峡陽文庫

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カテゴリ:新聞( 8 )


2016年 05月 22日

山梨毎日新聞

【山梨毎日新聞】
f0191673_21595196.jpg 山梨毎日新聞は、明治41年4月21日に創刊した日刊紙である。
 発行元は山梨毎日新聞社であり、辻秀造(明治9年7月30日~大正5年2月24日)により創刊されている。
 辻は明治35年頃、明治33年2月11日に創刊された「山梨時報」に配達夫として入社し、その後、東京の各新聞社が発行する数種の新聞の取扱店を開き、甲信地域の一手販売軒を掌握している。
 甲府市工町で山梨毎日新聞社を設立し、山梨毎日新聞を創刊、その後社屋は甲府市錦町18番地に移転し、更に明治42年4月には甲府市紅梅町21番地に新築移転している。大正8年当時における一日の平均発行部数は、12,000部であったという。
 辻の死後は、保坂政治郎が同社を買収し社長に就任している。
 その後、昭和16年2月1日には戦時期の新聞統制の一環である、一県一紙化により、山梨日日新聞に合併している。
 

















【大正4年頃の山梨毎日新聞社】
f0191673_21593689.jpg 明治42年に甲府市紅梅町21番地に新築移転した、山梨毎日新聞の社屋である。






















【現在の同位置】
f0191673_21590969.jpg 現在の同位置である。当時の建物があった位置は、現在、フコク生命ビル(ファミリーマートの入っているビル)となっている。






















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by kaz794889 | 2016-05-22 22:55 | 新聞 | Comments(0)
2016年 02月 11日

峡中日報

【峡中日報】
f0191673_22251182.jpg 「峡中日報」は明治21年6月3日に創刊された日刊紙である。
 昭和4年2月11日には「山梨時事新報」と紙名を改題し、昭和7年7月10日には再度「峡中日報」と紙名を改めている。
 その後、昭和15年10月1日に戦時下における新聞統合としての一県一紙体制に向け、山梨県内における当時の日刊紙(山梨日日新聞、山梨毎日新聞、山梨民報、峡中日報)に対する政府や山梨県知事からの合併勧奨がなされた結果、山梨日日新聞を中心とする合併の方向となり、昭和15年10月1日にその第一陣として峡中日報は山梨日日新聞と合併している。
 
 




















【甲府市錦町 峡中日報社】
f0191673_22250594.jpg 甲府市錦町18番地に所在した、「峡中日報」の発行元である峡中日報社である。





















【現在の「峡中日報社」跡】
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by kaz794889 | 2016-02-11 15:57 | 新聞 | Comments(0)
2011年 06月 19日

日刊やまなし

【「日刊やまなし」第一号】
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 「日刊やまなし」は、明治35年4月5日に第一号のを発行した日刊紙の新聞である。
 当時、山梨県内には山梨日日新聞、峡中日報、山梨民報、甲斐新報、山梨時報の五紙が発行されている。

【やまなし第一号付録】
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 日刊やまなし第一号の付録として発行された「日刊やまなし発刊に就て」と題したチラシである。
 日刊やまなしは、甲府市常盤町8番地に会社を置く、やまなし新聞社が発行する日刊紙であり、発行兼編纂人は望月憲治が務めていた。
 なお、日刊やまなしは、明治36年12月に廃刊している。 

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by kaz794889 | 2011-06-19 15:56 | 新聞 | Comments(0)
2011年 01月 15日

山梨時事新聞

【山梨時事新聞】
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 終戦後、言論機関再建の機運が全国的に巻き起こり、山梨県内においても昭和21年3月1日に小野永雄を創立者として創刊された日刊新聞が「山梨時事新聞」である。
 創刊当初は輪転機も容易に手に入らず、約一年間は原稿を電話送稿し東京タイムズ社で印刷するといった変則的な作成を行っていたが、昭和22年2月に甲府市山田町に社屋と印刷設備をなし、自家印刷が行われることになったという。 
 創刊後、山梨日日新聞と並ぶ地方紙の双璧として、最高5万部を発行していたが、昭和44年3月31日に第8,365号をもって廃刊している。

【山梨時事新聞社の社屋】
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 甲府市山田町32番地にあった山梨時事新聞社の社屋は、甲府市立中央保育所として現在使用されている。

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by kaz794889 | 2011-01-15 21:52 | 新聞 | Comments(0)
2010年 05月 09日

山梨日日新聞社

【受取之証】
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 峡中新聞の創刊から継続的に発行され明治9年1月に改題された甲府日日新聞は、明治14年1月4日に山梨日日新聞と更に改題されるとともに、これまでの常盤町4番地から桜町37番地(現在:甲府市中央1-3-21)に社屋を移転している。
 上記の受取証は、山梨日日新聞と改題された明治14年7月、桜町37番地の社屋時代におけね新聞代金受取証である。

【新聞代金受領証】
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 山梨日日新聞の社屋は、桜町37番地の社屋を業務印刷関係の出張所とした上で、その後、甲府市常盤町10番地(現在:甲府市中央1-2-15)に更に社屋を移転している。
 上記の新聞代金受領証は、常盤町10番地時代のものである。

【甲府市百石町時代の山梨日日新聞社屋】
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  明治36年6月の中央本線甲府駅の開業を踏まえ、明治35年11月3日に山梨日日新聞は甲府市百石町1450番地(現在:甲府市丸の内2-33-1)に社屋を移転した。
 この写真は百石町時代の山梨日日新聞社の社屋である。なお同社の社屋は、それ以降、昭和41年に甲府市北口の山梨文化会館に新築移転するまでの間、ここ百石町に置かれていたものである。

【現在の同位置】
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 山梨日日新聞の社屋が置かれていた場所には、現在、山梨県立図書館が建てられている。


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by kaz794889 | 2010-05-09 01:20 | 新聞 | Comments(0)
2010年 03月 10日

峡中新聞 「二つの第1号」

[二つの「峡中新聞 第1号」について]
 峡中新聞は「峡陽文庫」において過日紹介したとおり、山梨日日新聞の前身として明治5年7月に創刊した新聞である。
 その創刊号である第1号に、二つのタイプの新聞が存在する。
 彫工により彫られた木版により発行されていた当時の背景を考慮すれば、文字の字体の相違は納得の範囲と考えられるが、以下の相違点が認められる二つのタイプの第1号があることは、明治5年の創刊時における諸事情の存在が伺い知れるところである。

【峡中新聞(表紙) 第1号(A):左、第1号(B):右】
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 注: 本項の説明にあたっては、便宜的に左側の第1号をA、右側の第1号Bとして紹介する。
 
 Aは、これまで峡中新聞の第1号として『山梨日日新聞百年史』や山梨県内の自治体史誌等において掲載されてきたものである。
 表紙における相違点は、①発行年月について、Aは「明治壬申七月」、Bは「八月」(Bについては八月の前部分が欠落しているため、年号と干支表示が確認できないが、「明治壬申」とあったことが考えられる。)とあり、いずれも明治壬申(明治5年)ではあるが、発行月について一ヶ月の相違が確認できる。
 ②価格表示(第1号表示の右側)については、Aは「定価三銭」、Bは「新価三銭」とある。なお、峡中新聞の表紙において「新価三銭」と表示されるのは、明治5年11月発行の第4号以降からである。

【峡中新聞(最終面) 第1号(A):左、第1号(B):右】
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 売弘所の表示について、Aにおいて黒く表示されている部分に、Bにおいては「名古屋本町通二十五丁目 文明社」と表示している。
 なお、Aと同様の表示は第2号(明治5年8月発行)においても認められるが、第3号(明治5年10月発行)以降については、Bと同様の表示となっている。

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by kaz794889 | 2010-03-10 18:04 | 新聞 | Comments(0)
2010年 03月 07日

甲府新聞

[峡中新聞から甲府新聞への改題]
 明治5年に創刊された峡中新聞は明治6年3月発行の第8号を以って改題し、同年4月発行の第9号から甲府新聞として発行されることとなった。
 甲府新聞への改題については、編集、経営ともに、その全てが発行人である内藤伝右衛門の手に移ったことがその理由の一つとして考えられるところである。
 なお、甲府新聞と改題されたものの、峡中新聞創刊以来の発行号数を通算号数とし、その後、更に改題される「甲府日日新聞」、「山梨日日新聞」と継承し、本日(平成22年3月7日)現在の通巻発行号数(第46539号)に至っている。

[甲府新聞の体裁] 
甲府新聞第9号(改題後の第1号)から第23号までは、峡中新聞と同様に、その体裁は半紙二つ折り5、6枚の冊子形式である。
 また、第24号(明治6年8月:紙面に発行日付が入るのは第26号からである。)からは紙幅を美濃判型に広げ、1頁3段、1段13字×19行の四頁となり、第82号(明治8年3月12日)からは、これまでの和紙から洋紙となり紙幅もB4判(タブロイド版)、15字×20行×3段×4頁となり、その後も題号の横組みなど紙面の体裁が整備されながら、明治9年1月12日の第333号まで甲府新聞として発行されている。

【甲府新聞 第9号】
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 甲府新聞と改題後の第1号に当たる、「甲府新聞第9号」


【甲府新聞 第10号(左)及び同第11号(右)】
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【甲府新聞 第12号(左)及び同第13号(右)】
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【甲府新聞 第14号(左)及び同第15号(右)】
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【甲府新聞第15号:最終面の広告】
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 峡中新聞の創刊以来、一般の営業広告としては最初の新聞広告である、甲府新聞第15号に掲載された、甲府柳町三丁目、枡田屋平兵衛の新聞広告。


【甲府新聞 第16号(左)及び同第17号(右)】
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【甲府新聞 第18号(左)及び同第19号(右)】
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【甲府新聞第19号:最終面の広告(社告)】
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 甲府新聞への改題後、明治6年6月発行の第14号から、これまでの月に2回の発行から、週刊による発行となり、この頃から紙面における句読点の間違えが増加するなど、木版工による彫工の質が劣え、量も乏しくなり、その反面においては、新聞発行の迅速化と発行回数の増加が必要となってきたことなどから、これまでの木版による印刷から活字印刷に改めるとともに、発行回数も月8回の発行となった。
 こうした状況について、次号からの改善等を行う旨を伝える第19号に掲載された社告である。(木版による発行はこの第19号が最後である。)


【甲府新聞 第20号(左)及び同第21号(右)】
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【甲府新聞 第22号(左)及び同第23号(右)】
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by kaz794889 | 2010-03-07 21:43 | 新聞 | Comments(0)
2010年 02月 21日

峡中新聞


【甲府八日町 峡中会社址】
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【「新聞発祥之地」石碑】
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 山梨県において最初に発行された新聞である「峡中新聞(こうちゅうしんぶん)」は、発行人である内藤伝右衛門が峡中会社を設立し、明治5年7月にその第一号が発行された。
 峡中会社が置かれていた、甲府八日町16番地(現在:甲府市中央4-2-24、NTT甲府支店前の通りを挟んだ正面)には、発行を継承した山梨日日新聞社により、創刊百年記念の一環として昭和47年6月25日に除幕式が行われた、『新聞発祥之地』記念碑が建てられている。
 峡中新聞の発行は、当時の山梨県令であった土肥実匡が明治政府の意を受け、山梨県庁学務課職員に県内の戸長役場からの通信を集めて編集し、峡中会社を発行者としていた。
 また、当時は木版印刷によっていたが、甲府に木版の彫工がおらず、内藤伝右衛門は自ら東京に出向き、四谷多賀町の版木師を呼び寄せるなどし、定価3銭、小倉半紙二つ折り八枚つづりの冊子形式による新聞発行に至っている。
 峡中新聞は明治5年7月から明治6年4月の間、第一号から第八号まで発行されていたが、明治6年1月に着任した藤村紫朗県令から内藤伝右衛門に峡中新聞の編集権が移譲されると、同年4月発行の第九号から新たに誌名を『甲府新聞』と改名している。



【峡中新聞 第一号】
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【峡中新聞 第二号(左)及び同第二号附録(右)】f0191673_1651108.jpg


 本紙とともに第二号からは附録がつくようになっている。
 その内容は「免許を受けた陸運会社が9月1日に開業するため、無免許者による商売はいけない。」旨の布達である、この後も第三号、第四号、第六号及び第七号には各本紙とともに附録がついているが、これらの附録は本紙以上に増刷(当時の本紙発行部数は概ね500~600部であったが、附録は数千部印刷されたこともあったようである。)され、附録の内容がそのまま和本としても発行されている。

【峡中新聞 第三号(左)及び同第三号附録(右)】
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 明治5年10月発行の第三号附録である「四郡区別村名表」の発行主旨について、「甲斐国改正の区別村名等詳細に取調、仮名を施し公私の便用に備える為に今般発行したものである。」と第五号に記されており、附録の内容は現行化され『甲斐四郡村名区別表』と題した和本により、明治7年に内藤伝右衛門により発行されている。

【峡中新聞 第四号(左)及び同第四号附録(右)】
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 明治5年8月に発生した大小切騒動に関する記事が全面的に解禁になったことから、第四号の附録はこれまでの経緯について詳しく伝えている。

【峡中新聞 第五号】
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 明治5年11月発行の第五号表紙にある「大小切一件落着」という朱刷りについて、『山梨日日新聞百年史』
には「これが実に本紙の色刷りの初めてである点も意義ぶかい。」と記されている。



【峡中新聞 第六号(左)及び同第六号附録(右)】
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【峡中新聞 第七号(左)及び同第七号附録(右)】
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【峡中新聞 第八号】
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 峡中新聞の紙名としては最後の号となった、明治6年3月発行の第八号である。
 第九号からは「甲府新聞」と紙名を改め、「甲府日日新聞」とビ再改名した明治9年1月13日まで発行されていた。

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by kaz794889 | 2010-02-21 20:49 | 新聞 | Comments(0)