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2014年 12月 13日

素堂翁治水碑

【素堂翁治水碑】
f0191673_17520280.jpg 甲府市寿町11に鎮座する文殊神社境内の「素堂翁治水碑」である。
 この治水碑は俳人として知られる山口素堂が、桜井政能とともに行ったという濁川の治水工事に関する頌徳碑である。
 素堂の後裔にあたるといわれる山口伊兵衛が多くの知人と謀り、寿町を地元とした山田弘道(藍々)の篆額、平原豊の撰により明治33年8月に建碑されている。


























【素堂翁治水碑の拓本軸】
f0191673_17520889.jpg 治水碑の拓本である。






























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by kaz794889 | 2014-12-13 19:39 | Comments(0)
2014年 12月 06日

大塚邑水路新造碑と中井清太夫生祠

【県営大塚排水機場内の石碑類】
f0191673_13201891.jpg 
 曽根丘陵の北の端の急な崖と、笛吹川の間に位置する甲府市上曾根から西八代郡市川三郷町上野にかけては、昔から水害の多い低湿地帯として知られており、特に市川三郷町大塚と同町上野の間を流れる押出川(オシダシガワ)が西北に流れているため、大塚沼から西流する水は押出川の土手により、流路を北に曲げて笛吹川に流れるため、流末の位置が高くなり、大雨のたびに悪水路の水は逆行して田畑が水没し収穫は皆無となるなどの憂き目をみてきたため、悪水路の改修は地元民の長い間の悲願となっていた。
 安永6年から天明7年まで甲府御役所の代官を務めた中井清太夫は、こうした大塚村の排水路の問題に深く関与し、その改修工事を企画、率先指導し、天明6年から天明7年春にかけて悪水路の改修を行っている。
 県営大塚排水機場(西八代郡市川三郷町大塚1061-8)敷地内に残る写真の石碑類(当該石碑類は排水機場近くの押出川右岸の堤防上から、排水機場敷地内に移されている)は、悪水路改修に関わる石碑類である。





【大塚邑水路新造碑】
f0191673_13202652.jpg 悪水路の改修により、耕地も広がり村も豊かになったことから、その恩恵を受けた地元民は、中井清太夫の功績と恩徳を称える石碑の建設について中井に許しを請うたが、代官として当然なすべきことをなしたに過ぎないとして承知しなかったという。
 中井の退官後、再び建碑を願い出たところ、(退官後であるため、)そのことの良し悪しは言わないと黙認したということから、写真の「大塚邑水路新造碑」が建立されることとなった。
 
 石碑は高さ147㎝、幅35㎝、奥行32㎝の角柱であり、悪水路改修工事から11年後の寛政9年5月に完成している。
 碑文の撰者は御普請役阿部太市藤原義行であり、中国最初の王朝「夏」の創始者で、黄河の治水に成功した「禹王」に続く者として、その治水工事を称え、永久に民の利益である旨の内容が刻まれている。
 




















【中井清太夫の生祠】
f0191673_13203332.jpg 中井清太夫の生祠は「お水神さん」と呼ばれており、側面には「天明六年丙午年十二月四日」と刻まれており、排水工事完成直後の建てられたものである。
 前記の新造碑には「庶民言いて以って神となす」とあることから、中井の許しを得ないまま、お水神さまと称しながら中井の生祠として祀られたものと思われる。
 なお、新造碑と生祠は「大塚邑水路新造碑及び代官中井清太夫生祠」として昭和62年3月31日に、当時の三珠町により町指定の史跡として指定され、合併後の現在は市川三郷町指定の史跡として引き継がれている。
 










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by kaz794889 | 2014-12-06 16:22 | Comments(0)
2014年 11月 30日

濁川の庄塚

【甲府市西高橋町 濁川左岸の庄塚】
f0191673_14115177.jpg 甲府宰相徳川綱豊が甲府藩主であった元禄7年に代官触頭として着任した桜井政能(孫兵衛)は、濁川の水害に悩まされ、大雨の際は舟でなければ身動きが出来ないばかりではなく、一帯に池沼が多いため、穀物が不作で住民の苦しみが絶えなかったという、現在は甲府市となっている、蓬沢村、西高橋村など諸村住民の哀訴を聞き入れ、山口勘兵衛(素堂)の協力を得て、元禄9年に西高橋村から落合村までの凡そ2100余間の堤防を築き、濁川の流れを笛吹川に合流させるなどの改修工事を完成させている。

 当該地域の住民は桜井と山口の徳を称え、桜井霊神、山口霊神の生祠を堤上に併祠し、同地が一条庄と油川庄との境界にあたることから庄塚と云われている。



 






【桜井政能の生祠】
f0191673_14115836.jpg 

元禄9年の改修工事完成後119年が経過した文化11年12月に完成した、『甲斐国志』巻之四十三古跡部第六「庄塚碑」には「「桜井霊神」と称する生祠を塚上に建て、側に「山口霊神」と称する石塔もあり、後年に祠の前に地鎮碑が建てられた。」旨が記されているが、現在は「桜井霊神」である桜井政能の生祠のみが残され、「山口霊神」の石塔は失われている。
 

現在残されている桜井政能の生祠には、その正面に「桜井社」、祠の裏に「享保十八癸丑十二月十四日建之 山梨郡 願主 蓬沢村 西高橋村」の文字が刻まれている。(桜井政能は享保16年に逝去しているため、現在残る生祠は、当初建立されたものとは異なり、後年再建された石祠と思われる。)
 










【濁川改修地鎮碑】
f0191673_14112821.jpg 桜井政能は享保16年1月14日に83歳で逝去している。
 桜井の逝去後、将来その由緒が忘れ去られることを恐れ、この石碑が建立されている。
 石碑には建立年月として「元文戌午七月」、建立者として「齊藤六左衛門藤正辰立」の文字が刻まれている。 
 戌午の歳は元文3年にあたり、桜井の逝去後5年目の年にあたる。
 また、建立者の齊藤六左衛門正辰は、桜井政能の兄政蕃の孫に当たり、当時は幕府勘定方であった。























【庄塚碑全景】
f0191673_14113675.jpg 庄塚碑が当初建てられていた位置は、濁川の大改修に伴い川筋となったため、昭和15年頃に東側の畑地に移されていたが、埋立処分地整備事業に伴い平成15年に現在の場所に移されている。
 





















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by kaz794889 | 2014-11-30 16:26 | Comments(0)
2014年 11月 22日

甲府愛宕町 精乳舎

【裏より見る精乳舎】
f0191673_14291131.jpg 牛乳搾取と販売を生業とする精乳舎は、林紋治郎により明治18年8月に山梨県内最初期の牛乳業者として甲府桜町で創業している。
 その後、明治19年4月には牛舎狭隘により甲府花園町の農産社を購入移転したが、中央本線甲府停車場建設に伴い、花園町が鉄道敷地として包括されることとなったことから、明治34年4月に甲府市愛宕町162番地(長禅寺の門前西側付近)に新築移転している。
 写真は愛宕町に移転後の明治39年頃の生精乳舎である。

 





 






【精乳舎の牛乳領収書】
f0191673_14290642.jpg 横浜でオランダ人のスネルに雇われて乳牛の飼育と搾乳を行ってい 前田留吉が、慶応2年に独立して6頭の乳牛を買い、牛乳販売を開始したことが国内最初の牛乳店と云われている。

 初期の牛乳販売は、ブリキ輸送缶で5勺ずつ量り売りを行っていた。 
 明治10年頃からは小ぶりのブリキ缶に入れて配達されていたが、明治21年頃からはガラスの牛乳瓶が使用され始め、明治38年頃には殆んどガラス瓶に代わっている。

 精乳舎が販売する牛乳は「精乳舎牛乳」として広く知られていた。写真は明治38年の領収書であり、2月分として、15日×1合=1升5合、75銭の領収である。














【表の側面から見る精乳舎】
f0191673_14291549.jpg  明治39年頃、愛宕山山麓方向の精乳舎である。
























【上記写真の現状】
f0191673_14305348.jpg 上記の写真の現状である。
 

























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by kaz794889 | 2014-11-22 15:43 | Comments(0)
2014年 11月 16日

甲府葡萄郷 愛宕園

【甲府葡萄郷 愛宕園の案内パンフレット】
f0191673_15581691.jpg 
甲府葡萄郷において営業を続ける観光遊覧葡萄園の一つである「愛宕園」の昭和30年代の案内パンフレットである。
 
 パンフレットには愛宕園について、「愛宕園は身延線金手駅前にあり甲府駅より東へ数町、最も近く、甲府市の自然公園と云われて居る愛宕山山麓にあり、眺望よく、棚下のベンチで、宝石のように美しく熟した葡萄を賞味しながら、足下に展開する復興なった山都 大甲府市を始め・・・」と記されている。

 善光寺町、東光寺町を中心とした甲府葡萄郷における最初の観光遊覧葡萄園は、昭和7年に自家経営の葡萄園を一般に開放した「甲葡園」(現在も「こうぶえん」として営業)と云われ、終戦後観光が盛んになると、地域の事業者により昭和26年に「甲府ぶどう郷観光協会」が組織され、現在に至っている。
 最盛期には「愛宕園」や「甲葡園」など20件ほどの葡萄園業者が加盟していたが、現在は7件の業者が加盟していたという。
 























【パンフレット記載の案内図】
f0191673_14483882.jpg 愛宕園への案内図である。愛宕山山麓に位置する愛宕園には、甲府駅から徒歩か身延線金手駅で下車すぐである。
























【現在の愛宕園入口】
f0191673_14473870.jpg 現在の愛宕園の入口である。
 写真のガードレール下はJR中央本線及び身延線の線路である。






















【愛宕園附近からのJR身延線 金手駅】
f0191673_14560217.jpg 愛宕園附近から見た、最寄駅のJR身延線金手駅である。

























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by kaz794889 | 2014-11-16 15:34 | Comments(0)
2014年 11月 13日

富士川小学校と中央本線

【昭和37年頃の富士川小学校と中央本線】
f0191673_22433995.jpg 昭和37年の甲府市立富士川小学校と学校北側の線路である。
 線路は左側が身延線、右側は複線化前の中央本線である。
 















【現在の同位置】
f0191673_22434766.jpg 写真後方の富士川小学校も現在は琢美小学校と統合され、この場所にあった校舎は取り壊され、新たな甲府市の施設が建設されている。
 中央本線が複線化され現在は三本の線路が通っているが、上記の写真に写る無人踏切は既に撤去されている。





















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by kaz794889 | 2014-11-13 22:54 | Comments(0)
2014年 11月 08日

若尾逸平の銅像

【若尾逸平の銅像と祝賀会招待状】
f0191673_10503380.jpgf0191673_10472869.jpg




























 若尾逸平の銅像は長禅寺裏の愛宕山麓に、佐竹作太郎を始めとした有志により明治42年に建立されている。
 また、銅像の寄贈にあたり明治42年5月13日に機山館において若尾民造の主催による祝賀会が開催されている。



【奮闘の勝利者 若尾逸平翁の銅像(甲府市愛宕山に在り)】
f0191673_11021014.jpg  銅像の建つ場所は当初「尚寿園」と名付けられたが、大正10年には新たに若尾公園として開園している。



















【若尾逸平の銅像ミニュチュア】
f0191673_11015939.jpg























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by kaz794889 | 2014-11-08 11:58 | Comments(0)
2014年 11月 03日

若尾公園の痕跡

【昭和20年代後期の若尾公園付近の地図】
f0191673_15540072.jpg 昭和20年代後期の若尾公園付近の地図である。
 
 長禅寺北側と浄水池(現在の甲府市水道局上水道配水場)の間に位置する若尾公園は、若尾逸平の銅像が建立されていた若尾家所有の尚寿園を基盤に、大正10年12月に同家が開園した公園である。
  















【昭和初期の若尾公園】
f0191673_15540427.jpg 写真の右側奥が若尾公園の入口である。
 また、写真に写る銅像は、明治42年に建立され昭和18年3月に金属の供出により献納された若尾逸平の銅像である。
 
     

















【現在の若尾公園跡附近の地図】
f0191673_15540701.jpg 若尾公園西側に位置している山梨英和学院は、明治39年に地図の山梨英和中の位置に新校舎を建設し移転してきたが、昭和20年7月の甲府空襲で焼失し、終戦後同位置に復興校舎を建設している。
 その後、昭和30年に近代校舎の建設が始まると、同年12月に隣地の若尾公園の敷地を買収し、昭和36年7月にはその敷地にプールや体育館の建設が計画され、昭和37年8月にプールが、昭和38年3月には体育館が完成している。(左の地図の山梨英和高体育館)




















【尚寿園の石柱】
f0191673_15542438.jpg 若尾公園跡の敷地は前述のとおり、現在は山梨英和高校の敷地となっている。
 
 公園内にあった若尾逸平の銅像の台座は、昭和18年3月の金属供出後も敷地が買収されるまでそのまま残されていたが、愛宕山中腹の限られた敷地の中にびっしりと英和高校の校舎が建設され敷地内も整備されている。
 こうした状況の中、若尾公園時代の痕跡が何かしら残されていないのかと考えながら、今年の夏に附近を歩いたところ、「尚寿園」と刻まれた写真の石柱の存在を確認した。
 尚寿園は、若尾逸平の銅像完成後、若尾公園の開園までの同地の名称である。










【若尾公園の入口跡】
f0191673_15541633.jpg

























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by kaz794889 | 2014-11-03 17:21 | Comments(0)
2014年 11月 02日

「忘るな、北杜の災害記憶」展

【北杜市郷土資料館で開催中の同展チラシ】
f0191673_12251836.jpg  北杜市郷土資料館で開催(平成26年7月26日~11月16日)されている「忘るな、北杜の災害記憶」展を昨日観覧した。
  同展は7月から開催されているが、後期展示期間である9月9日から11月9日までの間、宮内庁書陵部所蔵の「山梨県暴風雨被害関係資料 明治31年」が展示されるとのことから、この時期を選んで訪れてみた。

  同展のチラシには「急峻な山岳を擁する北杜市は、明治以降の風水被害だけでも市内に大きな爪痕を残した歴史が複数確認できる。一方でここ30年程、市内における甚大な被害の記録が見当たらず、若い世代や新たに移り住んだ者には大きな災害の記憶はないといえる。本展では災害を乗り越え、治山治水に尽力した先人の知恵を学ぶとともに、現在の防災への取り組みを紹介していきます。」といった趣旨が
記されている。

 山梨県内でも北巨摩郡内が最も被害大であった明治31年9月の災害に関する前述の宮内庁所蔵資料や昭和18年の集中豪雨による三分一湧水の埋没などの戦前期における災害。
 また、戦後期における7号台風や15号台風(いわゆる「伊勢湾台風」)による旧武川村の被害を写した写真や関連文書、また下流で発見された流出した橋の親柱など、興味深い資料が展示されている。
 
 北杜市郷土資料館では、これまでも北杜市内の産業や生活に関する事項を深堀りした企画展示がなされ、以前から興味深く観覧している、今後も北杜市に関連するこうした企画展示が続けられることを期待したい。







【七号台風の山梨県内縦断を伝える山梨時事新聞】
f0191673_12252647.jpg 山梨県内に甚大な被害をもたらした、7号台風の県下縦断を伝える、昭和34年8月15日付けの「山梨時事新聞」である。
 
 昭和34年8月12日に前線が活発化し集中豪雨が予想されたことから、同日18時に甲府地方気象台から大雨注意報が発せられたことから、山梨県水防本部は第一配備態勢を指令し、県内の水防団体は同日夜から徹夜の警戒に入ったという。この頃、7号台風がマリアナ東方洋上に発生している。
 同日夜、甲府盆地では一旦雨が止んだが、県東南方面では豪雨が続き、翌13日早朝までに豪雨は盆地東部山岳地帯に順次移動、その後、更に北上し昼から午後にかけて甲府盆地、北巨摩郡(現在の北杜市)方面まで大風となったが、同日午後には峠を越した思われていたが、15時頃から7号台風の影響下に入り次第に雨が強くなり、14日の午前3時には最大ピークを迎え、8時半頃まで連続の暴風雨だったという。





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by kaz794889 | 2014-11-02 14:11 | Comments(0)
2014年 10月 19日

吉田初三郎の描く 夜の(甲府)銀座通り

【夜の銀座通り 吉田初三郎画伯筆】
f0191673_15390763.jpg 大正広重といわれ鳥瞰図で有名な吉田初三郎が描いた「夜の銀座通り」は、全日本産業観光甲府大博覧会事務局により発行された「甲府景勝絵はがき」と題する五枚一組の絵葉書の中の一枚である。
 全日本産業観光甲府大博覧会は斎木逸造甲府市長時代に甲府市制五十周年を記念し、昭和13年3月25日から5月13日までの五十日間、甲府市主催、山梨県、甲府商工会議所後援により舞鶴城公園とその附近及び遊亀公園を会場として開催を計画していたが、昭和12年7月7日の日華事変勃発により同年8月に開催中止が決定した幻の博覧会である。
  






















【観光都市・甲府 繁華街銀座通り一角】
f0191673_15391173.jpg 前記の「夜の銀座通り」と同じアングルの絵葉書である。
 奥に写る六階建てのビルは昭和12年10月2日に開店した松林軒百貨店である。また、手前の梅林堂は和菓子店であり階上は喫茶部となっていた。  
 甲府銀座通りは、戦前期の甲府市街における繁華街の一つであり三日町から西側に伸びる通りの突き当りは春日町の甲府館(映画館)である。


























【甲府銀座通りの東側入口】
f0191673_15391661.jpg 現在の甲府銀座通り東側入口である。
 この入口から西側の入口まで、甲府銀座通りはアーケードで覆われている。入口右側の空地の位置には。昭和16年に第十銀行と合併した有信銀行本店があった場所である。



















【現在の甲府銀座通り】
f0191673_15392446.jpg 甲府銀座通りは甲府空襲で両側の店舗が全て焼失しているため、戦前期の建物は現在全く残されていない。また、終戦後アーケードが掲げられたため、かつての雰囲気を感じることは難しい。
 写真の左側に青色の宣伝のぼりが掲げられた柱の先が、かつての梅林堂のあった位置である。



















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by kaz794889 | 2014-10-19 16:56 | Comments(0)