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2015年 03月 29日

甲府道祖神祭幕絵の流転

【峡中新聞 第四号】
f0191673_21151137.jpg  明治壬申(5年)11月発行の峡中新聞第四号に掲載されている、下記の「県庁布達写」のとおり、明治5年11月14日、山梨県令土肥實匡により、山梨県内各所で行われていた道祖神祭礼を取り締まるための「道祖神祭礼取締」が、山梨、八代、巨摩、都留各郡の正副戸長あて通達され、甲府城下町にあたる各町域の道祖神については、統合や寺社境内への移設が図られることとなった。

 このため、甲府道祖神祭も廃止され八日町、柳町、緑町、魚町、連雀町など各町内ごとに物語絵や名所絵などの画材を決め、江戸、京都の絵師により描かれた、甲府城下町全体で数百枚が存在しという飾幕絵もその役割を終え、処分、転用されていったという。



















【峡中新聞掲載の「道祖神祭礼取締」布達】
f0191673_21151493.jpg




























【「甲府道祖神幕絵 東都名所 目黒不動之瀧」(部分)】
f0191673_21152047.jpg 現在知られている甲府道祖神幕絵は、甲府緑町1丁目で飾られた山梨県立博物館所蔵の2代歌川広重筆の「東都名所 洲崎潮干狩」(山梨県指定文化財)、甲府柳町4丁目で飾られた県外個人所蔵の歌川芳年筆「太閤記 佐久間盛政 羽柴秀吉を狙ふ」及び「東都名所 目黒不動瀧」の3枚である。

 写真は「東都名所 洲崎潮干狩」と同様に山梨県指定文化財として山梨県立博物館が所蔵する「東都名所 目黒不動瀧」の飾幕絵である。

 甲府緑町1丁目の甲府道祖神祭幕絵は江戸名所を題材としたものであり、「東都名所 目黒不動瀧」も甲府緑町1丁目で飾られた飾幕絵の1枚であり、明治5年の「道祖神祭礼取締」による道祖神祭の廃止後、少なからぬ流転を経て平成17年度に県外の個人所蔵者から山梨県立博物館が購入し、山梨県指定文化財として同館が所蔵、現在に至っている。


【甲府市緑町の地籍図】
f0191673_21295582.jpg  甲府緑町1丁目の飾幕絵は明治5年の道祖神祭礼廃止後、町内の何軒かに分けられ、その内の「東都名所 目黒不動瀧」は甲府緑町15番地の米穀肥料卸商の平原家(甲府市緑町地籍図の赤書で囲んだ位置)が譲り受けることとなった。

 同家では祭礼の幕絵であり日常の使い道もないため、同家の屋敷神の祭りの際に使用していたが、後年、それを見た甲州財閥の若尾家三代目である若尾謹之助が、大正3~4年頃に浮世絵の研究資料にしたいとの意向から、平原家から譲り渡されたという。

 その後、昭和恐慌による若尾家の没落により、昭和5年に同家の整理がなされた際に人手に渡った後、東山梨郡塩山町(現在の甲州市)の某旧家が所蔵、その後、昭和11年の春頃に東京市の浮世絵商が所蔵することとなった。



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by kaz794889 | 2015-03-29 23:19 | Comments(0)
2015年 03月 22日

甲府道祖神祭礼幕と目黒不動

【歌川広重筆「甲府道祖神祭幕絵 東都名所 目黒不動之瀧」(部分)】
f0191673_09362748.jpg 甲府道祖神祭は、江戸中期以降の甲府商人の隆盛に伴い、当国一大盛事と称されるほど盛大となり、江戸後期に至ると人びとの関心は次第に商家の軒先に巡らせた長大な飾り幕へと移っていき、町内ごとに画題を定め江戸の浮世絵師に幕絵の製作を依頼し、趣向と贅をこらして競い合う祭りであった。
 明治期に入り、華美を誇った道祖神祭りも、その贅沢さと治安上の問題から明治5年11月14日の道祖神廃止令により廃止され、無用となった幕絵は処分・転用され、その殆どが失われ、現在確認されているのは三枚のみである。

 「甲府道祖神祭幕絵 東都名所 目黒不動之瀧」は、現在確認されているものの内の一枚であり、甲府緑町一丁目の商家の軒先に巡らせた「江戸名所」を題材とした幕絵(11枚~12枚)の中の一枚であり、初代歌川広重により天保12年頃に製作されたものと云われ、平成16年5月6日には山梨県指定文化財に指定され、現在は山梨県立博物館に所蔵されている。
 幕絵に描かれた目黒不動の現在を訪ねてみた。 

【目黒不動境内の独鈷の瀧と垢離堂】
f0191673_09363892.jpg 幕絵に描かれた東都名所「目黒不動之瀧」は、東京都目黒区下目黒の、天台宗泰叡山瀧泉寺、いわゆる目黒不動尊の独鈷の瀧であり、近年水量は減ったということではあるが、1年中水が枯れることなく、現在も龍御神水として、幕絵にも描かれている銅製の灯篭を中心に、その左右に二条の清水として銅製の龍口から注いでいる。
 また、幕絵にも描かれている小堂は、写真に写る現在の垢離堂にあたる建物だろうか。















【独鈷の瀧と男坂】
f0191673_09364372.jpg 幕絵には独鈷の瀧の右側に男坂が描かれている。
 写真の赤幕の下に写る階段が、目黒不動の本堂に通じる男坂である。




















【仁王門】
f0191673_09364839.jpg

 弘治3年に修理造営を行った堂塔も、元和元年の火災により、その殆どが焼失したが、その後、目黒不動を深く尊信する徳川家光により、焼失た堂塔が再建。以来、江戸近郊における参詣行楽地となり、門前町もにぎわったというが、再建後の堂塔は昭和20年の戦災により大半が焼失し、本堂、書院、鐘楼などは戦災後に再建されている。

 幕絵に描かれている仁王門も戦災で焼失しており、写真右側に写る朱塗りの門は、昭和37年に再建された仁王門である。
 













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by kaz794889 | 2015-03-22 20:15 | Comments(0)
2015年 03月 08日

特別展 富士山 「江戸・東京と練馬の冨士」

【「練馬区立石神井公園 ふるさと文化館」における同特別展のチラシ】
f0191673_13184186.jpg 平成27年2月7日付の毎日新聞山梨版でも報道された、練馬区立石神井公園ふるさと文化館(練馬区石神井町5-12-16)における「特別展 富士山 ━江戸・東京と練馬の冨士━」(開催期間 平成27年1月24日~3月15日)を昨日観覧した。

 同展開催にあたっての概要に「江戸・東京、練馬の人々と富士山の関わりをさまざまな資料から紹介する展覧会です。噴火を繰り返していた頃の富士山、江戸・東京の人々と富士山との関わり、富士信仰の流行と練馬の富士講、受け継がれる富士信仰と観光地としての冨士のテーマに分け、地誌や記録などの文献資料、『富嶽三十六景』や『不二三十六景』などの浮世絵、黄表紙や滑稽本などの版本、練馬区内や山梨県富士吉田市の御師宅に残る富士講装束や富士講による奉納物などの民俗資料を展示します。」
と記されているとおり、二つの展示室に関係するそれぞれの資料が展示されている。

 練馬区内には現在五基の冨士塚が残されているとともに、富士講の人々が富士山参詣に使用した道は今も富士街道と通称され、その道沿いには道標や富士山信仰に関わる石造物などが残されているとのことである。














【吉田ヨリ見タル富士】
f0191673_13185645.jpg 富士山北口(吉田口)から富士山に登る富士講の場合、上吉田に到着すると、左の写真に写る金鳥居から富士山に向けた道の両側に形成された御師町の定宿とする御師宅に宿泊していた。

 練馬区域の多くの富士講は、本御師である槇田家を定宿としていたため、同家には現在も練馬区域の富士講社が奉納した奉納物が保管されているということであり、今回の富士山展においても槇田家に現在も残されている神具を中心とした多くの資料が展示されている。

 









【同特別展の図録】
f0191673_13185158.jpg 同展の展示会図録(価格1,200円)である。
 練馬区域の富士講の信仰状況とともに、近現代の観光地としての富士山を紹介する本展について、様々な資料を用いて構成されており、特に山梨に関わる関係事項として、富士講社が定宿とする上吉田の御師宅と互いがどのように関わりあっていたかが詳しく記されているなど、資料的価値が高い図録である。

 

 
 
















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by kaz794889 | 2015-03-08 14:46 | Comments(0)
2015年 03月 01日

石和の小松農園のこと

【小松遊覧農場の案内チラシ】
f0191673_17311937.jpg 小松農園は石和(現在の笛吹市)のJRAの場所にあった遊覧農場であり、その正式名称は小松遊覧農場であった。

 明治40年の大水害により笛吹川の本流が現在の流れに変わり、かつての笛吹川は廃河川となり、荒廃した土地を開拓した後に開設された施設が小松遊覧農場であり、山梨県内においては通称「小松農園」として親しまれていた。
 石和温泉は昭和36年1月24日の温泉噴出がその始まりであるが、先日の新聞記事(「やまなし戦後70年の軌跡 3」)によれば、小松農園では昭和31年9月に約30度の温泉が噴出しており、その温泉を約40度に加温した上で、農場内の「葡萄温泉」として利用していたという。
 チラシに写る建物は、葡萄温泉に付設された「大ローマ風呂」である。











【小松遊覧農場案内図】
f0191673_17312497.jpg 小松農園の敷地内には、案内図のとおり葡萄温泉の他にも遊園地や大食堂等の施設が設けられ、後年は動物園やイベントホールも建設されている。

 価値観の異なる現在にはそぐわない可能性もあるが、小松農園は大人も子供も楽しむことができる山梨県内の一時代における遊覧施設であった。





























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by kaz794889 | 2015-03-01 22:17 | Comments(1)
2015年 02月 28日

旧山梨県庁舎と前庭

【旧山梨県庁舎(現在の県庁別館)】
f0191673_14374662.jpg 昭和5年に竣工した旧山梨県庁舎(現在の県庁別館)の耐震改修工事がほぼ終了したとの報道があった。
 本年4月の[山梨近代人物館」開館に合わせ、同館として使用公開される庁舎2階の旧知事室、3階の旧正庁などは、調度品も含め竣工当時の姿に復原改修されるという。

 写真は昭和30年代初め頃の旧山梨県庁舎である。
 庁舎の右端2階が旧知事室、庁舎正面3階が旧正庁である。
 元山梨県庁職員による、『回想「県庁歳時記」』吉田三郎著(昭和51年刊)には、正庁について次のよう記している。
 「正庁とは何か、知っている者は今県庁内でも数少ないと思う。旧館の三階にある農地課が現在使用している部屋がそれである。知事が司宰するすべての儀式、訓示、それに貴賓の接遇などに使用し、平素は開かずの扉を持つ県庁内で最も神聖な所だ。だから部屋の構造や扉なども、他の事務室などとは趣を異にしている。確かシャンデリア風の照明灯を配し、周囲の壁なども音響効果を考えて作られていたように覚えている。四大節には、会計課の金庫から恭しく御真影を頭上に捧げて運び、中央北側の一段と高い処に安置する。知事は胸部を金モールに飾られた大礼服に羽をあしらったナポレオン帽、ほんとうに偉い人に見えた。」



【昭和10年代の旧山梨県庁舎】
f0191673_14375344.jpg 県庁別館は竣工以来、その外観はほぼ旧観を保っているが、別館庁舎前に前庭が建設されたため、庁舎前の空間は現在とその趣が異なっている。
 前庭は昭和39年4月に、昭和29年から10数年の歳月をかけた野呂川流域総合開発事業を記念し、野呂川渓谷をイメージした「白鳳の庭」として建設されたものであり、石は全て白鳳渓谷の広河原から運搬し、樹木は県内外から移植したものだという。

 










 

【旧山梨県庁舎と前庭】
f0191673_14375906.jpg 写真左側の植栽が、県庁別館前の前庭である。
 今後の県庁整備の中で、前庭は撤去され広場化が図られるようである。

























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by kaz794889 | 2015-02-28 15:54 | Comments(0)
2015年 02月 21日

明治期における種痘と種痘済証

【明治14年の種痘済証】
f0191673_14483689.jpg 山梨県内における種痘は幕末期、巨摩郡藤田村の広瀬家、八代郡市川大門村の村松家、巨摩郡古市場村の大久保家やこれらの医家を師と仰ぐ種痘医によって受け継がれ明治期に至っている。 

 明治4年2月に甲府県種痘所による種痘定則が定められるとともに、種痘局が甲府共立病院(山梨県病院の前身)に置かれ、3月には種痘局の出張所が山梨郡に3か所、八代郡に4か所、巨摩郡に8か所置かれ、各出張所には種痘局が種痘許状を与えた医師2人、甲府県庁が命じた世話役2人が配され、10月には都留郡にも8か所の出張所が置かれることとなった。

 明治6年10月7日には、種痘定日の設定、村の世話掛(戸長又は伍長)による村内への種痘に関する意向の徹底など、種痘規則等に基づく従来の種痘方法が大幅に改正され、明治7年には種痘規則が布達され、種痘医は管内種痘出張所の医師のほか、願い出による検査の上、一般医師にも免許状が下附されるようになるなど、その後も種痘に関する定めは種々改正されている。

 種痘済証の種痘医「依田正俊」は後に依田多仲と号する巨摩郡切石村の医師であり、安政3年に寺子屋である杏林堂を切石村に開き、明治5年当時、22名の生徒を擁していた。また、明治5年に医務取締役、同8年に種痘医を命ぜられ、明治17年3月に没している。











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by kaz794889 | 2015-02-21 17:01 | Comments(0)
2015年 02月 11日

甲府ワンドラー

【甲府ワンドラー発会式を伝える新聞記事】
f0191673_10521573.jpg 本年2月5日の山梨日日新聞に「甲府ワンドラー解散 会員高齢化 80年の歴史の幕」と題する新聞報道があった。報道によれば「登山ハイキングクラブの甲府ワンドラーは昨年末、80年にわたる活動を終了し、解散した。会員の高齢化などが理由で、関係者からは惜しむ声が聞かれた。」とのことである。

 甲府ワンドラーは野口二郎、高野孫左衛門、大沢伊三郎の主唱により「野を歩め、山に行け、光を浴びよ」を綱領として発足したハイキンググループであり、昭和9年7月1日に発会式が開かれ、開式後第一回の徒歩旅行先である、北巨摩郡登美村の登美台地(現在の甲斐市)に向けて出発している。

 当時の山梨日日新聞記事によると、制服制帽姿の会員40余名が集まり、昭和9年7月1日7:30に甲府城の謝恩塔下にあった池畔で発会式が行われている。
 開会式は、甲府ワンドラーの提唱者である野口二郎(当時の山梨日日新聞社社長)の開会の辞、その後、理事選挙が行われ野口二郎が理事長となっている。
 開式後、会員は四班に分かれて山日ペナントを先頭に女性班から登美台地に向けて出発。白亜館農園事務所での昼食後、登美村に因む郷土史講演会が行われている。14:00には帰路に向かい登美村、敷島村を経て荒川伝いに県営球場(現在の飯田球場)に出て17:30に散会している。

 また、甲府ワンドラーの発足は、その後、山梨日日新聞と甲府ワンドラーとの共催で昭和11年8月6日に山梨、神奈川の県境である境川畔から第一歩を踏み出した、第一回甲州夏草道中につながっている。
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【謝恩塔下にあった噴水池】
f0191673_12222776.jpg 甲府ワンドラーの発会式が行われた、昭和20年代中期の謝恩塔下の池畔である。
 甲府城整備により、現在は芝生広場的な状態となっているが、謝恩塔下には、かつて噴水池が設けられていた。
 池の中央に建つ石造物の上には、かつて鶴の像があり、鶴の口部分が噴水の噴出口となっていたが、戦時中の金属の供出で失われている。







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by kaz794889 | 2015-02-11 12:19 | Comments(1)
2015年 02月 08日

十日市

【南アルプス市十日市場の安養寺本堂】
f0191673_12294787.jpg 
 毎年2月10日と11日の2日間、南アルプス市の十日市場地区で開催される「十日市」は、甲府盆地に春を告げる風物詩として広く知られている。
 
 十日市場地区の真言宗安養寺が所蔵する「木造寄木地蔵菩薩立像」(南アルプス市指定文化財・昭和51年1月1日指定)は、その昔、霊験あらたかな仏像といわれ、その開帳日には甲斐国中の老若男女が集まったという。このため、いつしか物々交換の市が起こったことが、いわゆる十日市の始まりとされ、現在は農用具中心の大市となっている。












【安養寺庫裏】
f0191673_12294010.jpg 安養寺の本堂東側に建つ庫裏である。
 
























【県道からの安養寺入口】
f0191673_12293127.jpg 県道沿いの安養寺入口である。
 「十日市跡」は、南アルプス市指定の史跡として昭和46年1月28日に指定されている。




















【昭和30年代前半の同所】
f0191673_12291222.jpg 上記の安養寺入口と同位置の昭和30年代前半頃の写真である。
 県道はまだ未舗装の状態であり、入口左側には「史跡 十日市 山梨県」の文字が記された木柱が建てられている。
 



























【十日市場地区】
f0191673_12292365.jpg 十日市祭典における露店出店の中心地となる、県道沿いの十日市場地区である。
 本年1月20日の新聞報道によると、全盛時の半分程度ではあるが、今年の十日市に出店する露店は188店(県外127店、山梨県内61店)とのことである。
 また、露店とは別に商工会関係者などによる模擬店が82店でるという。
















【昭和30年代前半の同所】
f0191673_12291698.jpg 上記の位置を写した昭和30年代前半の写真である。
 左側手前に写る土蔵は、外壁の改修はされているものの現在も同じ位置に残っている。また、その先の土蔵などの建物は既に取り壊され、その位置は山梨ダイハツの営業所(他の営業所と統合され、旧営業所の建物が残っている。)となっている。























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by kaz794889 | 2015-02-08 15:37 | Comments(0)
2015年 01月 03日

野牛島の能蔵池

【能蔵池】
f0191673_10185649.jpg 南アルプス市野牛島の能蔵池(のうぞういけ)は、噴き出していた御勅使川の伏流水をせき止めて造営された溜池であり、池の落水は野牛島から上高砂を東南に伸び、四ヶ村堰と交叉し神明川となって釜無川に注いでおり、かつては野牛島、上高砂、下高砂、徳永など各村の水源でもあったという。

















【能蔵稲荷】
f0191673_10181600.jpg 能蔵池に接して鎮座する能蔵稲荷である。
 























【能蔵稲荷の祠】
f0191673_10180600.jpg 能蔵稲荷の祠である。























【能蔵池の碑】
f0191673_10310962.jpg 能蔵池稲荷の境内に建つ「能蔵池ノ碑」である。
 この碑は建立当時の市川代官である森田行の撰文、前任の市川代官である荒井顕道の書、久貝岱の篆額により、安政4年10月に建碑された石碑である。





























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by kaz794889 | 2015-01-03 12:33 | Comments(0)
2014年 12月 30日

女子交際會


【女子交際會設立大意】
f0191673_15363703.jpg 
 「同じ心の婦人共同して女子の風習を改良し家政の学を講習し以て女子の教育を拡張せらるる聖旨を翼成するにあり」、「旨趣に基き会員相親睦し相諮詢し各自一家の幸福を謀り女子の品位を高尚にせんことを要す」との、「婦人交際會仮規則」第一条及び第二条に定める目的等から、女子交際會が設立され、明治20年1月16日に発会式が行われている。

 女子交際會は、山梨県尋常師範学校及び甲府学校の女性教師を発起人とし、事務局を山梨県尋常師範学校の徽典館女教場内に、会費は一か月5銭として、毎月第一日曜日の午後1時に例会を行っていた。






















【設立大意に記載されている女子交際會の発起人及び協賛者】
f0191673_17043739.jpg 「女子交際會設立大意」の最終頁に記載されている発起人と協賛者である。
 「女子交際會」は発足してから数年で解散状態となり、明治23年11月9日に同会の会員であった13名が発起人となり、「山梨婦人會」が新たに設立されている。
 


















発起人と協賛者は次のとおりである。 
 [発起人]
   「長野はな子」は埼玉出身で、明治17年から同20年まで山梨県尋常師範学校の二等助教諭を務めている。
   「宗てい子」は福岡出身で、明治19年から同21年まで山梨県尋常師範学校の訓導を務めている。
   「権太きん子」は長崎出身の甲府学校訓導であり、甲府学校校長を務めていた権太政の夫人である。
   「相原りか子」は明治16年の徽典館中等師範科卒業生である。
 [協賛者]
   「藤村夫人」は当時の山梨県知事藤村紫朗の夫人
   「高木夫人」は当時の山梨県書記官第一部長の高木忠雄夫人 
   「大木夫人」は当時の山梨県書記官第二部長の大木房英夫人
   「内藤萬春子」は内藤伝右衛門の養母で社会教育や教育に熱心に取り組んでいた、内藤満寿と思われる。



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by kaz794889 | 2014-12-30 18:06 | Comments(0)