その後39年11月には英和短期大学の建設が開始されるなどしたため、公園の痕跡は現在全く残っていないようです。

━佐竹作太郎翁銅像━
f0191673_1551070.jpg

 佐竹作太郎は京都に生まれ、幕末期に勤王の士であった藤村紫朗と巡り会い、藤村が山梨県権令として赴任した明治6年に随伴して甲府に来住し、明治15年から大正4年に没するまでの33年間、第十銀行の第二代頭取を歴任したほか、東京電燈社長や衆議院議員を務め、大正13年5月には、若尾公園内に「佐竹作太郎君像」と台座に刻まれた銅像が建設されました。

【若尾、佐竹像のその後】 
 若尾公園内に建設された、若尾、佐竹の銅像は、昭和18年3月10日、金属供出により献納されています。
 なお、山梨市の万力公園内にあった、根津嘉一郎の銅像(現在の銅像は、戦後に再建された二代目の銅像です。)も、この日に献納されています。


━若尾逸平の墓所━
f0191673_15513840.jpg
f0191673_15515473.jpg

 甲府市長禅寺の若尾家の広大な墓所です。若尾公園にあった若尾逸平像は、この墓所を背後から見守る形で建てられていました。
 幕末維新期に生糸貿易を主軸とした蓄財にはじまり、二代目若尾民造、三代目若尾謹之助によって受け継がれ、昭和2年の金融恐慌による破綻により実業界から退いた、かっての若尾家の栄華が残るこの墓所は、当時の名残を伝える数少ない場所のひとつです。



にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。  

by kaz794889 | 2008-12-23 15:38 | 甲府細見 | Comments(0)
2008年 12月 04日

山梨県県民会館

 山梨県内には、古くから大きな集会や公演のできるような会場施設がなく、学校の講堂、体育館や県議会議事堂が使用されていました。

━劇団 民芸公演 「民衆の敵」チケット━
f0191673_19412926.jpg

 第6回山梨県芸術祭として、昭和28年12月18日に、銀峰座(昭和48年11月に岡島百貨店が増床敷地した場所(現在岡島前のバス停がある附近)にあった映画館)において公演。

━藤原歌劇団 「歌劇 椿姫」チケット━
f0191673_19414567.jpg

 甲府高等学校(昭和23年4月に市立甲府女子高等学校として発足し、同25年5月に甲府市東光寺町に新築移転後、同27年4月に県営移管となった県立甲府高等学校)の県立5周年として昭和31年5月27日に、甲府市立北中学校講堂において公演。

【山梨県県民会館の建設】
 こうした現状を憂慮した山梨県商工会議所から昭和27年12月に、山梨県観光連盟ほか27団体から昭和28年2月に知事や県議会議長に大して総合的文化会館の建設について陳情書が提出されましたが、当時の山梨県において数億円の建設費を捻出することが非情に困難であったため、本栖湖の水利権の見返しとして日本軽金属株式会社からの一億円の寄附や県内・県外からの多額の寄附により、建設事業が進められことになり、昭和29年11月に大ホール、同30年6月に県民会館ビルの入札が行われ、南アルプス市(旧櫛形町)出身の内藤多仲博士の設計により大成建設が施工し、同32年4月に大ホールが、同35年4月に鉄筋コンクリート地上8階、地下1階建てとして現在も残っている県民会館ビルが完成しました。

━甲府市街と県民会館━
f0191673_20283963.jpg

 県民会館大ホールが完成した当時の状況です。

━山梨県 県民会館━
f0191673_20274349.jpg

 大ホール完成当時のパンフレットです。
 建築のあらましとして、位置:甲府市橘町18番地、面積:総坪数1,842坪の記載があります。

━山梨県民会館大ホール緞帳 「紅富士」━
f0191673_20275681.jpg


━富士と葡萄のくに山梨 集会と観光 山梨県民会館━
f0191673_20281530.jpg

 このパンフレットには「ブロック会議、全国大会というように、最近活発な会議が全国各地で行われるようになりました。山梨県では、こうした大中小どんなスケールの会議であれ、積極的にこれをお迎えするため、文化と芸術の大センター山梨県民会館を完成したのです。」と記されています。
 県民会館大ホールの開館により、それまで誘致不可能であった全国大会、ブロック大会の開催が相次ぐなど、観光事業の躍進につながりました。

【その後の県民会館】
 完成後四半世紀が過ぎ、県民会館大ホールの老朽化が目立つなど県民の要望を充足できなくなったため、昭和57年11月23日に新たなホールとして、山梨県立県民文化ホールが甲府市寿町(旧山梨県立甲府第二高等学校跡地)に建設されました。
 それ以降、県民会館大ホールは利用者も減少し、建設以来40年以上が経過し老朽化も著しいことや甲府市街中心地の再開発などからその役割を終え、平成11年7月に閉館し取り壊されました。その跡地は現在県庁関係の駐車場となっています。

━現在の県民会館大ホール跡地━
f0191673_202972.jpg

 駐車場奥の建物が山梨県民会館ビルです。
 左側に写る商業施設は既に取り壊され、新たなビルが建設中です。更地となったこの駐車場の風景が一変するのも時間の問題でしょうか。

f0191673_20292459.jpg

 前記写真の右側、西方向です。
 茶色の建物が山梨県庁舎、その左側の建物が現在は県民情報プラザとなっている旧甲府西武のです。今後、この建物が取り壊され、県庁新庁舎が建設されるようです。 

にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ 

by kaz794889 | 2008-12-04 19:38 | 甲府細見 | Comments(0)