カテゴリ:山梨の文学( 7 )


2013年 06月 15日

御坂峠 太宰治文学碑と山梨桜桃忌

【平成24年 山梨桜桃忌の開催案内】
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 山梨桜桃忌は例年、御坂峠の太宰治文学碑への献花の後、天下茶屋を会場として開催されている。
 本年(平成24年)も、上記の「山梨桜桃忌のご案内」のとおり、明日(6月16日(日)13:00~)開催される、山梨桜桃忌は、太宰治研究家の橘田茂樹氏を中心に企画・開催されており、本年は第36回を数えると聞いている。
  例年、太宰治に関連する人物や研究者等の方々を講師とした講演がなされているが、ここ数年は元大分放送アナウンサーで、三鷹市を拠点に朗読活動を展開する、原きよ氏による朗読が行われており、昨年と引き続き、本年も「富嶽百景」の朗読が予定されているようである。昨年、山梨桜桃忌に出向き、同氏による富嶽百景の朗読を拝聴したが、富嶽百景のゆかりの地である御坂峠の天下茶屋で聴く朗読は素晴らしいものであった。機会があれば、是非お聴きになることをお薦めしたい。

【太宰治文学碑の序幕を伝える山梨日日新聞の紙面】
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  御坂峠の太宰治文学碑は昭和28年10月31日に除幕式が行われており、本年平成24年は建立60年の節目の年にあたる。
  左の紙面は、同碑の序幕式とその後に開催された太宰文学碑記念講演会の開催を伝える、昭和28年11月1日付の山梨日日新聞である。
 




【現在の太宰治文学碑】
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  文学碑の除幕式は昭和28年10月31日12:30から開催され14:30に終了したという。
  建碑以来60年の年月が経過し文学碑にもその年月に比例した時間が刻まれている。山梨桜桃忌には参加者による文学碑への献花が行われる。



【太宰文学碑記念文芸講演会の開催された山梨県議会議事堂】
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  太宰治文学碑の序幕式が開催された日の18:00から伊馬春部、小田嶽夫、村上菊一郎、井伏鱒二、青柳瑞穂、壇一雄、浅見淵(亀井勝一郎は所用のため欠席)による太宰文学碑記念文芸講演会が山梨県議会議事堂で開催されている。
  なお、昭和28年当時の甲府市内には、公会堂的な建物がなく、学校体育館や講堂の収容人員以上の規模による講演会や演劇等の催しは、山梨県議会議事堂の本会議場(昭和40年代に本会議場がせ改修されるまでは、本会議場の議席や議長席等は利用形態に応じた取り外しが可能であった。)で開催されており、当時の山梨県議会議事堂は公会堂としての役割も担っていた。




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by kaz794889 | 2013-06-15 19:10 | 山梨の文学 | Comments(0)
2013年 06月 09日

知足園 山田藍々

【知足園 山田藍々壽碑】
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【壽碑建設礼状】
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  藍々山田弘道は弘化元年8月18日、甲府広庭町の橋本春喜の三男として生まれ、明治2年に実兄である山田玄達の家系が途絶えたため、山田家を継いでいる。
  明治元年に鎮撫府参謀の命により徽典館教職として勤務し、明治5年11月から5年間飯田学校の校長を務めた後、明治9年10月から山梨県史編纂兼官房書記として郷土地理の教科書である『甲斐小史談』等を編集するなどしている。
  明治22年には甲府教会の山中笑牧師から洗礼を受け、県庁退職後の明治30年3月から大正7年までの21年間山梨英和女学校に勤務していた。
  山田藍々は少年時代から俳諧を甲府上府中の六角堂に居住していた鈴木空羅から学んでおり、旧派俳壇の巨匠として山梨英和女学校退職後は、俳人として句作指導に専念していた。
  大正7年10月に「月花や ここ万季(まんねん)の安楽土 知足園 藍々」と刻まれた壽碑が弟子、友人等の関係者により甲府・大泉寺に建碑されている。
  礼状には、建碑披露としての雅会を開催するべきところ、騒憂事件等(大正7年8月15日に発生した若尾家焼討事件(米騒動)のことと考えられる。)により開催されずじまいとなっていること、また、甲府市境町から東京に転居することが記されている。




【『大正年代 甲陽俳人名鑑』】
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【「甲陽俳人名鑑」発刊に係る依頼状】
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  山田藍々を編集兼発行人として大正9年10月15日に発刊された『大正年代 甲陽俳人名鑑』である。




【大正6年の年始状】
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  大正6年に山田藍々が発出した年始状である。
  大正15年5月11日に山田藍々は83歳で没し、甲府市広庭町の西昌院に葬られたが、その後、大泉寺に改葬されている。写真は西昌院墓地に残されている、山田藍々の旧墓跡である。




【山田藍々の旧墓跡】
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by kaz794889 | 2013-06-09 15:16 | 山梨の文学 | Comments(0)
2013年 01月 05日

甲斐吟社

【甲斐吟社趣意書】
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  甲斐吟社は富岡敬明により結成された漢詩の結社であるという。
  『山梨漢詩人列伝』(平成20年9月30日発行・内藤利信著)によれば、熊本県知事を退官し貴族院議員に勅選された富岡敬明が西山梨郡里垣村(現在:甲府市)に移り住んだ、明治24年4月に甲斐吟社が創始されたとしている。
  「甲斐吟社趣意書」には「是ニ於テ同志ト相謀リ、一社ヲ創設シ、甲斐吟社ト名ク」とあり明治26年8月に発行されていることから、この年が甲斐吟社が結社された時期とも考えられる。
  趣意書に記されている規約によれば、幹事を〇名置くとあり「当分の内、本社幹事を定むること左の如し」とし、甲府市柳町一丁目 小野崎又二郎(号・半城)、甲府市魚町二丁目 青山与三郎(号・覚峰)が幹事となっている。
  また、同規約の「本社事務所ハ当分ノ内西八代郡市川大門村近藤柳塘方に置ク」の近藤柳塘は、市川大門の村松廬州が少年時代に詩法を学んだと云われている町田柳塘の別名とも推定される。



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by kaz794889 | 2013-01-05 14:53 | 山梨の文学 | Comments(0)
2012年 12月 30日

半古庵 保科倍之

【保科倍之の句碑】
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  貞享・元禄期の岸本調和、一瀬調実、享保期の大久保一林、市川和橋、安永・天明期の上矢敲氷、五味可都里、文化・文政期の辻嵐外、早川漫々、幕末・明治初期の橘田春湖など、近世から幕末・明治初期に至る約200年間における山梨県の俳諧については、その評価と研究が進められている。
  しかしながら、その反面、明治期以降大正期、飯田蛇笏と雲母の登場までの間、いわゆる正岡子規の俳句革新運動による俳諧に代わる「俳句」という用語が用いられるようになった近代俳句が成立までの間については、これまでの俳諧隆盛の影響が続き山梨県内各地において俳句は盛んであったにも関わらず、この時期の俳壇については「旧態依然たるもので、天保調の域を全く脱してはいない。啓蒙期特有の開明性や自我覚醒への志向などが認めることができない。」、「近世の蕉風俳諧のように月並調を脱しきれていない。新派俳句の甲府俳壇への実作レベルの流入は明治期後期を待たねばならなかったようである。」といった評価となっている。
  こうした評価であるがゆえに研究の対象とされていないのか、研究がなされていないからこうした評価から脱しきれないのか、門外漢には正確なところは解りかねるが、感覚的には研究が必ずしも十分とは言い切れないと考えられるところである。

  
  保科倍之は、明治期から大正初期にかけての甲府俳壇における旧派の大家であった。
  写真の句碑は、高さ1.5m、幅1mの石碑であり、現在は樹木に台座が覆われているが、台座には溶岩が使われているという。句碑には富岡敬明男爵揮毫の「寿家」の文字の下に「「紛礼な岐(まぎれなき)見ごころ清し富士の山」半古庵保科倍之」と、また句碑の裏面には門下生の名が刻まれている。
  当初建立されたのは明治28年11月23日であったが、同32年11月13日の火災で破損し、同35年4月3日に再建されたのが現在の句碑である。


【保科倍之の書簡】
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 保科倍之は本名「保科 保」、俳号に「半古庵」「倍之」「白髯坊」を用いていた。
 江戸下谷の幕臣旗本であった、武内大治郎の二男良道、信州高遠藩の磯部源内の妹である瀧の二男として天保12年に生まれている。
 保科家は武士の系統であるため、その家督は長男が継ぐことから、江戸から甲府に住み移っている。
 河野可転の門に入り俳諧を学び、山伏の修行道場である「万能院」を甲府白木町に開設し、そこで寺子屋も営むなどして教育にも関わっていたが、その傍らでは俳諧三昧にふけり芭蕉の正風である伝統俳句を鼓舞し旧派の巨匠と云われていた。
 当時は各村々に句会、吟社が設けられ、山田藍々、小沢眠石、田草川草圀らが旧派の宗匠を中心とした発句大会が設けられ、保科倍之も宗匠として発句大会の選者や山梨日日新聞の最初の俳句の選を行っている。 


【保科倍之の葬儀案内葉書】
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 保科倍之は大正3年9月13日に73歳で亡くなり、同日、左記の案内が関係者に発送されている。
 案内に記されている保科萬次郎は、明治5年12月7日に生まれた倍之の二男であり、山梨時報、峡中日報、山梨日日新聞などの新聞記者として活躍し、明治43年3月の国民新聞甲府支局の設置にあたり初代の支局長を務め、それまでの間には甲府市会議員、副議長として市政に貢献し昭和2年10月には市政功労者として表彰されている。昭和20年10月13日に疎開先の甲府市積翠寺町で74歳で没している。



【保科家の墓所】
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 甲府市朝日4丁目の円覚山浄興寺にある保科家の墓所である。



【保科倍之の墓】
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 保科家墓所の右端に建つ法号である「明教院智誉義光浄信居士」が刻まれた倍之の墓石である。



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by kaz794889 | 2012-12-30 17:54 | 山梨の文学 | Comments(0)
2012年 11月 11日

甲府在勤時代の北杜夫

【「たのしい山日 PR版」 第七集】
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 昭和35年頃に山梨日日新聞社が発行した「たのしい山日 PR版」という同紙の購読促進を図る16ページ^ほどの冊子に、「狂人守りの先生 甲府にいた芥川賞作家」と題した記事が掲載されている。
 掲載記事にある甲府にいた芥川賞作家とは、「夜と霧の隅で」で昭和35年上半期の第43回芥川賞を受賞した北 杜夫である。
 北 杜夫(本名:斉藤宗吉)は、昭和2年5月に斉藤茂吉、輝子の二男として誕生し、麻布中、旧制松本高校、東北大学医学部を卒業後、昭和28年に慶応大学医学部神経科教室に同大学医学部の助手として入局、その後の昭和30年12月に当時の山梨県立玉諸病院に1年間勤務している。




【「狂人守りの先生 甲府にいた芥川賞作家」】
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  「たのしい山日 PR版」の「狂人守りの先生 甲府にいた芥川賞作家」は、「4年ほど前、慶応大学病院の医局員だったころ、派遣されて甲府市里吉町の県立玉諸病院に1年間在職したことがあるので、本県にも馴染みの深い人。そこで東京都新宿区大京町の自宅に北氏を訪ね甲府の思い出話などを聞きながら、その人柄と文学の周辺にふれてみた。」とした、北杜夫への甲府在勤時代のインタビューが2ページに渡って掲載されている。
  「甲府は本当に丸1年、365日が1日も前後しない満1年の滞在でした。県立精神病院といっても院長さんが病気なので、そのアシスタントとしてさし向けられたんですから、病院を一人で背負い込んで忙しかった。」、「時折り留守番を頼んで映画を見に行ったものでした。」、「病院のあったあたりは、ほかに医者がいないので、近所の農家から、やれ風邪をこじらせた、お腹をこわしたなんていう急患が持ち込まれるんです。」などの甲府時代が語られている。




【山梨県立玉諸病院跡】
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山梨県立玉諸病院はその後山梨県立北病院となり、かつて病院があった場所は、山梨県庁里吉別館となっている。
  なお、写真に写る建物は、病院移転後に山梨県の工業系組織の庁舎として建設されたものであり、病院施設の旧庁舎等は全く残されてはいない。

【北杜夫と辻邦生の著作】
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  甲府時代については、北杜夫の『どくとるマンボウ医局記』(平成5年1月25日:中央公論社)の第9章「山梨県の病院へ売りとばされたこと」として書かれている。また、辻邦生と北杜夫の共編である『若き日の友情 辻邦生・北杜夫往復書簡』(平成22年7月29日:新潮社)は、昭和23年から昭和36年までの二人の往復書簡集であるが、その中の昭和31年分は甲府時代の往復書簡となっている。なお、いずれの書籍も現在は中公文庫及び新潮文庫として刊行されている

【「斉藤茂吉と「楡家の人びと」展」の案内チラシ】
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斉藤茂吉の生誕130年記念と追悼北杜夫として、『斉藤茂吉と「楡家の人びと」展』が世田谷文学館において現在開催(平成24年10月6日から同年12月2日まで)されている。
同展の「長編小説の醍醐味「楡家の人びと」」と題する展示のコマにおいて、北杜夫の甲府時代における山梨県職員身分証明書が展示されている、同展に併せて発行されている図録には当該身分証明書の写真は未掲載であり、展示中の展示品の写真撮影も当然厳禁であることから、同証明書の記載事項を以下のとおり記載したい。
名刺サイズよりもやや小さ目な証明書に「山梨県職員身分証明書 №3914 甲府市里吉町838の2 県立精神病院技師 斉藤宗吉 昭和31年1月27日発行 天野久」と記載されている。 




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by kaz794889 | 2012-11-11 18:24 | 山梨の文学 | Comments(0)
2012年 10月 21日

篠原春雨と句碑

【篠原春雨】
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 (明治13年5月27日~昭和21年4月15日)
 篠原春雨(本名:春治)は甲府柳町57番地(現在:中央4-9-10附近)に、呉服太物、質商を営む父長七、母トメの二男として生まれ、明治30年代に久良伎社同人となり、川柳作者となった。
 明治37年7月14日には川柳久良伎社甲府支部を設立し、新川柳誌「五月鯉」を明治38年5月5日に編集同人として発刊し新川柳を提唱した。
 大正3年5月5日に山梨日日新聞の社会部記者となり、この頃から同紙の川柳欄の選者となるなどし新川柳の発展・普及に努めていたが、大正5年3月13日に山梨日日新聞編集局における執務中に脳充血が突発し、その後快方に向かったものの、遺症として聴力の衰えが進みその後聴力を失っている。
 大正6年3月13日に山梨川柳会を設立し、雑誌「新宝暦」を発刊、昭和18年7月には戦時下唯一の柳誌である「川柳常会」を発刊している。その後、戦時中の疎開先である北巨摩郡穴山村(現在の韮崎市)において66歳で没している。



【篠原春雨句碑】
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  大正6年2月21日、病に倒れ東京の病院で治療するも効果なく帰甲した篠原春雨に対し、門人の人々は本県川柳界の恩人として、篠原家の菩提寺である甲府市細工町の法華寺境内に「川柳や江戸紫に八文字」の句碑を建立するとともに、記念句集である『川柳春雨傘』を発刊した。
  写真の句碑は、大正13年6月30日に改築した前述の句碑である。



【篠原春雨句碑絵葉書「表面」】
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 甲府市桜町8番地(現在の中央1-1附近)に居住していた篠原春雨の自筆により、長野県諏訪郡岡谷在住の者にあてて送付された、昭和2年8月11日付、甲府郵便局の消印のある左記の絵葉書の表面である。


【現在の篠原春雨句碑】
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 法華寺(甲府市武田1-4-34)に現在も残る篠原春雨の句碑である、大正13年6月の改築後、更に改築され句碑の土台である石組みも撤去され、樹木の陰で枝葉に覆われ、現在は句碑の全景を見るのも困難である。



【篠原春雨の墓】
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 樹木の下が句碑、向かって左の墓石が篠原春雨、右の墓石が篠原家代々のものである。 




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by kaz794889 | 2012-10-21 16:21 | 山梨の文学 | Comments(0)
2012年 10月 14日

没後五十年 飯田蛇笏展

【「没後五十年 飯田蛇笏展」の開催パンフレット】
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【「没後五十年 飯田蛇笏展」図録】
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 山梨県東八代郡境川村(現在の笛吹市境川町)に生まれ、東京における多感な青年時代を経て郷里の境川村を定住の地と定めた、近代俳句を代表する俳人飯田蛇笏(明治18年4月26日~昭和37年10月3日)の没後50年にあたり、改めてその足跡をふり返り、多くの人々に読み継がれている作品の魅力に光をあてていくことを趣旨とした、「没後五十年 飯田蛇笏展」が山梨県立文学館において特設展として開催(開催期間:平成24年9月29日~同年11月25日)されており、当方も昨日拝見させていただいた。
 
 平成元年に開館した山梨県立文学館は、そのオープンの日を三十年前(開館時)に飯田蛇笏が亡くなった10月3日としているなど、飯田蛇笏は山梨を代表する文学者のひとりであり、近代俳句に大きな功績を残している。




【『峡中文人録』における飯田蛇笏】
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 『峡中文人録』は大正2年6月25日に、渋谷俊及び大塚源一郎を編者として、甲府市柳町の柳生堂書店を発行所として出版された書籍であり、そのはしがきによると「明治大正の峡中(山梨県)文壇の盛観を後代に記念すべく刊行を企てたもの」と記されている。
 当時の飯田蛇笏は38歳、この年の2月には五男が誕生している。




【『俳人大家名簿』】
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【『俳人大家名簿』における山梨県の項】
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 『俳人大家名簿』は昭和7年1月に和歌山県西牟婁郡田辺町の榎本精一を編者兼発行人として発行された冊子であり、当時の樺太、台湾、朝鮮等を含む全国を府県等の単位として847名を網羅しているものである。
 発行当時の飯田蛇笏は47歳、この年の12月には第一句集である『山廬集』が発刊されている。




【『飯田蛇笏展』図録】
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 『飯田蛇笏展』図録は、昭和43年9月28日から9月30日を会期として甲府市北口2丁目の山梨文化会館(山梨日日新聞等本社社屋)を会場に開催された「飯田蛇笏展」に関する飯田蛇笏展運営委員会が編集発行した図録である。

【『飯田蛇笏展 没後30年』図録】
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 『飯田蛇笏展 没後30年』図録は、平成4年10月3日から12月6日を開催期間として、山梨県立文学館で秋の企画展として開催された「飯田蛇笏展 没後30年」の図録である。
 56日間に渡って開催された同展には、全国から11,000人余の観覧者が訪れている。
 




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by kaz794889 | 2012-10-14 19:22 | 山梨の文学 | Comments(0)