2009年 02月 20日
印伝という言葉は、その製造手法とともに印度から伝わったといわれている。鹿皮を特殊な方法でナメして装飾した、皮革製品として特色のあるものであり、古くから甲府の特産となっている。 【本家 印傳屋上原勇七】 ![]() 甲州印伝の総本家である甲府市八日町、印傳屋上原勇七の石版画である。 現在もこの場所(甲府市中央3-11-15)で営業しており、描かれている通りは旧甲州街道である。 ━甲州印傳製造水晶細工本店 上原勇七商店之景━ ![]() この建物は明治8年に建設されたものであり、木造2階建の土蔵造りであったが、正面2階にはベランダが設けられ、手すり、円柱、窓などの意匠に疑洋風建築(いわゆる藤村式建築)の特長を有する、日本建築といった風情であったが、昭和20年の甲府空襲で焼失している。 これは明治40年代頃の情景である。 2009年 02月 18日
国民生活の安定と挙国一致体制の強化を図るため、政府米を翌年まで相当大量に持越し米として確保する必要があることから、酒の造石や白米の禁止などによる米の消費制限を行うなど、全国的な節米報国の大運動が昭和15年頃から始まった。 特に当時の山梨県においては、毎年20万石程度の米を他府県から移入することにより、ようやく県民の食糧を充足させていた状況であったため、節米を実践するための戦時食糧報国運動が強力に推し進められていった。 【戦時食糧報国運動のチラシ】 ![]() 山梨県における戦時食糧報国運動実施要綱において、実施事項のひとつとして『毎日一食程度は、ホウトウ、ウドン、ソバ、パン等の代用食を用ひる』ことを推奨させていた。 このチラシは、昭和15年6月に出されたものであり、その文面には、甲州名物ほうとうを「毎日一食」食べることにより節米報国に努力しましょうと記されている。 【山梨 常会資料 第六号】 ![]() 戦時体制の日本において、国から県を介して市町村に下された指令は、町内会から隣組へと、実情に合わせた様々な割当や指示が示されており、最終的な指示体制としては各戸が出席する隣組が開催する常会に下されて実行が命じられていたことから、山梨県は、昭和15年1月から『山梨常会資料』という広報誌を作成し、終戦の年まで定期的に発行されていた。 この第六号は、昭和15年6月1日に発行され、その内容は貯蓄と節米特集号としており、戦時食糧報国運動についても、この号で詳細な周知を図っている。 2009年 01月 24日
明治22年に市制を施行した最初の甲府市役所は、甲府市柳町72番地(甲府法人会館(旧甲府商工会議所)が建つ現在の中央4-12-21)にあった、元甲府錦町外三十六町戸長役場をその庁舎とした。 【初代甲府市役所庁舎(旧梁木学校)】 ![]() この建物は明治7年2月16日に、藤村式建築により旧梁木学校の校舎として建てられ、明治21年2月まで校舎として使用されてきたが、相生学校との統合などにより梁木学校が廃校となったため、甲府総町戸長役場として使用され、市制施行とともに引き続き甲府市役所として使用された。 その後、市政の発展による業務拡大により市役所庁舎としては狭隘となり、また建設後40年が過ぎ、破損・傾斜など使用に耐えざる状態となったことから、相生町53番地(旧春日小学校跡・現在:中央1-20-11)に新庁舎を新築することとなり、大正3年7月に着工、同4年10月17日に竣工式が行われ市役所は2代目庁舎に移転した。 旧庁舎の跡には、大正14年4月起工、同15年4月完成の甲府商工会議所が建設され、国の登録有形文化財に指定されたその建物は、甲府法人会館として現在も使用されている。 【私立山梨実践女学校校舎(昭和5年頃)】 ![]() 私立山梨実践女学校の前身は、大正5年9月、甲府市富士川町に開設された佐久裁縫女塾(開設者:佐久きく)である。 大正6年3月31日に山梨実践女学校となった後、昭和2年8月に愛宕町の梁木館を校舎として使用している。 校舎として使用した梁木館は、最初の甲府市役所庁舎を移築したものである。 建物の状況から相当改修されてはいるようだが、大正4年10月の新庁舎完成後、富士川町(山梨英和学院の西側附近)に梁木館として移築されたものであり、昭和10年代前半に山梨実践女学校は甲府市二十人町に移転するが、梁木館の建物は昭和20年7月の甲府空襲までは残されていたようである。 【私立山梨実践女学校・全校生徒職員】 ![]() 校舎正面の細部がある程度解る、昭和5年頃の校舎前である。 2009年 01月 17日
自由党総理 板垣退助は第2回総選挙に際し、山梨県内各選挙区(第1区(西山梨、北・中巨摩)、第2区(東山梨、南・北都留)、第3区(東・西八代、南巨摩))における演説会のため明治25年2月に山梨入りした。 【甲府における演説会開催案内】 ![]() 明治25年2月3日、午前10時から甲府市の若松座において予定していた政談演説会の開催案内である。 【板垣退助来県延期の案内】 ![]() 「本日、病気ノ為 発京ノ期来ル四日ニ延引致シ候…」 板垣の体調不良により、当初予定していた山梨入りの日程が、2月4日に変更された旨を伝える案内である。 この案内によれば、2月4日夕方に猿橋、2月5日正午に相興村、2月6日午前10時に甲府、同日夜は鰍沢でにおいて演説会を開催するとともに、2月5日の夜は甲府舞鶴館において懇親会の開催も伝えている。 【舞鶴館開館式招待券】 ![]() 板垣の山梨入りに際して懇親会を開催した舞鶴館は、明治24年8月に甲府市相生町15番地(現在:相生2-8-6附近)に、敷地300坪、本館総建坪80坪の西洋造の集会場として建設された。これは、8月30日に開催された舞鶴館の開館式招待券である。 【舞鶴館設立寄付金受領証】 ![]() 舞鶴館設立に関する義損金の受領証である。 設立発起人の一人である塚原等は、安政3年西条村(現在の昭和町)に生まれ、甲府新聞・峡中新報の編集長や初音新聞・山梨民報の創立など、山梨県内新聞界で活躍した人物であった。 2008年 12月 07日
【新笹子隧道開通50年】 昭和27年の新道路法により、甲府から東京を結ぶ新一級国道は、旧国道8号線(大月~富士吉田~御坂峠~石和)から甲州街道のルートである新国道20号線(大月~笹子峠~勝沼~石和)に変更となりましたが、東京との産業・経済・文化を結ぶこの大動脈には、標高1096m、急坂、屈曲が多い最大の難所である笹子峠がありました。 甲州街道の時代から、笹子峠は最大の難所であり、昭和13年3月に笹子峠の頂上付近に250mのトンネルを完成させるなど、県道として大月~勝沼間の改良は行われたものの、笹子峠越えは急勾配、未舗装、道幅の狭さな ど、山梨県の発展に大きな影響を及ぼしていたことから、山梨県は昭和27年の旧道路整備特別措置法に基づき、峠を貫く新笹子隧道を有料道路として完成させることを計画しました。 昭和29年から調査測量が始まりましたが、県の財政が悪化し財政再建団体への転落が迫ろうとしているなど、トンネル建設が危ぶまれたことから、国からの建設費を強力に要請した結果、新笹子隧道は国の直轄浩司として昭和30年10月に着工され(後に日本道路公団の設立により公団直轄工事として引き継がれました。)、総工費12億8500万円、総延長3005mのトンネルが完成し、50年前の本日、昭和33年12月7日に、関門道路トンネルに次ぐ当時日本第二位の長さを誇る道路トンネルとして開通しました。 ━新笹子隧道開通記念展覧会しおり━ ![]() 「ここに設けられた記念展覧会は、ささやかなものでありますが、新笹子隧道の実現を始め、数々の郷土建設につくされた人々に、心から感謝を捧げつつ、富める山梨は、決して迂遠なものではなく、最早われわれの手の届く所まで至ったことを、県民の皆様に御報告申上げ、これを景気として、さらに富郷への道を、力を合わせて進んでいただきますようにとの念願からであります。」と、このしおりの中に展覧会の趣旨が記さています。 開通記念展覧会は、昭和33年11月22日から12月10まで、山梨県民会館大講堂と県民会館ビル建設前の隣接地を会場として、「お猿電車」「農業展」「今昔物語」「商工展」「観光展」を内容として開催されました。 ━新笹子隧道開通記念祝賀行事プログラム━ ![]() 11月22日から12月10日までの間、県内全域において様々な記念祝賀行事が行われました。 ○ 一般バス現地見学 ○ 笹子トンネル交通量懸賞募集(山梨日日新聞主催) ○ 新笹子隧道開通記念論文の募集(山梨時事新聞主催) ○ 新笹子隧道開通記念実況放送(NHK) ○ 隧道記念打上花火 ○ 開通記念スライド上映会 ○ 連続放送劇(笹子峠物語) ○ 関係郵便局記念スタンプ ○ 関係市町村提灯行列 ○ 開通記念駅伝 ━笹子トンネル通行券(昭和34年11月18日)━ ![]() トンネルの開通後、甲府~東京間は従来の御坂峠越えの旧国道8号線166kmから136kmとなり、笹子峠の難所越えに要する時間も約45分から10分足らずで通貨できるようになり、所要時間は3時間40分となりました。 首都圏と隣接していながら、山岳地帯の交通不便による地理的悪条件の克服に新笹子隧道の開通は大きく貢献しました。 開通後、笹子トンネルは日本道路公団の有料道路(通行料:大型車600円、トラック300円、普通乗用車250円、小型車150円)として、昭和46年3月まで営業され、予定よりも7年早く4月から無料化となり一般国道として移管され現在に至っています。 2008年 11月 29日
━『小田切海洲先生略伝』 村松志考著 昭和11年11月25日発行━ ![]() 【小田切謙明】 弘化3年(1846年)12月1日に山梨県新青沼に生まれ海洲と号し、名主、戸長を務め明治9年に貸付会社補融社を設立。その後、当時の藤村県政を批判し同志と観風新聞を創刊。明治13年には峡中同進会の国会開設請願代表として上京し、大日本国会期成有志公会の創立に努力するなどし、明示14年に県会議員、自由党に入党するなど山梨県の民権運動の指導者として活躍し、明治26年4月9日に没しました。 【海洲温泉】 海洲温泉の場所、甲府市桜町68番地(現在:丸の内1-9-3)は、明治初期、荊棘の密生した一帯の原野で、小田切は毎朝この場所を散歩していました。ある時、原野の中に一部分だけ土地が湿っていたため、この場所は鉱泉ではないかと掘削したところ、予想どおりの鉱泉であり、これが海洲温泉の起源となりました。 明治17年6月には瀧泉社を組織し、この場所において温泉業を開始しました。 【海洲大権現】 海洲温泉の開設後、その周囲には家屋が建ち並び、市街が形成されていったため、町内の有志や瀧泉社の関係者は、小田切の功績を頌し、その徳業を永遠に伝えるため、温泉創業の霊神として、小田切を生神として、明治21年9月に近地に祠宇を建て海洲大権現として崇め奉りました。 その後、明治23年に近隣の料理屋から失火があり、それは町内に町の守護神が存在しないための不祥事でふるとの説が流布したため、明治21年に奉祇した海洲大権現を町内の守護神として祭事を営むこととし、甲府城の壕近くにあった祠宇を改築するため有志からの寄付金40円を集め、祠宇の地主と交渉したところ、地主は自分の手で建立するため40円の引渡しを要求したため、世話人はその要求を拒み、新たに別の場所に海洲大権現を再建しました。 ━甲府市桜町 (内湯旅館)海洲温泉全景 「絵葉書①」━ ![]() 海洲温泉の正面全景です。 中央に写る暖簾がかかった門の左側の祠が、小田切謙明の生祠である海洲大権現です。 ━海洲温泉があった場所(甲府市丸の内1-9-3)━ ![]() 海洲温泉は、甲府税務署前の通り、西方向の突き当たりである、この場所にありました。 ━内湯旅館 海洲温泉 御案内━ ![]() 案内の表には「創始者 生祠海洲大権現の祭神 小田切謙明翁」の記載があります。 温泉は「塩類酸にして、硫化水素と僅かの甘味ある塩類泉」であり、午前5時からの朝湯が名物であったようです。 ━甲府市桜町 (内湯旅館)海洲温泉全景 「絵葉書②」━ ![]() 海洲温泉の建物(絵葉書①)はその後改築されました。 絵葉書②は改築後の海洲温泉です。 小田切謙明の没後、小田切の一人娘である嗣女 浦及子が甲府市白木町の清運寺に墓碑を建立しました。この小田切家の墓所に坂本龍馬の室、千葉さな子の墓碑も建立されています。 ━『余話として』司馬遼太郎(文春文庫)━ ![]() 千葉さな子の墓碑建立に関するいきさつは、『余話として』(文春文庫)に所収されている「千葉の灸」をお読みください。 (「千葉の灸」は、朝日文庫『街道をゆく夜話』にも所収されています。) 2008年 11月 07日
【富士川舟運】 慶長12年、徳川家康は角倉了以に富士川の開削を命じ、了以、玄之の 親子二代により、慶長19年に鰍沢、青柳、黒沢の富士川三河岸から駿河 岩淵までの18里に舟を通じさせました。 富士川舟運は、江戸幕府の年貢米を江戸に回送することを主たる目的と して開かれたものですが、近世における経済発達に応じ、甲州のみでなく 信州から駿州を結ぶ物資輸送のルートとして、約300年間、経済・交通の 大動脈としての役割を担ってきました。 当時、甲州から駿河まで、徒歩で2日を要した行程が6時間ほどで到着 できました。 富士川舟運の華やかな時代は、甲府に鉄道が通じる明治36年頃まで 続きました。 ━鰍沢町ヨリ七面山ヲ望ム━ ![]() 鰍沢は、富士川三河岸の一つであり、その中心として、また、甲州の新し い玄関口として富士川舟運の歴史とともに歩んだ町です。 ━(富士川風景)鰍沢ノ河岸━ ![]() 富士川舟運による、駿河からの上り荷、甲州からの下り荷などは、鰍沢 河岸に集まりました。 これは、明治40年代頃における、富士川船への荷物の積み上げ作業 の様子です。 ━送券━ ![]() 明治初年、富士川舟運の重要性がより高まりました、このため、旅客 物資の安全輸送を図るため、時の県令藤村紫朗の主動により、富士川 運輸会社が設立され、船頭全てを会社所属とし、所属以外の者の通船 を禁止するなど、富士川通船を一手に握り会社が発展していきました。 これは、富士川運輸合資会社の送券(荷物の送り状)です。 なお、富士川運輸合資会社は、富士川運輸会社の組織替えにより誕 生した合資会社です。 ━送リ券━ ![]() 明治14年、同業会社の出現により富士川運輸会社の舟運統制が崩 れ誕生した会社の一つである、丸甲合資会社の送り券です。 ━諸荷物通送券━ ![]() 青柳河岸にあった、青柳運輸会社の諸荷物通送券です。 ━甲州富士川 鰍沢乗船場━ ![]() 富士川の鰍沢乗船場です。 ━乗船券━ ![]() 富士川船への乗船券です。 乗船地が鰍沢、上陸地が岩淵となった、富士川共同乗船所発行のものです。 2008年 11月 03日
【甲州と新民謡】 「甲州は民謡に乏しいところである。お隣りの信州には追分節を生んだを始めとして、有名な木曾節、伊那節、その他多くの特色ある民謡を有している。おなじ様な山国で特殊の民謡を生むべき環境を有しながら、甲州名物として一国を代表するやうな民謡は、遂に見当たらなかった。 恐らく無いのであろう。」紀行作家として多くの著作を残した松川二郎は、『趣味の旅 民謡をたづねて』(大正15年7月発行)の中でこのように記しています。 本来の民謡に乏しいと言われる山梨県内において、何々小唄や何々音頭といった新民謡が明治以降に作られ唄われてきました。新民謡は、地域を紹介宣伝することを主目的に作られたため、お国自慢や景観,産物が織り込まれています。 【甲斐の四季】 いわゆる新民謡として山梨県で最初のものが、『甲斐の四季』という歌です。 「此唱は明治39年甲府に一府九県連合共進会が開かれた際、多数の外来客に対して一つの唱も踊りもないのは淋しいと言って、時の山梨県治知事 武田千代三郎が自ら作って、甲州美人にふさはしい葡萄模様の揃いの衣装を着せて共進会の舞台で躍らせたのが始まりで、その後全く廃絶しておったのを近年地方民謡の勃興に刺激されて、甲府花街名物の一つとして復活されたものである。」これは、前述した松川二郎の『趣味の旅 新民謡をたづねて』(昭和4年5月発行)に記されています。 「甲斐の四季」は、作詞:武田千代三郎、作曲:清元小梅、振付:市川しんにより作られました。 ━共進会場内手踊━ ![]() 明治39年10月1日から11月10日までの間、甲府城内を中心に開催された、一府九県連合共進会における会場内舞台です。甲斐の四季は、こうした舞台においても盛んに唄われました。 【甲州音頭と新民謡】 昭和2年、東京日日新聞及び日本八景の大阪毎日新聞主催、鉄道省後援により、募集された日本八景選定において、昇仙峡と富士五湖が渓谷・湖沼としてそれぞれ日本二十五勝に選定されたことを記念して、作詞:野口雨情、作曲:中山晋平により甲州音頭が作られました。 また、昭和3年10月の甲府市制40年の年には、それを記念した県内新聞社6社の強力による新聞大会が開かれのを機会に、作詞:西条八十、作曲:町田嘉章により甲州小唄が作られるなど、全国的に各地の地名を織り込んだ小唄や音頭が盛んに作られ、山梨県においても、昭和6年に甲府夜曲、甲斐車窓行進曲、昭和9年にゑえびす講音頭などが作られました。しかし、そうした反面、甲州人の自身の手に成る、本当の甲州音頭が世に出ることを切望するといった批判もあったようです。 ━甲州音頭━ ![]() 甲州音頭はお座敷で芸妓が踊った他、村祭りや山間の宴席においてももてはやされ、ビクターから甲府芸妓連の唄によるレコードが発売されるなど、大いに流行したようです。 これは、甲府市桜町にあった料理店、三省楼が利用者向けに配布した甲州音頭の歌詞カードです。 ━甲州民謡━ ![]() 甲府市太田町にあった料理店、望仙閣が配布した甲州民謡の歌詞カードです。甲州音頭、甲州小唄、甲斐の四季、粘土節が掲載されています。 ![]() 右側は望仙閣が配布した甲州音頭の歌詞カード、左側は、銘酒「富水」の醸造元である秋山酒造店(南巨摩郡増穂村青柳)が配布した、甲州音頭、甲州小唄、甲斐の四季、粘土節が掲載された歌詞カードです。 ━山梨の民謡集━ ![]() 戦後も武田節に代表される新民謡がいくつか作られました。これは、昭和20年代後半頃に、山梨時事新聞社が発行した『山梨の民謡集』です。13頁ほどの小冊子ですが、戦前期の甲州音頭を始めとした新民謡のほかに、戦後、昭和24年に誕生した甲府音頭、湯村夜曲などが掲載されています。 2008年 10月 26日
━甲府城の木版画━ ![]() 明治39年11月22日23日の両日、甲府城内で開催された、第二回日本赤十字社山梨支部総会を記念して配布された木版画です。左側の二階建て洋館が機山館です。 総会開催直前まで、一府九県連合共進会が開催(明治39年10月1日~11月10日)されていたため、その際の一部陳列館や模擬天守閣は、そのままの状態で総会の来賓者に供覧させていました。その際の景観を木版画にしたようです。 【機山館】 ━東宮殿下甲府行啓御滞泊所機山館━ ![]() 機山館は市町村及び民間有志の出資する財団の事業として工事が進められ、明治39年9月に甲府城内稲荷曲輪(以前、青少年科学センターのあった場所)に公会堂として完成しました。 また、明治45年3月に東宮殿下(後の大正天皇)が山梨に行啓された際には、御滞宿所としても使われました。その後、大正6年に建物が山梨県有となり、山梨県公会堂として多くの文化イベント等に使用されてきたようです。 ━甲府舞鶴城跡之公園━ ![]() ![]() 壕に架かる遊亀橋から北方向の景観です。機山館が甲府城内に建っていた頃はこのような景観だったのでしょう。現在は同じ方向に、近年完成した高層マンションを見ることができます。 ━山梨県教育会館━ ![]() ━大講堂━ ![]() 昭和6年11月の通常県会において、機山館(木造洋風二階建、建坪約220坪)を公会堂として廃止し、山梨県教育会に教育会館として使用させるために建物を無償譲渡する。 また、教育会館として建物の使用を止める場合は、山梨県に無償還付する。といった議案が上程され、起立多数で可決されました。 なお、甲府城内の現在地では教育会館として使用するには不適当であるため、相当の修繕・改造を加え、新たに県庁構内に移築することとし、昭和7年9月に新たに県庁構内(現在:県庁本館の建つ場所)に移築しました。 これは、移築後の山梨県教育会館とその内部(二階の大講堂)です。 【その後の教育会館】 移築後、数年が経過した昭和13年2月2日未明、風速5m余の強風の中、甲府駅前(甲府市橘町1番地)の2階建共同アパートの一室、炬燵附近から出火し、全焼24戸、半焼3戸、破壊10戸の甲府駅前大火がありました。 火事も一旦は鎮火し、消防も引き上げ作業を行っていた午前5時頃、教育会館に火が飛び火し屋根裏から燃え上がり、それに気づいた時には既に火勢が早く、機山館を永く記念する教育会館は烏有に帰し全焼しました。 2008年 10月 25日
【株式会社甲府ビルテ゜イング】 ![]() 昭和初期の金融恐慌以降、百貨店などの新たな小売業態として、松坂屋、三越、松屋、高島屋、白木屋などの県外百貨店が数回に渡り、甲府において出張販売を行うなど、活動が活発になりました。こうした状況は、県外百貨店が甲府を地方都市として好望の地であると目論んでいるということから、市内の小売業者にとっては、その影響は小さくなかったことから、こうした県外百貨店の進出を食い止めるための共同店舗施設が計画された結果、『株式会社甲府ビルデイング』が県内有力者を中心に昭和5年12月に設立されました。 【ビルの建設】 昭和6年2月、森田組、飛島組、木田組、大林組などによる入札の結果、大林組が落札し、同年3月22日より建設に着工し、昭和7年4月頃に建物の外装はできたものの、経済不況による資金計画の不具合から、昭和11年頃まで債権問題による扮装のため立ち行きがままならない状態が続いたことから、ビル隣接地の菓子舗松林軒がこの建物を引き継ぎ、山梨県内最初の本格的百貨店として昭和12年10月2日に松林百貨店が開業しました。 【松林軒百貨店】 ![]() ![]() 松林軒百貨店は、地上6階・地下1階、売場面積5000㎡、5階に大食堂、6階にホールや催事場を設けるなど、当時の甲府における高層の大店舗でした。 しかし、昭和20年7月の甲府空襲で外観を残して焼失し、その姿が写った写真は甲府空襲のシンボル的な姿として今も多くの人々の記憶にあると思います。 昭和29年には、浜松市に本店を置いた松菱百貨店の系列として、甲府松菱として営業していましたが、山梨交通が国際興業の系列となった際に、甲府松菱が買収されるとともに、売場面積増設と甲府駅前への移転を行い、店名も山交百貨店と改称されました。 その後、松林軒百貨店ビルは総合娯楽ビルとして、甲府会館の名称となり近年まで現役のビルとして使われてきましたが、老朽化に伴い取り壊され、その跡地にはホテルが建てられています。 「松林軒喫茶部のメニュー表」 ![]() 「屋上7階部分にあった写真部の案内」 ![]() ━甲府名所 桜町通り━ ![]() 桜町通りを南側から北方向の景観です。通りの左側に甲府桜町郵便局、右側には永井呉服店、芦沢漆器店など、二階建て程度の店舗が並ぶ中で、左側の松林軒百貨店は、その大きさが際立っていたことが分かります。 < 前のページ次のページ >
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