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カテゴリ:藤村紫朗( 5 )


2015年 06月 13日

熊本市 玉龍山 禅定寺

【禅定寺参道】
f0191673_12073672.jpg 熊本市中央区横手の玉龍山 禅定寺(ぜんじょうじ)は、JR鹿児島本線と九州新幹線が並行する高架の西側に建つ、16世紀に創建された曹洞宗寺院である。
 
 熊本県の調査によると、禅定寺境内にある1137基の墓の内、489基は江戸期に建立されているものであり、加藤家や細川家の家臣団の墓が建立時のまま現存している姿は全国でも例がなく、文化的、歴史的に貴重な状態で残されているという。
















【禅定寺本堂前】
f0191673_12080331.jpg かつて、この位置には山門が建てられていたが、老朽化のため何年か前に取り壊されている。






















【禅定寺本堂と庫裏】
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【藤村紫朗墓所前】
f0191673_12082160.jpg 禅定寺は細川家の家臣でもあった藤村紫朗の菩提寺でもある。
 過日、数年ぶりに訪ねたが当日は熊本地方が大雨であったため、夕方墓参した際、写真のとおり墓所の入口前が10㎝程度の水たまりとなり、墓所にたどり着くことができなかった。




















【藤村紫朗の墓石背面】
f0191673_12084151.jpg 背面から見た藤村紫朗の墓石である。























【藤村紫朗墓所(西側側面)】
f0191673_12095484.jpg 西側側面から見た藤村紫朗の墓所と墓石である。
 過日が三回目の墓参であったが、地元熊本の男爵、貴族院議員の藤村紫朗としてよりも、県令、知事として赴任した山梨県の明治近代史における治績や評伝が知られるためか、時間ととも墓所は荒れている感がある。

















[藤村紫朗の墓所再訪]
http://kaz794889.exblog.jp/16476052/




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by kaz794889 | 2015-06-13 13:09 | 藤村紫朗 | Comments(0)
2011年 08月 28日

藤村紫朗の墓所再訪

【墓所全景】
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 この夏、熊本市の禅定寺にある藤村紫朗の墓所を再訪した。
 寺域の西側にある藤村紫朗の墓所は、門柱と塀に囲まれた墓所であり、門柱に残る金具を見る限りでは、当初はそこに鉄門が備わっていたようである。
 最初に墓所を訪れた17年近く前は、門柱左側の塀沿いを抜けて墓所の反対側に出られたが、左に写る木の根元が成長し、現在はそれが困難な状態である。

【墓所内からの入り口】
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 右側が前記の門柱から階段を上がった藤村紫朗の墓碑が建つ場所の入口である。
 また、左側の墓碑は後述する黒瀬家墓碑の側面である。

【黒瀬家累世之墓】
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 墓所の門柱から入ると右側に黒瀬家の墓碑、続く階段を上がった場所に藤村紫朗の墓碑が建てられている。
 藤村紫朗は弘化2年3月1日に熊本藩士の黒瀬市左衛門、登千子の次男として熊本城下坪井寺原町に生まれ、14歳の年に同じ熊本藩士であった萱野家の養嗣子となり、明治維新後に藤村姓を名乗って熊本藩籍を脱して東京府士族となっている。
 黒瀬家は藤村紫朗の父である黒瀬市左衛門が嘉永4年に没したため、実兄である黒瀬市郎助美之が継いでいたが、後に堤松左衛門、安田喜助とともに横井小楠を襲撃した際、その場に同席していたことから斬られて重傷を負って死に至った吉田平之助の遺子により、明治元年2月3日に仇を報じられ33歳で死去している。
 黒瀬家の墓は、こうした藤村紫朗の生家である黒瀬家累世の人々の墓である。

【男爵藤村紫朗之墓】
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 男爵藤村紫朗之墓と刻まれた藤村紫朗の墓碑である。
 墓前にある石製の花立てなどの諸具は荒れている状態であり、聞くところによるとこの墓所は長年に渡り風雪に任せた状態が続いているとのことである。

【墓石の側面】f0191673_9235694.jpg


 墓碑の右側側面に刻まれている、藤村紫朗の生年と没年である。墓碑には正面と右側側面以外には刻まれている文字もなく、墓域には藤村紫朗以外の墓碑は建立されていない。
 明治7年から20年3月まで山梨県令、知事を務めていたことなどから藤村記念館が建設され、現在も藤村式建築としてその名前が残る山梨県内と比較し、熊本で生まれ育ち、晩年を過ごし墓所のある地元の熊本では藤村紫朗の名前は知られていない。再訪した藤村紫朗の墓所にその実態が感じられた。
  再訪の際に熊本県立図書館に立ち寄り、室内に掲げられた富岡敬明の揮毫を目にしたため、富岡は晩年を山梨で過ごしているため、藤村紫朗とともに山梨県内では知られていることを話したところ、藤村紫朗のことはよく知らないが、富岡敬明は西南戦争当時に熊本県知事を務めていたため、熊本県内では知られている人物であるとのことであった。

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by kaz794889 | 2011-08-28 11:38 | 藤村紫朗 | Comments(0)
2009年 06月 06日

【藤村紫朗 没後100年】 3 山梨県庁舎


【明治17年頃の書簡】
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 東海道総督府参謀 海江田武次が甲府に入った慶応4年3月12日が「本県立庁ノ日」とされ、甲府勤番追手御役宅(現在の甲府市役所及びその北側の一帯)が新政府による国事代理機関の庁舎となり、山梨県庁のはじまりと言われている。
 また、甲府勤番追手御役宅は明治10年11月に新庁舎が建てられるまで、山梨県庁として使われていた。



【完成当時の山梨県庁舎(手札写真)】
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 旧甲府勤番追手御役宅であった庁舎が官員増加に伴う狭隘により、県庁新庁舎の建設が決まり、明治9年11月、県庁は甲府富士川町の旧甲府代官所(現在の富士川小学校の位置)を仮庁舎として移転した。
 新庁舎は主任技師中川篤与が中心となり経費14,232円95銭を以って、擬洋風いわゆる藤村式建築により建設され、藤村紫朗が山梨県在任中の明治初期に積極的に建設された擬洋風建築の中でも、この山梨県庁舎は意匠、規模においても群を抜いた建築物であり、藤村の治世におけるモニュメント的なものであった。
 
 新庁舎の落成にあたり次の布達がなされている。
 「 甲第三百七号 第一区甲府錦町新築県庁落成に付き来る二十三日開庁同三十日より事務取扱候事右  に付来る二十四日より二十八日迄五日の間庶人庁中縦覧を許す
   右布達候事  明治十年十一月十四日 山梨県令 藤村紫朗」

  この布達に対し甲府日日新聞(明治10年11月16日)は、『いよいよお待ちかねの新築県庁お開きは来る二十三日と極まり二十四日より二十八日まで五日間の間は勝手に庁内の拝見を許されます、都合して是非とも五日間の間に拝見しておくがよろしかるべし。さて二十三日の開庁式には県官はもちろん上下残るところなく裁判官、区戸長、旧土木掛等ご招待にてその人員凡そ五百二十人もあり、用材運搬等に尽力せし二百九ヶ村及び新築に使役されたる諸職人一千人へも夫々酒肴料をくださるよし、実に御招待の多きことは甲斐国開闢以来未曾有うの盛宴たるべしという評判なり。』と伝えている。

━(甲府名所) 山梨県庁━ 
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 甲府日日新聞(明治10年11月27日)によると県庁新庁舎の開庁式と一般見学の様子を次のとおり伝えている。
 『御招待によりし人員は四百余人にて、県官と合せ其の総人員五百二十余人〔ご馳走に充てらるる為、牛三頭を屠りたる由〕にして、其の座組の大略は、県令を始め裁判支庁長、陸軍駐在官、県官、区長、学区取締総理、銀行頭取、弊社社主、記者等、百三十人余が正庁という大広間に、第六課と其の又隣室の二席に戸長、旧土木掛、甲府市中の書記等が、区村吏、教導職、神官が食堂の三席に分ち、いずれも二行又は三行にテーブルを並列し、その上に白木綿を敷列ね大花瓶に草花をさして各所に並べたるは、いと見ごとにて、料理は日本、西洋の混合にて日本料理は魚町の松亭が承り西洋料理は葡萄酒醸造果樹栽培方の授業師大藤松五郎氏の細君が承り、生徒並びに製糸工女二十余名之が手伝をなせりという。当日は儀式のみで諸人の総覧を許さる日ならねど、翌日からは雑踏で見物が出来難いことから市内四小学生徒「琢美、梁木、相生、師範校付属小学生徒」だけは格別を以って本日拝見を許され午後一時頃より毎校生徒、列を正して入り来る人員は凡そ一千三百人余にて、順次楼上、楼下を巡覧した後、一同へ菓子パン五ツ宛を賜りたり。夜に入り新県庁は勿論、勧業場、師範学校、銀行共、楼の上下及びフラフ竿より数百の紅提灯を釣り下げて之を點ぜると間もなく眼新しき(めあたらしき)機関(からくり)花火ありて勧賞の声は山岳も崩るばかりにて、其景況は恰も別世界を顕出せしかと疑われたり。翌二十四日よりは縦覧の初日なりしが、前夜半より雨天となりざる故、順延とり掲示ありて一昨二十五日午後より差許されたりしが、前日より甲府満街に溜り込みたる老少男女児が一時に詰掛けたることなれば、其群集譬るにものすごく怪我人もあらん勢なれば午後三時半頃一時門戸を鎖し、今日縦覧止という掲示ありしも、跡より押し来る群集は何も知らず無暗に押懸る勢いにて既に門戸を押破らんとせしを数十人の巡査人足等にて漸く防ぎ止め夫より俄に門外に丈夫なる手摺を設けらるるに至れり、此日属官一同にて拝見人へ与えようとしたが、其計算によれば、凡ろ半日足らずにて入込し人員は一万人余といふなり、昨日も今日も相替らず、おびただしく出懸けますが、二十五日の割合にては多分二万人からでござりませう、先年聖上お写真の拝観製糸機械開等の節も前後になき人出と申したるが此度は又右より数倍にたる人出でござります。』
【内容等一部要約】

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by kaz794889 | 2009-06-06 19:56 | 藤村紫朗 | Comments(0)
2009年 05月 30日

【藤村紫朗 没後100年】 ② 県令邸宅


【明治14年頃の書簡】
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 大阪府参事を務めていた藤村紫朗は、明治6年1月22日山梨県権令の発令を受け、僕一人を従え富士川畔に赴き1月30日の夜甲府入りしている。
 

【戸長への届出】
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 山梨着任時、甲府代官町の仮宅に居住し、居住人別として藤村の他、従者として森 丈助、佐竹作太郎、僕 片山磯吉、婢 むめ、以上4名について明治6年4月6日に戸長あてに届けられている。
 藤村らの人別の次に『別紙ノ通ニ御座候間、本紙ハ御手元ニ而可然様御認直シ被下度候也 四月六日 藤村内 佐竹作太郎 戸長御中』と記されている。

【山梨県令邸宅(手札写真)】
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 甲府常盤町(現在の甲府市丸の内1-21 岡島百貨店の東側、山梨中央銀行本店より)に建設された擬洋風2階建の県令邸宅である。
 この建物が明治8年頃に竣工すると、藤村はここに移り住んでいる。
 藤村の長男として明治3年12月4日に京都で生まれ、後に清浦内閣の逓信大臣や貴族院議員を務めた藤村義朗(幼名:狐狸馬)によれば、4歳から15歳を甲府で過ごし、徽典館初等部に入学し卒業(明治18年2月21日に徽典館中学科卒業)とともに熊本藩主細川侯嫡子の学友として英仏に留学している。
 また、父藤村紫朗の教育は厳しく、長男義朗、次男の兎羊熊の学友として3名(山梨県勧業課の片山菊渓の子息 長司、勧業御用掛の大藤松五郎の子息 酒造太郎、甲府警察署長斎田 斎の子息 孫次郎)を定め、学校以外においては学友以外との交わりを禁じ、放課後はこの5名が県令邸宅に集まり戦争ごっこや相撲に興じていた。

 藤村紫朗はこの県令邸宅に6人の子供(長男、次男、三男(俊彦)、長女(糸子)次女(安子)三女(美代子))と妻(珊)、母の家族8人と生活していた。
 なお、明治20年3月に藤村が愛媛県知事として転任後、この建物は根津嘉一郎が買取られたが引き続き県に貸与され、山崎、前田、中島、田沼と藤村以降の歴代知事が居住したが、田沼 健知事時代の明治27年3月7日に失火により焼失している。
 藤村紫朗の転任後に売却され、引き続き山梨県が貸与し知事邸宅としていたことから、県令邸宅は藤村紫朗が自ら私邸として建設した擬洋風建築、いわゆる藤村式建築であったのかもしれない。

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by kaz794889 | 2009-05-30 18:49 | 藤村紫朗 | Comments(0)
2009年 05月 24日

【藤村紫朗 没後100年】 ① 藤村記念館

 弘化2年(1845年)3月1日、熊本藩士 黒瀬市左衛門の次男として肥後熊本城下に生まれ、明治6年1月から同20年3月8日までの14年間、山梨県権令・県令・知事を努めた藤村紫朗は、急性肺炎のため郷里熊本の自邸で明治42年1月5日に亡くなっている。以来一世紀が経過し、本年は藤村紫朗の没後100年の年である。

 明治6年、土肥実匡の後任として山梨県権令に着任し、愛媛県知事として転任する明治20年までの14年間、官選知事として長期に亘って県政を担当した藤村は、明治前期における殖産興業、文明開化に関する施策における功績や、その施策の遂行過程における干渉主義的で強引な策に対する周囲の批判など、山梨県の近代史上における大きな存在となっている。
 また、在任中における行政施策遂行のために建築を奨励した疑洋風建築は、山梨県内においては「藤村式建築」と通称されるなど、着任以来130年以上が経過した現在も藤村の名が山梨県内に残されているのである。

【藤村記念館 全景】
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 旧睦沢学校校舎が武田神社境内に移築された際、昭和41年8月に「旧睦沢小学校舎保存委員会」が藤村記念館復元記念に発行した絵葉書である。
 絵葉書のタトウには、「復元の記」として次のとおり記されている。
 この建造物は明治八年中巨摩郡睦沢村に建設された小学校校舎で、当時県令藤村紫朗が奨励した数百にのぼる洋風建築群のなごりを伝える本県文明開化時代の貴重な記念物である。昭和三十六年、廃棄寸前に本委員会が譲り受け県内各地の強力を仰ぎ、この地に総合郷土博物館として再現を企て、昭和四十一年八月復元工事達成を機会にいつさいを甲府市に寄贈しこれが素志の実現を託したのである。
 なお、この建造物は昭和四十一年八月十五日、復元落成式の席上、これを「藤村記念館」と命名し同時に甲府市長に対する寄贈手続きのいっさいを完了した。」
 
 この建物は、明治8年に竣工以来、昭和32年4月まで睦沢小学校校舎として、その後昭和36年まで睦沢公民館として使用されていた。また、武田神社境内への移築後、昭和42年6月15日には旧睦沢学校校舎として国の重要文化財に指定されている。


【(藤村記念館)平面図と新築当初の各部屋名称】
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 上図が1階、平面図の上部が教室、下部の右側が職員室、左側が用務員室である。
 下図が2階、平面図の三室とも教室である。



【武田神社境内旧位置の移築作業現場】
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 建物全体が作業シートに覆われ、移築解体作業が行われていた。

【甲府駅北口の移築作業現場】
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 建物の老朽化や武田氏館跡の整備計画などから、藤村記念館は甲府駅北口への移築が決まり、平成21年度内の竣工予定で、現在工事が進められている。


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by kaz794889 | 2009-05-24 12:05 | 藤村紫朗 | Comments(0)