カテゴリ:木喰仏( 1 )


2008年 12月 30日

教安寺と木喰仏

 全国各地を行脚しながら木喰が彫り続けた、いわゆる木喰仏・微笑仏は、現在も全国に1000体以上が残されているようです。
 木喰仏が世に出る機縁は、淺川巧の案内で日野春辺の散策と小宮山清三宅の朝鮮陶器見学を目的に山梨県入りした柳宗悦が、大正13年1月9日に小宮山宅の文庫蔵に置かれた二体の木喰仏の姿に触れたことに始まります。

【教安寺(甲府市城東2-8-4)】
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 全国を行脚していた木喰が最後に山梨を訪れたのは、木喰が91歳となった文化5年です。
 その際、木喰は教安寺に七観音を造立しました。
 この事実は、前述した柳宗悦の木喰仏調査に関する協力者であった小宮山清三の発見により確認されたものです。 

【「教安寺木喰仏 木喰研究の愕く可き新発見」新聞記事の一部】f0191673_20352310.jpg

 教安寺の木喰仏について、大正14年2月2日に小宮山清三自身が新聞に記した記事によると、大正14年1月上旬に、吉岡順作(甲府市富士川町9番地の医師)から、教安寺に木喰仏らしいものがあるとの報告があり、1月24日の夕暮れに教安寺を訪れると、住職から本堂に通され、御本尊に向かって右隅の天井に食い付いたような、高くて狭い一枚の棚にズラリと真っ黒な七体の木喰仏があり、本堂入口の明るい場所に移して眺めても地肌が見えない程に黒かったため、水で仏像を洗ったところ、七体それぞれの背中には作造年月日が記載してあり、また、七体の木喰仏を勧請した観音堂は、間口二間半、奥行三間半の建物として、庫裏の裏に往来に沿って最近まで東面していたようですが、発見当時には既に取り壊されていたようです。


 この発見については、当然の如く柳宗悦にも伝えられ、大正14年3月24日に「教安寺七観音」と題した文章を雑誌『木喰上人之研究』第二号に発表(柳宗悦全集第七巻に収録)しています。

━木喰五行上人作七観音の像━
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 教安寺で確認された木喰仏です。
 【右から】子安観世音、千手観世音、大馬頭観世音、聖観世音、如意輪観世音、十一面観世音、大順てい観世音です。
 如意輪、千手観音には文化5年4月14日、聖、十一面観音には文化5年4月15日、子安、馬頭、順てい観音には文5年4月16日と背中に記載されていたようです。

━弁財・木喰観音堂の景━f0191673_2065428.jpg


 木喰仏の発見以降、新たに建てられた、弁財天(文禄年中の甲府城落成に際し、浅野長政公開運守護の本尊として教安寺に納められたもの)と木喰七観音の堂。
 
━甲府 教安寺本堂仏殿の景━
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 教安寺は文化初年の火災により烏有に帰し、本堂は文化10年に再建されました、これがその建物です。(木喰が教安寺を訪れたのは本堂再建前の文化5年です。)

【現在の本堂】
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 教安寺の伽藍と七観音は、昭和20年7月6日の甲府空襲により残念ながら焼失しています。

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by kaz794889 | 2008-12-30 18:52 | 木喰仏 | Comments(2)