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2009年 02月 28日
明治22年7月1日、甲府総町(錦町他36町)、上府中総町、飯沼村、稲門村を以って甲府に市制が施行された。 市制施行時における甲府市の戸数は6,855戸、人口は31,128人であり、同年中に全国で市制が施行された33市の内、甲府は戸数・人口数で21番目の市制施行地であった。 ━甲府市制二十年紀念絵葉書 ①━ ![]() 明治42年、市制施行20年を記念し「甲府市制二十年祭祝賀会」により発行された、記念絵葉書である。 甲府市旗と柳町時代当時の甲府市役所庁舎をデザインしたこの絵葉書のほか、他のデザインによる以下の絵葉書が発行されている。 ━甲府市制二十年紀念絵葉書 ②━ ![]() 市章の武田菱の中の写真は、上から時計回りに、山梨県庁舎、歩兵四十九連隊、甲府市街、甲府市役所である。 ━甲府市制二十年紀念絵葉書 ③━ ![]() 甲府城跡と浅野長政像及び長政の花押である。 ━甲府市制二十年紀念絵葉書 ④━ ![]() 上段右側から順に、初代市長・若尾逸平、二代、三代市長・高木忠雄、四代市長・石原彦太郎 下段右側から順に、五代、六代市長・小林董作、七代市長・若尾民造、八代市長・加藤平四郎である。 市制施行二十年の節目にあたる、明治42年当時の市長、加藤平四郎は、明治32年8月から34年8月まで山梨県知事も務めている。 ━甲府市制二十年紀念絵葉書 ⑤━ ![]() 上段の6名は市参事会員であり、右側から順に、雨宮源兵衛、横沢米太郎、矢島栄助、若尾民造、星野嘉兵衛、石原光三である。 下段の3名は右側から、加藤平四郎市長、野口英夫市会議長、堀口兼三郎助役である。 2009年 02月 21日
甲府市岩窪町円光院下にある武田信玄の墓所は、武田二十四将の一人土屋右衛門の屋敷跡といわれ、天正元年4月12日に死亡した信玄の遺骸は、その屋敷内で火葬されたと伝えられている。 ━甲斐武田信玄ノ墓━ ![]() 明治39年に改修される前の武田信玄の墓所である。 現在の碑石が建立される前、高さ一尺九寸、横一尺ニ寸の古碑が建立されており、当時の人々は、この場所を火葬塚、魔縁塚と称しており、ここを犯す者には必ず祟りがあるとして近づく者もなかったことから、安永8年、甲府代官であった中井清太夫が試みにこの場所を発掘したところ、信玄の戒名が刻まれた石棺を確認したため、古碑とともに石棺を元通り埋め戻した上、この地を信玄の墓とし定め、安永8年に、今も残る碑石が建立されたのである。 ━(甲斐国)武田信玄公の墓━ ![]() 今も残る、安永8年建立の信玄碑石。 ━(甲斐国)武田信玄公の御墓━ ![]() こうした経緯の中、年月の経過による劣化とともに、明治31年の暴風雨により、信玄の墓所も荒廃していった。このため、こうした状態を憂い明治39年開催の一府九県連合共進会の開催にもあわせ、当時の山梨県知事武田千代三郎の妻である浜子等を発起人として、繭の寄附を募り、集まった繭の資金化を行うなどして墓所の整備・改修などを実施したのである。 これは、整備・改修後の墓所である。 ━甲斐甲府 武田信玄公御廟━ ![]() 整備・改修の内容は、墓所の修繕工事(石垣、廃銃による鉄柵、周囲を廻る堀の新設など)及び道路改修を行ったのである。また、明治39年10月12日の午前9時から改修なった信玄墓前において落成式が挙行された。 ━武田機山信玄公之廟━ ![]() 明治39年の落成式当日は、信玄の墓所境内において剣道、柔術、剣舞などの催しが開催され、絶えず花火が打ち上げられた。また、落成式への参列者以外の参拝者も頗る多い状態であったようだ。 2009年 02月 12日
━[甲府名所]甲府市庁━ ![]() 明治22年市制施行とともに開庁した柳町72番地にあった甲府市役所庁舎については、当ブログで以前紹介したところである。 初代庁舎は、その後の市政発展とともに狭隘となり、明治末年頃から市役所庁舎の新築移転問題が起こり、錦町の旧山梨県師範学校跡(現在の中央公園)、第十銀行本店(現在の山梨中央銀行本店)隣接地などが敷地の候補となったが、相生町53番地(現在:中央1-20-11)にあった春日小学校を工町の旧工小学校跡(現在:城東1-16-12)に移し、その跡地に新庁舎建設が決定し、対象3年10月着工、同4年5月13日に上棟式、同年10月17日の市制祭当日に竣工式が行われた。 なお、この新庁舎は、昭和20年7月6日の甲府空襲で焼失している。 ━甲府市庁舎改築記念 絵葉書1━ ![]() 甲府市役所新庁舎の総工費は62,257円、2回に亘る競争入札にも関わらず、予定金額を以って請け負うものがなかったことから、新庁舎建設は甲府市の直営工事として大正4年1月から建築事務所を開設し、それぞれの部分請負を定めて工事の進行を図るなどして工事をすすめていった。 ━甲府市庁舎改築記念 絵葉書2━ ![]() ━甲府市庁舎改築記念 絵葉書3━ ![]() 竣工当時の甲府市役所庁舎の外観、内装設備ともに、地方都市としては稀に見る威容を認められたが、その後の市政発展につれてこの新庁舎もやがては狭隘となり、昭和12年錦町1番地の旧県庁舎跡地(現在の市役所所在地)2,300余坪を買収し、水道部新庁舎を建築移転し市役所本庁舎の狭隘解消を図っている。 2009年 01月 13日
【甲府地方裁判所新庁舎】 ![]() 甲府地方裁判所は本日1月13日から、4代目の新庁舎において執務が行われる。 明治5年9月に山梨裁判所が甲府に初めて置かれ、6年1月に長禅寺前の旧甲府代官所跡に移った後、甲府錦町3番地(現在の所在地)に疑洋風建築の新庁舎が9年3月に落成して以来133年、甲府地方裁判所はこの場所に置かれている。 ━甲府地方・区裁判所(甲府市錦町に在り)━ ![]() 大正5年5月、旧庁舎跡に完成した2代目の庁舎。 当時の正門はメインストリートである錦町通りに面していたが、昭和20年7月の甲府空襲によりこの庁舎は焼失した。(甲府空襲による罹災後、旧庁舎南側に鉄筋コンクリート6階建ての3代目新庁舎が昭和27年に建設された。) ━陪審法廷(甲府地方裁判所)━ ![]() 甲府地方裁判所の陪審法廷である。 陪審法は大正12年4月18日に成立し、昭和3年10月1日から施行されたが、その後の戦争激化などに伴う市町村事務の負担増加などから、「陪審法ノ停止ニ関スル法律」により、昭和18年4月1日から陪審法の施行は停止されている。 なお、甲府地方裁判所における最初の陪審裁判が開かれたのは昭和4年3月である。 ━陪審員評議室(甲府地方裁判所)━ ![]() 2009年 01月 12日
━山梨県立病院 本館━ ![]() 山梨県病院の移転・新築に伴い、加護谷祐太郎(建築家・工学士)の設計により大正5年2月に完成した山梨県病院の本館である。 大正5年2月27日に新病院の新築落成式が行われ、28日、29日の両日は新病院の参観日として一般市民にも開放され、3月1日から新病院における診療が開始された。 【明治42年 甲府市街図】 ![]() 最初の山梨県病院は錦町6番地(左図で「県病院」とある場所:現在の中央1-11の南側)に、明治9年5月に建設(疑洋風建築(藤村式建築)の木造2階建)され、5月29日に開院式が行われた。 その後、建物の老朽化等による改築の必要性から、明治43年3月に新築移転した山梨県師範学校跡地(左図「県病院」と「裁判所」の間の白い部分)に、病院が新築移転(敷地面積4902坪、建物総面積1727坪)することとなった。なお、旧病院本館などの建物は校舎用材として、大正6年に郡立山梨蚕業学校(現在の山梨県立園芸高校)が購入した。 【山梨県病院跡(中央公園)】 ![]() 昭和45年10月26日に甲府市富士見に移転開院するまで病院があった中央公園。 ━山梨県立病院 庭園之一部━ ![]() ━山梨県立病院 廊下ノ一部━ ![]() ━山梨県立病院 汽鑵室━ ![]() 北浦重之(大蔵省技師・工学士)に委嘱して完成した、山梨県病院の目玉施設でもある汽鑵室。 ━山梨県立病院 X光線室━ ![]() レントゲン装置は、甲府市錦町の薬舗木綿屋の主人である成島治平(昭和2年から6年までの甲府市長)の寄附によるものであり、これにより山梨県で初めてのレントゲンによる診断治療が実施された。 2009年 01月 09日
今日は朝から雪模様、甲府は初雪でした。 絵葉書で甲府の雪景をご覧ください。 ━甲府市の雪景━ ![]() 甲府城の天守曲輪から甲府市街南方の雪景色です。大正中頃の状景でしょうか、広場も遊亀橋も一面の銀世界です。 ━太田町公園の雪景━ ![]() 太田町公園の雪景色です。明治40年代の風景です、橋の右側、木立の後ろが一蓮時です。 池の水もシャーベット状態のようです、寒さがヒシヒシと伝わってきます。 2009年 01月 04日
救世軍と聞くと、年末の助け合い社会鍋募金が思い浮かびます。 救世軍の公式ホームページによると、救世軍はイギリスに本部を置き、世界117の国と地域で活動する国際的なキリスト教(プロテスタント)の団体であり、明治28年における14人のイギリス人による活動が、日本における最初の活動であったようです。 ━(救世軍会館)正面━ ![]() この絵葉書は甲府の救世軍会館「七周年記念会館改造」として、救世軍甲府小隊が作成したものです。 甲府に救世軍の組織がいつ頃置かれたかは確認していません(昭和3年発行の『甲府市制四十年記念誌』には救世軍甲府小隊の記載があります。)が、甲府市柳町111番地(現在:中央2-12-26)に、この救世軍会館は置かれていました。 ━(救世軍会館)内部━ ![]() 2008年 12月 31日
村松新道、陸軍からの甲府城払い下げなど、村松甚蔵の名をご存知の方も少なくないでしょう。 村松甚蔵は、明治2年12月12日に甲府柳町28番地(現在:甲府市中央4-4、共済駐車場の場所)の砂糖問屋、上野屋の四男育三として生まれ、明治27年に兄善蔵の後を相続し先代甚蔵を襲名しました。日清製粉や富士川電力などの重役、大正8年に県会議員、昭和2年に衆議院議員などの公職を務めるとともに、大正6年4月には当時の金額で11,622円を納付して陸軍省から甲府城跡の払い下げを受け、山梨県に寄附するなどの篤志家でもありました。 また、文化の面においても、「明治維新後、西洋文化の輸入とともに洋書や活字本が勢力をしめ、和漢の典籍は、日に月に散佚し、遂には聖賢の数までも泯滅に至ることを嘆き、和漢の古書類の蒐集保存を志し、約20年間に18,000余巻を集めた」と後に自身が記した、南塘文庫を明治43年に設立しています。 【舞鶴城公園内 山梨県教育会事務所(大正14年頃)】 ![]() この建物は、山梨県教育会事務所並附属図書館として県から土地・建物を借り受け、明治44年6月までは甲府市桜町65番地(現在:丸の内1-12-4附近)にありましたが、借用期限切れと同時に建物を山梨県教育会が譲り受け、同年11月に甲府城内に移転改築されたものです。 村松甚蔵が設立した南塘文庫の書物は、大正14年頃まで、この附属図書館に保管を依頼していました。 【山梨県教育会事務所並附属図書館の跡】 ![]() 甲府城内の武徳殿正面前、最近まで山梨県議会議員会館の建っていた場所です。 ━汲古館 南正門斜面全景━ ![]() 南塘文庫を収める独立の施設図書館「汲古館」として、大正14年9月に甲府市桜町63番地(現在:中央2-5-20)に完成した建物。 開館後、一週間で1,400余人が見学に訪れたようです。 ━汲古館 南塘文庫階上階 下内部━ ![]() 汲古館の内部。 南塘文庫の蔵書については、村松甚蔵が独自の方法によって分類した『南塘文庫和漢図書分類目録』が大正4年11月に発行されています。 【汲古館跡の現在】 ![]() 汲古館を偲ぶものは、その跡地に何も残っていません。 ━汲古館西門側面全景━ ![]() 【西側から眺めた汲古館跡の現在】 ![]() 汲古館の建物と蔵書は、昭和20年7月の甲府空襲により全てが焼失しました。 斜め前(甲府市社会教育センターの場所)にあった進徳幼稚園やその裏手にある甲府税務署などは甲府空襲を免れています。僅か道路一つを隔てて明暗が分れたのでしょうか。 2008年 10月 20日
【甲府放送局開局記念】 ![]() 大正14年7月12日、東京芝の愛宕山からラジオの本放送が開始されました。 東京からのラジオ放送は甲府においても聴くことができたようですが、特異 な山岳地勢から雑音が多く、放送の中断や聴きにくさといった放送事情があ ったため、こうした現状に対する市民の要望からNHK甲府放送局の誘致運 動が始まり、昭和12年12月21日に全国で33番目のNHK放送局として開 局しました。 当日の山梨日日新聞一面は「待望十三年 祝 甲府放送局開局」の大見 出しで開局を伝えています。 当時の甲府放送局要覧には次の記録があります。 「位置」 甲府市飯田町字藤東791 「敷地面積」 約1400坪 「建築面積」 約94坪 「構造様式」 鉄筋コンクリート造平屋建、現代実用建築様式 「鉄塔」 自立式高62.5m、間隔90m 「工程」 起工昭和12年5月12日、竣工同年10月31日 ![]() 非情に小さくて分かり難いですが、真ん中の建物が放送局の建物であり、その両脇に建つ鉄塔が、前述の要覧にある鉄塔です。 ![]() 円に囲まれた写真が放送機室、その下が演奏室です。 ![]() 現在の甲府放送局は昭和12年開局当時の場所にありますが、何年か先には甲府駅北口の旧国鉄甲府機関区のあった一帯、甲府中央消防署の隣接地に新築移転が予定されています。 写真は、その新築移転予定地です。 2008年 10月 19日
【征清紀念碑のこと】 ![]() 木立の中で確認し難いと思いますが、これは、武田神社内の藤村記念館(現在移築工事中)の前にひっそりと建っている「征清紀念碑」です。 石の台座に鉾形の銅碑ですが、その鉾形部分に「征清紀念碑」の文字が、またその下には「陸軍大将大勲位功二級彰仁親王篆 明治廿九年二月山梨奉公義会建之」と刻まれています。 同碑の裏面を確認する限り、日清戦争において山梨県から二千余人が従軍し、死者百有余人という壮烈な戦いであったことから、山梨奉公義会(会長は当時の山梨県知事 田沼 健)の会員によりこの碑を建立したとの内容が記されてています。 またこの碑の隣には明治31年に建立された「征清役従軍死者忠魂碑」と記された石碑があり、そこには日清戦争での戦病傷死者143名の氏名が刻まれています。 【(甲府名勝)征清紀念碑】 ![]() 前述した武田神社境内に建つ「征清紀念碑」の明治末頃の状況です。 碑の周囲の石組みや門柱など現状とは相当に景観が変わっています。 < 前のページ次のページ >
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