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2012年 04月 15日
【青龍山 瑞泉寺】 ![]() 瑞泉寺(甲府市中央3-7-17)は浄土宗府中五ヶ寺(誓願寺、尊躰寺、教安寺、来迎寺)の一つとして知られた古寺であり、明応7年(1498年)に武田氏の加護のもと、運公上人が鎌倉にあった錦屏山瑞泉寺を古府中に移し造立したのが始まりであり、文禄2年(1593年)に現在の場所に移されたという。 【瑞泉寺境内の太子堂】 ![]() 瑞泉寺本堂に向かう参道左側に建設された太子堂完成時の集合記念写真である。 写真の撮影時期の詳細は不明であるが、左側に写る煙突と周囲の建物は、大正15年5月に創業した雨宮製糸場(山田町50番地)と思われる。 【現在の太子堂】 ![]() 瑞泉寺の本堂、庫裏などの堂宇は昭和20年7月の甲府空襲で焼失している。 太子堂は戦前期と同じ位置に再建されているが、後方にあった製糸場はすでになくなっている。 後方に写る建物は、製糸場があった奥(西側)に数十年前に建設されたマンションである。 2011年 04月 23日
【お万様の墓】 ![]() 本遠寺は徳川家康の側室であった、お万の方が身延山久遠寺22世日遠上人に深く帰依し、慶長14年に伽藍を造営寄進して開山された。 お万の方が逝去すると、徳川御三家のひとつである紀州大納言頼宣(徳川頼宣)が生母の菩提のために建立した墓所が、お万様の墓である。 【お万様の墓 正面】 ![]() お万様の墓は、関西形式の宝篋印塔で欠損部位はなく保存状態も良好であること。また、山梨県の近世大名墓の墓制を物語る稀少な遺構であり、当時最上級の技術や部材により造営されていることから、平成20年5月8日に「徳川家康側室養珠院墓所」として山梨県指定の史跡に指定されている。 【甲州大野山本遠寺 お万様の墓】 ![]() 2011年 04月 17日
【別格本山 大野山 本遠寺】 ![]() 本遠寺は慶長14年に身延山二十二世の日遠上人が退隠して開創した寺で、日蓮宗の本山42ヶ寺の一つとして列せられ、開基は日遠上人に帰依した徳川家康の側室養珠院(お万の方)であり、寛永3年に仏殿を建立し寄進している。 その後、養珠院を生母とする和歌山藩主徳川頼宣によって堂宇の造営が行われ、承応4年に落成したが、幕末の慶応3年3月の火災で伽藍壮麗を誇った堂舎の多くを焼失し、僅かに残った堂宇が現在の本堂と鐘楼堂である。 【本遠寺 本堂】 ![]() 本堂は桁行五間、梁間七間、屋根は入母屋造、桧皮葺で南面し正面に一間の向拝が付いている。 本遠寺本堂は、日蓮宗の聖地である身延山周辺にある江戸時代初期の本堂遺構としては唯一のものであり、昭和61年1月22日に国の重要文化財に指定されている。 ━甲州大野山本遠寺本堂━ ![]() 【本遠寺 鐘楼堂】 ![]() 鐘楼堂は仁王門から本堂に直進する参道左手にあり、建立年代は梵鐘に刻まれた銘から、慶安3年10月頃までに完成したものと考えられている。 建物の桁行三間、梁間二間、楼造で屋根は入母屋造、桧皮葺で二層の鐘楼となっている。 本堂と同じく鐘楼堂も昭和61年1月22日に国の重要文化財に指定されている。 ━甲州大野山本遠寺鐘楼━ ![]() 2010年 09月 20日
【光沢寺 経蔵】 ![]() 光沢寺(甲府市相生3-5-7)は浄土真宗東本願寺派に属し、東本願寺甲府別院でもある寺院である。 昭和20年7月の甲府空襲により甲府市街にあった殆んどの寺院が罹災し堂宇が焼失している中で、罹災を免れ、光沢寺に現存する最も古い建造物がこの経蔵である。 経蔵の規模は桁行7.6m、梁間8.35m、重層、塗篭、寄棟造であり、経蔵一階正面入口には須弥壇をもった厨子があるとのことであり、内部の墨書銘によれば、元禄年間に辻藤右衛門がこの経蔵を造営寄進したと記されており、その墨書により造立年代が明らかになっている。 【光沢寺 経蔵側面】 ![]() 経蔵前に設置された案内板「経蔵の由来」によると、経蔵の一切経は明治初期の廃仏毀釈により、その悉くが取り払われてしまったと記されている。 【光沢寺 経蔵前の石橋】 ![]() 経蔵が建立された時期に併せて造られた江戸期のものだろうか、経蔵に向かう直線の道に配された池に架かる石橋である。 2010年 02月 28日
【恵林寺拝観のパンフレット】 ![]() 甲州市塩山小屋敷にある乾徳山 恵林寺は、元徳2年(1330年)、夢窓国師によって開山された臨済宗妙心寺派の古刹である。 室町時代には衰退した時期があったものの、天文10年(1541年)に武田信玄が甲斐の守護になると、恵林寺再興のため京都妙心寺から諸名僧を次々と講じ寺運興隆を図るとともに菩提寺として定めている。 その後、武田氏滅亡直後の天正10年(1582年)4月3日、織田信忠によって攻められ、当時の大伽藍は悉く焼失し廃墟となったが、同年10月に徳川家康が寺領29石余を寄進するなど恵林寺の再興を図っており、後に甲斐の領主となった柳沢吉保は寺の修復を図るなどし自らの墓所も恵林寺に定めている。 また、慶応4年(1868年)当時の境内は36,400坪を有し、堂宇も仏殿以下20余棟の大伽藍であった。 ━甲府八景 恵林寺境内 信玄公手植の桜━ ![]() 写真に写る門は、山梨県指定文化財として昭和60年3月19日に指定された「恵林寺三門」。 また、中央に写る古木が、信玄公手植えの桜であり、明治三十年代後半の状況である。 【現在の同位置】 ![]() 白石が敷き詰められているなど境内は整備されており、信玄公手植えの桜については、その面影も無くなっている。 ━恵林寺(武田氏菩提所 甲斐東山梨郡松里村)━ ![]() 徳川家康を始めとし江戸時代以降から再興されてきた伽藍も、明治38年の失火により、仏殿、大庫裏など堂宇の主要部を焼失している。写真中央の礎石部分は、その際に焼失した仏殿跡である。 【現在の同位置】 ![]() 現在、仏殿跡には昭和44年に移築された元文5年(1740年)建立の開山堂が建てられている。 2009年 09月 02日
【大泉寺の総門①】 ![]() 甲府市古府中町5015にある曹洞宗 萬年山 大泉寺は、大永元年(1521年)に武田信虎が開基、天桂禅長を開山として開創され、信虎、信玄、勝頼の武田家三代の帰依が厚く、浅野家、柳沢家の庇護を受けて繁栄した禅寺である。 総門から中雀門、本堂と続く参道は両側を杉木立に被われ、森閑とした寺域は禅寺の落ち着いた雰囲気が印象深く、心地好さが感じられる。 また、『絹本着色武田信虎像』『絹本墨画松梅図』(国重文)、『大泉寺文書』『金銅金具装笈』(県文)、『紺紙金泥法華経』(市文)などの寺宝を今に伝えている。 ━甲府市外大泉寺━ ![]() 明治30年代の大泉寺正面の景観である。 【大泉寺総門②】 ![]() 大泉寺総門は、甲斐国主となった柳沢吉保が宝永ニ年に創建した永慶寺の門であったが、吉保の子供である吉里が甲府から大和郡山に所替となった享保9年に永慶寺が廃寺となった際に移建されたものであり、平成5年9月1日には甲府市の文化財として指定されている。 ━甲斐 大泉寺 総門前之景━ ![]() 明治40年代の総門である。 【大泉寺本堂】 ![]() 大泉寺の本堂(法堂)及び庫裏は昭和20年7月の甲府空襲により焼失しており、現在の本堂は昭和40年に再建されたものである。 ━甲府 大泉寺━ ![]() 甲府空襲により焼失した大泉寺法堂の明治40年代頃の景観である。 【大泉寺御霊殿】 ![]() 柳沢家が寄進した武田家三代の木造が安置された御霊殿である。 ブロック塀に囲まれ、その内側の様子を見ることはできないが、御霊殿の裏には三基の墓碑(中央が信虎、右側が信玄、左側が勝頼)が二重の基壇上に並び据えられている。 なお、この墓碑の場所は武田信虎の墓として昭和35年11月7日に県の史跡に指定されている。 ━(甲斐国) 萬年山大泉寺武田御三公の霊廟━ ![]() 明治40年代の御霊殿の景観である。 礎石の上の木柵は、現在ブロック塀に改修されている。 2009年 04月 03日
![]() 平成9年に甲斐善光寺の本尊であり国の重要文化財(昭和48年6月6日指定)である「銅造阿弥陀如来及両脇侍立像」の80年振りの御開帳を機に信濃善光寺と同様に7年に一度の御開帳が甲斐善光寺においても行われることとなったが、本年も4月5日から5月31日まで、甲斐善光寺の御開帳が行われる。 ━甲斐 善光寺━ ![]() 甲斐善光寺(正式名称:定額山浄智院善光寺)は武田信玄の開基によるものであり、永禄元年、現在の地に伽藍を建立し諸仏を安置したことが始まりとされている。 ━(甲府名所) 善光寺本堂━ ![]() 甲斐善光寺の本堂は武田信玄により永禄8年に建立されたが、宝暦4年に門前民家の失火により金堂を含む堂塔の全てが烏有に帰したが、30余年の建設に係る歳月を経て、寛政8年に再建された本堂が現在も残る写真の本堂である。 なお、後述する善光寺山門とともに、善光寺本堂は国の重要文化財として昭和30年6月22日に指定されている。 【本堂総修繕寄進金受領証】 ![]() 安政2年の大地震による鎌倉三代将軍御影堂等の堂宇の崩壊、明治維新後の廃仏毀釈による打撃により寺運が一転するなか、大伽藍の維持は容易ならざる状況となり、歴代の住職、檀信徒の努力が続けられた。 こうした中、明治16年に本堂檜皮葺屋根の雨漏りによる傷みが限界に達したため、募金や宮内省御下賜金による修理、同24年頃の本堂屋根の銅板葺き、同40年の本堂屋根の鉄板葺き、大正3年の本堂及び山門の大修理など、文化財指定までの大伽藍に対する維持・管理が続けられていった。 なお、昭和20年7月の甲府空襲においては、附近民家・山林が被災し寺域に不発弾が落ちたにも関わらず、本堂、山門は奇跡的に焼失を免れている。 ━(甲府名勝) 定額山善光寺山門━ ![]() 山門も本堂と同時に宝暦4年に焼失し、明和4年に現在の山門の上棟供養が行われているが、現在の本堂より先に完成しているものの、完成時期は明らかではない。 なお、本堂・山門の破損状態が著しくなったため、昭和32年4月から本堂・山門の解体修理が進められていったが、昭和34年8月14日に山梨県内を襲った7号台風の影響により、本堂が傾き、山門は倒壊の憂き目にあったものの、翌年7月から山門の再建工事が着手され、37年3月末には本堂・山門共に修理が完成している。 ━(甲斐国) 善光寺の大仏━ ![]() 現在は本堂に向かって左側にある銅造毘廬舎那仏坐像である。 この写真の当時は、本堂右側にあったが、収蔵庫建設に伴い昭和45年に現在の場所に移坐された。 江戸後期作の山梨県内における古い銅像では最大であり、江戸後期が製作年代と言われている。 < 前のページ次のページ >
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