カテゴリ:戦時期の山梨( 20 )


2016年 05月 29日

戦時期の山梨 20「衣料切符入」

【松林軒百貨店発行の衣料切符入(左:表面・右:裏面)】
f0191673_22240864.jpgf0191673_22241439.jpg 昭和17年1月20日に公布された「繊維製品配給消費統制規則」に基づき、同年2月1日から衣料切符制が実施されている。
 
 [衣料切符制度の概要は下記を参照願います]
 「戦時期の山梨 8「衣料切符制」」
  http://kaz794889.exblog.jp/17639402/

 衣料切符制は、戦争によって供給量の減少した繊維製品の軍需、その他ね必要方面への配給確保。一方での一般国民に対する最低限度の衣料品の公平確保の保証と、今後の戦時下における国民生活の安定を図ることを目的として実施されたものであり、衣料切符には、郡部用の甲種(総点数80点)と都市用(山梨県の場合は甲府市が適用)の乙種(総点数100点)があり、この点数の衣料切符が、一人あたりの1年分として支給されている。
 また、点数の有効期限は満1年とされ、紛失しても再交付はなされなかったという。昭和17年2月の制度実施当時における衣料品購入時における使用切符点数は、背広の上下が40点、国民服の上下が32点、タオルが3点、割烹着が8点といったように、154品目にそれぞれの点数が定められるなど細分化されており、背広を購入する場合は、背広の代金と、背広に該当する点数分の衣料切符を提示する必要があり、また、不正防止のため、該当分の切符は、購入者が切り取ることなく販売店に衣料切符切符を提示し、販売店側が必要分を切り取る(購入者が事前に切り取った場合、当該点数は無効とされていた。)こととしていた。

 その後、昭和18年1月18日には「繊維製品配給消費統制規則」の所管庁である当時の商工省告示により、衣料切符の対象衣料品の追加指定及び基準点数の平均25%引き上げが行われ、背広の上下40点が50点、国民服の上下32点が40点、タオル3点が4点、割烹着8点が10点となっている。
 更に、昭和19年2月7日には、繊維製品の全面的な景観生産が行われることとなり、軍需品及び重要生産資材等の戦力増強に寄与するためのもののほか、一般国民の生活用品の大半は、労働者用品、衣料補修用品、学童等の特に消耗度の高い必需衣料品に限定されることとなったため、衣料切符点数の都市部、郡部の区別が撤廃され、一人あたり、30歳以上が40点、30歳未満が50点となっている。なお、衣料切符制度は、点数配分の変更はなされたものの、終戦後の昭和25年まで継続されている。


 写真の「衣料切符入」は甲府市桜町にあった松林軒百貨店が発行したものであり、裏面には切符制度の概要案内が記されている。



にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。



by kaz794889 | 2016-05-29 23:07 | 戦時期の山梨 | Comments(0)
2015年 07月 06日

戦時期の山梨 19「昭和20年7月6日の甲府空襲」

【昭和20年7月9日付 毎日新聞】
f0191673_22134478.jpg 70年前の昭和20年7月6日、夜半から7日にかけ甲府は米軍機による空襲を受け、1100余名の尊い人命を失っている。

 昭和20年7月6日の日中の最高気温は29度、夜間午後10時の気温は22度、6日の夜は盆地特有のむし暑く寝苦しい夜であったという。

 午後11:23に警戒警報発令、11:54に空襲警報発令、日付の変わった7日の2:20に空襲警報が解除されている。

 「焦土から断乎起て」の見出しによる、昭和20年7月7日付の知事布告を掲載した山梨日日新聞(毎日、讀賣、朝日の各新聞連名)の号外が発行されている。
 写真は昭和20年7月9日付の毎日新聞裏面(当時の新聞は両面印刷の1ページ)に掲載された、空襲直後の戦災地甲府の状況を伝えている。


















f0191673_22203633.jpg








【甲府・焦土から再進発】
f0191673_22135244.jpg
















戦時期の山梨 9「甲府空襲」
http://kaz794889.exblog.jp/17733889/

戦時期の山梨 12「甲府空襲 2」
http://kaz794889.exblog.jp/19965969/


にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。



by kaz794889 | 2015-07-06 06:29 | 戦時期の山梨 | Comments(0)
2015年 07月 04日

戦時期の山梨 18「鉄と銅 捧げて 米英撃滅へ」

【昭和17年8月23日発行 山梨常会資料号外 隣保組回覧板】
f0191673_16091220.jpg 昭和16年4月から政府による金属類特別運動が官庁、公共団体、工場、事業所、一般家庭などで広く実施され、当時の国策遂行のため金属の供出が実施された。
 山梨県におけるこの年の金属類特別運動の歩調は頗る緩慢であり、県内10数町村を除いて完全に目的を達したとは言い難い状況であったという。
 このため、昭和17年度における金属の供出は前年度の実績を踏まえ、迅速徹底的に回収を実施することとなったという。。

 写真の資料は、昭和17年10月1日から実施する金属類特別回収を周知するもである。

 







戦時期の山梨 4 「金属類回収令」
http://kaz794889.exblog.jp/16291391/



にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。



by kaz794889 | 2015-07-04 17:00 | 戦時期の山梨 | Comments(0)
2015年 06月 06日

戦時期の山梨 17「国民貯蓄目標 二百七十億円」

【「山梨日日新聞」 平成27年6月5日】
f0191673_21402236.jpg
 山梨日日新聞に掲載された、板橋区立美術館で開催中(4月11日~6月7日)の『近代日本の社会と絵画 戦争の表像』展を先月末に観覧した。
 随分以前から、同美術館が所蔵する新海覚雄の『貯蓄報国』を観覧したいと思っていたが、現在開催中の館蔵品展に展示されていることを知り訪れたものである。
 
 貯蓄報国は、「皇軍将兵の活躍と労苦を美術を通じて銃後に伝へ以て前線将兵に感謝の誠を捧げると共に一億国民の士気高揚に資すべく」を目的として昭和18年に開催された第2回大東亜戦争美術展に出品され日本美術報国会賞を得た作品であり、写実的な郵便局の日常業務の光景が描かれた作品である。
 



















【新海覚雄 『貯蓄報国』】
f0191673_21402537.jpg 『貯蓄報国』は、同展の作品リストによれば、112.4×163.0の油彩・キャンバスによる作品である。
 
 盧溝橋事件以降、飛躍的に増加した戦費の一部に郵便局や銀行に預入された預貯金を充てることが計画され、「国民貯蓄奨励ニ関スル件」が 昭和13年4月19日に閣議申合されるなど、昭和13年から政府主導の国民貯蓄奨励運動が展開され、昭和13年度は80億円の国民貯蓄目標が制定されることとなった。

 上記の掲載記事にある「カウンターの内側で銃後の女性が働く。左奥の壁をよく見ると、戦闘機とみられるイラストに「270億」と記されたポスター。数字は、貯金の目標額とみられる。」の270億は、まさに『貯蓄報国』が描かれた昭和18年度の国民貯蓄目標の目標金額である。

 また、そこに描かれているのは、貯蓄の手段の一つとして当時発行されていた国庫債券や報国債券などの債券の発行日に、それを求めて郵便局の為替貯金窓口に並ぶ市井の人々と、それに対応する郵便局職員を描いているのだろう。

 昭和13年度以降、毎年度ごとに戦争の進展と比例した国民貯蓄目標が示され、昭和16年には国民貯蓄奨励運動を更に組織的に展開するため、国民は居住地域の市町村や勤務先、通学先などに結成された国民貯蓄組合の構成員となり、それらの組合で貯金を行うことを定める「国民貯蓄組合法」が公布され、同年6月20日から施行されるなど、終戦までの数年間、まさに貯蓄報国のスローガンのもとで貯蓄運動が展開されていった。
 


【挙県一体 二百七十億貯蓄 総攻撃に参加せん】
f0191673_16221999.jpg 昭和18年11月21日発行の『山梨常会資料 第48号』に掲載された、昭和18年度の国民貯蓄目標270億円の目標達成のため、全国的に実施される12月一か月の「270億貯蓄総攻撃」特別計画期間に呼応し、山梨県においても「仇敵撃滅」の決意による、山梨県目標額の完全攻略を求める記事である。
 




















【昭和十八年度本県貯蓄目標額 一億二千万円と決定す】
f0191673_16220020.jpg 昭和18年3月21日発行の『山梨常会資料 第40号』に掲載された、昭和18年度国民貯蓄目標270億円の内、山梨県における貯蓄目標額が1億2000万円と決定したことを伝える記事である。
 国民貯蓄目標については、毎年各都道府県ごとの目標額が示され、それを基に、更に市町村や職域などに目標金額が示されていた。
 
なお、昭和17年度の国民貯蓄目標は230億円、山梨県の貯蓄目標額は1億円であった。
 昭和13年度以降の各年度に示される国民貯蓄目標額は毎年度増加しており、昭和19年度は410億円、昭和20年度は600億円と、毎年度増加の一途をたどっていた。

 常会資料には、「1億2000万円に増加した国民貯蓄を確実に積あげるためには、今まで以上に私生活の緊縮が必要である。与えられた目標額をまず貯蓄して、余ったものを以て生活するという生活態度が絶対に必要になってきた」と、昭和18年度の山梨県貯蓄目標額達成に向けて記されている。

















にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。



by kaz794889 | 2015-06-06 23:31 | 戦時期の山梨 | Comments(0)
2015年 04月 26日

戦時期の山梨 16「恩賜財団 軍人援護会山梨県支部」

【「恩賜財団 軍人援護会山梨県支部」発行の御慰問絵葉書】
f0191673_16393962.jpg 昭和13年10月3日に当時の内閣総理大臣近衛文麿が召され、軍人援護に関する勅語が賜われるとともに、軍人援護の貨として御内幣金が下賜された。
 このため、関係大臣である厚生大臣、陸軍大臣及び海軍大臣と慎重協議の上、公爵近衛文麿を設立者とし、恩賜金300万円を以て、「銃後一体、官民協力を以て傷痍軍人、軍人遺家族に対する各種の援護事業を行い、政府の施設と相計って銃後援護の実を挙げ、将兵をして後顧の憂いなからしむことを期す」ため、厚生省による「恩賜財団軍人援護会設立ノ件請議」に基づき、昭和13年10月7日の閣議において設立が決定された組織が「恩賜財団 軍人援護会」である。

 軍人援護会山梨県支部は、軍人援護会支部規程に基づく支部として、その活動を支援補完するため山梨県下における戦没軍人の遺族、傷痍軍人及びその家族遺族並びに現役又は応召中の軍人及びその家族等に対する各種援護事業を行うことを目的として、その事務所を山梨県庁内に置き、山梨県知事を支部長とする他、副支部長、常務、理事、監事、評議員等を役員として組織されていた。















【武運長久祈願(武田神社)】
f0191673_16394401.jpg 盧溝橋事件から4年を迎えた昭和16年9月に、戦線の勇士慰問のため
山梨県内の女学生を動員して人形一万個及び郷土山梨の姿を描いた絵葉書が前線の兵士に向けて送られている。

 前記のタトウによる4枚組の絵葉書の内の1枚が、左記の「武運長久(武田神社)」である。
 なお、他の3枚は「本栖湖の冨士」、「葡萄郷(勝沼附近)」、「山の山梨(鳳凰の地蔵)」と題するものである。
 
 







【山梨常会資料(昭和17年7月21日発行 第32号)】
f0191673_16394961.jpg 山梨常会資料においても、軍人援護会山梨県支部による軍人援護に関する事項について、3ページに渡って記されている。




























にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。

by kaz794889 | 2015-04-26 18:02 | 戦時期の山梨 | Comments(0)
2014年 09月 14日

戦時期の山梨 15「湯田国民学校の防空監視哨」


【昭和17年の湯田国民学校】
f0191673_21554130.jpg 昭和16年12月の「防空監視隊令(昭和16年勅令第1136号)」に基づき、昭和17年に米軍空襲に備え各府県ごとに数隊の防空監視隊本部とそれに所属する防空監視哨が設置されることとなった。
 山梨県内においても甲府、大月、南部に防空監視隊本部が、また各本部の配下に10数か所前後後の監視哨が置かれ、哨長一名と監視隊員一名により三交代による監視が行われ、昼間は双眼鏡により敵機の来襲を監視し、その情報を東部軍管区に通報、東部軍管区はその情報を基に警報を発令するとともに、上部組織や機関に連絡 を行っていた。
 
 写真は昭和17年の甲府市内、湯田国民学校である。
 写真の右端、校舎の屋根上に設置された櫓が監視哨である。写真の写された三年後、昭和20年7月6日の甲府空襲で湯田国民学校は全焼している。





にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。


by kaz794889 | 2014-09-14 22:36 | 戦時期の山梨 | Comments(0)
2013年 08月 15日

戦時期の山梨 14「学徒勤労報国隊の8月15日」

【学徒勤労報国隊 指導日誌(第2号)】
f0191673_2011483.jpg

【最終ページの記述】
f0191673_20124217.jpg
学徒勤労令(昭和19年勅令第518号)が昭和19年8月23日に施行され、同令第二条「学徒勤労ハ教職員及学徒ヲ以テスル隊組織(以下学校報国隊ト称ス)ニ依ルモノトス但シ命令ヲ以テ定ムル特別ノ場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ学校報国隊ニ依ラザルコトヲ得」に基づき、学徒勤労は学校報国隊の組織をもって実施されることとなった。
このため、昭和19年9月8日付を以て山梨県立山梨高等女学校(現在の山梨県立山梨高校)に対して発せられた学徒報国隊出動令書に基づき、「山梨県立山梨高等女学校学徒勤労報国隊」は東山梨郡加納岩町上神内川112番地の中央工業株式会社山梨工場に動員されている。



写真は同報国隊の指導日誌であり、昭和19年9月21日の入所式から昭和20年8月16日までの状況が二冊の日誌に渡って記録されている。
昭和20年8月15日水曜日、天候は晴れ、当日は出勤者77名、欠勤者86名。悲痛なる感慨を以て玉音を拝聴したこと、早退証所持者を所定の時刻に帰宅させたことが記録されている。
昭和20年8月16日木曜日、天候は晴れ、当日の出勤者等の人数については未記載である。一時間半に亘る同工場の山口工場長の講話は多大の感銘を与えた旨が記載され、指導日誌の記述は終わっている。
なお、『山梨学徒勤労動員の記録』(同編集委員会編 平成12年7月31日発行)所載の「山梨高等女学校学徒動員の回想」に「山口工場長が壇上に立ち戦争が終わったことを告げた。そして「風と共に去りぬ」から引用し南北戦争のことを話され「戦争は絶対にしてはならない」と結んだ。私達は呆然としてただ立ち尽くすのみだった。」と記されている。



にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。

by kaz794889 | 2013-08-15 20:25 | 戦時期の山梨 | Comments(0)
2013年 07月 14日

戦時期の山梨 13 「陸軍航空戦記特別試写会」

【陸軍航空戦記特別試写会の案内】

f0191673_17464818.jpg
  昭和18年2月26日の午後6時から山梨県会議事堂において、毎日新聞社、日本映画社主催、山梨県、甲府連隊区司令部を後援として開催された「陸軍航空戦記特別試写会」の開催案内である。
  同年3月4日からの甲府宝塚劇場における独占封切に先立って特別試写会が行われた「陸軍航空戦記」は、イギリスに占領されたビルマ各地に幾度も繰り返される陸軍航空隊の爆撃など、ビルマ作戦における陸軍の活躍を決死の撮影によって映し出した大迫力の空中戦が話題となった航空記録映画であり、当時の航空記録映画の代表作であるという。




【「陸軍航空戦記」梗概】

f0191673_17472293.jpg


  「番組」と題する囲みに記されている日本ニュース141号は、昭和18年2月16日公開されたニュース映画であり、昭和14年の映画法制定により、映画館における映画の上映前後にニュース映画の必須上映が義務付けられることとなった。
 ニュース映画は、昭和15年4月に朝日新聞社、大阪毎日新聞社(東京日日新聞・大阪毎日新聞)、読売新聞社の新聞3社と同盟通信社のニュース映画部門が国策により統合された「社団法人日本ニュース映画社」が昭和16年に東宝、松竹の文化映画部門と各文化映画製作会社を吸収改組した「社団法人日本映画社」により、週1本製作され、映画法に基づき毎週映画館で封じられていた。
  なお、試写会で上映されたニュース映画141号は「産業戦士に輝く勤労顕功章」、「航空決戦の秋 学童一日 空の入営」、「敗残の敵国俘虜」、「米英の盲爆下ビルマの憤激昴まる」を内容としたものであった。



にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。

by kaz794889 | 2013-07-14 18:14 | 戦時期の山梨 | Comments(0)
2013年 07月 06日

戦時期の山梨 12「甲府空襲 2」

【戦災殉難者無縁供養碑】
f0191673_201050.jpg
  昭和20年7月6日の23時53分、駿河湾を北上し静岡附近から東北進して山梨県域に侵入した138機のB29編隊により、翌7日の午前2時20分の空襲警報解除までの2時間30分の間、甲府市及び当時の周辺12町村に波状的な攻撃がなされた甲府空襲から本日は68年目にあたる。
  この甲府空襲により、甲府市街地の74%が被災し、1,127名が犠牲となっている。こうした犠牲者の方々については、戦災後、直ちに警察及び甲府市厚生課、警防課の職員が立ち会い検死の上、警防団、義勇隊に引き継がれたが、その対応については夏の暑さからの腐乱による臭気など、対応は困難を極めたという。
 7月7日からの4日間で犠牲者の対応は終わり、遺族に引き渡されたものが267体、一蓮寺に仮埋葬されたものが366体、同寺で荼毘にふされたものが47体、光沢寺に仮埋葬されたものが119体、長禅寺に仮埋葬されたものが31体、その他の寺院には3体が仮埋葬された。
 その後、一蓮寺境内に仮埋葬された遺体の改葬事業が昭和25年3月になされ、仮埋葬された遺体は火葬され、その内の213柱は遺族に引き渡され、140柱は大泉寺に安置されたという。

  写真の「戦災殉難者無縁供養碑」は、無縁となり大泉寺に安置された140柱の供養碑として、昭和34年8月に甲府市により市営躑躅ヶ崎霊園内に建立されたものであり、現在も供養碑前において、毎年供養祭が営まれている。


【戦災死者慰霊 礎(いしずえ)地蔵尊】
f0191673_2013396.jpg
  昭和25年3月の一蓮寺境内の改装事業に伴い、仮埋葬された犠牲者が大泉寺に改葬された際、一蓮寺の仮埋葬地の一画に供養の地蔵像建立された。
  平成11年10月には、その地蔵像を祀る堂宇が改築されるとともに、その地蔵像は「礎地蔵尊」と命名されている。




にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。

by kaz794889 | 2013-07-06 21:36 | 戦時期の山梨 | Comments(0)
2012年 08月 12日

戦時期の山梨 11「駅弁」

【甲府駅の駅弁掛け紙】
f0191673_23442074.jpg
 甲府駅の構内営業業者として米倉は駅弁の販売を行っていた。
 鉄道による旅の楽しみでもある駅弁は、戦前においてもその地方の風物などをあしらった掛け紙が特徴的ではあったが、戦時体制が強まっていく過程の中で、食糧の事情も厳しく統制が図られ、その影響は駅弁にも当然の如く及んでおり、戦時期における駅弁の昭和掛け紙は、それまでの旅情を誘う図柄や表現から、「御飯」といった単純な表現となっていった。




【甲府駅構内営業 米倉が発行した軍歌集】
f0191673_23451588.jpg


 戦時期に米倉が発行した軍歌集である。
 どういったタイミングで作成され、どのような方法で配布していったかは不明であるが、戦時期に何らかの方法で配布されていたものである。 


にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします

by kaz794889 | 2012-08-12 00:00 | 戦時期の山梨 | Comments(0)