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2015年 03月 01日

石和の小松農園のこと

【小松遊覧農場の案内チラシ】
f0191673_17311937.jpg 小松農園は石和(現在の笛吹市)のJRAの場所にあった遊覧農場であり、その正式名称は小松遊覧農場であった。

 明治40年の大水害により笛吹川の本流が現在の流れに変わり、かつての笛吹川は廃河川となり、荒廃した土地を開拓した後に開設された施設が小松遊覧農場であり、山梨県内においては通称「小松農園」として親しまれていた。
 石和温泉は昭和36年1月24日の温泉噴出がその始まりであるが、先日の新聞記事(「やまなし戦後70年の軌跡 3」)によれば、小松農園では昭和31年9月に約30度の温泉が噴出しており、その温泉を約40度に加温した上で、農場内の「葡萄温泉」として利用していたという。
 チラシに写る建物は、葡萄温泉に付設された「大ローマ風呂」である。











【小松遊覧農場案内図】
f0191673_17312497.jpg 小松農園の敷地内には、案内図のとおり葡萄温泉の他にも遊園地や大食堂等の施設が設けられ、後年は動物園やイベントホールも建設されている。

 価値観の異なる現在にはそぐわない可能性もあるが、小松農園は大人も子供も楽しむことができる山梨県内の一時代における遊覧施設であった。





























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by kaz794889 | 2015-03-01 22:17 | Comments(1)
2015年 02月 28日

旧山梨県庁舎と前庭

【旧山梨県庁舎(現在の県庁別館)】
f0191673_14374662.jpg 昭和5年に竣工した旧山梨県庁舎(現在の県庁別館)の耐震改修工事がほぼ終了したとの報道があった。
 本年4月の[山梨近代人物館」開館に合わせ、同館として使用公開される庁舎2階の旧知事室、3階の旧正庁などは、調度品も含め竣工当時の姿に復原改修されるという。

 写真は昭和30年代初め頃の旧山梨県庁舎である。
 庁舎の右端2階が旧知事室、庁舎正面3階が旧正庁である。
 元山梨県庁職員による、『回想「県庁歳時記」』吉田三郎著(昭和51年刊)には、正庁について次のよう記している。
 「正庁とは何か、知っている者は今県庁内でも数少ないと思う。旧館の三階にある農地課が現在使用している部屋がそれである。知事が司宰するすべての儀式、訓示、それに貴賓の接遇などに使用し、平素は開かずの扉を持つ県庁内で最も神聖な所だ。だから部屋の構造や扉なども、他の事務室などとは趣を異にしている。確かシャンデリア風の照明灯を配し、周囲の壁なども音響効果を考えて作られていたように覚えている。四大節には、会計課の金庫から恭しく御真影を頭上に捧げて運び、中央北側の一段と高い処に安置する。知事は胸部を金モールに飾られた大礼服に羽をあしらったナポレオン帽、ほんとうに偉い人に見えた。」



【昭和10年代の旧山梨県庁舎】
f0191673_14375344.jpg 県庁別館は竣工以来、その外観はほぼ旧観を保っているが、別館庁舎前に前庭が建設されたため、庁舎前の空間は現在とその趣が異なっている。
 前庭は昭和39年4月に、昭和29年から10数年の歳月をかけた野呂川流域総合開発事業を記念し、野呂川渓谷をイメージした「白鳳の庭」として建設されたものであり、石は全て白鳳渓谷の広河原から運搬し、樹木は県内外から移植したものだという。

 










 

【旧山梨県庁舎と前庭】
f0191673_14375906.jpg 写真左側の植栽が、県庁別館前の前庭である。
 今後の県庁整備の中で、前庭は撤去され広場化が図られるようである。

























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by kaz794889 | 2015-02-28 15:54 | Comments(0)
2015年 02月 21日

明治期における種痘と種痘済証

【明治14年の種痘済証】
f0191673_14483689.jpg 山梨県内における種痘は幕末期、巨摩郡藤田村の広瀬家、八代郡市川大門村の村松家、巨摩郡古市場村の大久保家やこれらの医家を師と仰ぐ種痘医によって受け継がれ明治期に至っている。 

 明治4年2月に甲府県種痘所による種痘定則が定められるとともに、種痘局が甲府共立病院(山梨県病院の前身)に置かれ、3月には種痘局の出張所が山梨郡に3か所、八代郡に4か所、巨摩郡に8か所置かれ、各出張所には種痘局が種痘許状を与えた医師2人、甲府県庁が命じた世話役2人が配され、10月には都留郡にも8か所の出張所が置かれることとなった。

 明治6年10月7日には、種痘定日の設定、村の世話掛(戸長又は伍長)による村内への種痘に関する意向の徹底など、種痘規則等に基づく従来の種痘方法が大幅に改正され、明治7年には種痘規則が布達され、種痘医は管内種痘出張所の医師のほか、願い出による検査の上、一般医師にも免許状が下附されるようになるなど、その後も種痘に関する定めは種々改正されている。

 種痘済証の種痘医「依田正俊」は後に依田多仲と号する巨摩郡切石村の医師であり、安政3年に寺子屋である杏林堂を切石村に開き、明治5年当時、22名の生徒を擁していた。また、明治5年に医務取締役、同8年に種痘医を命ぜられ、明治17年3月に没している。











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by kaz794889 | 2015-02-21 17:01 | Comments(0)
2015年 02月 11日

甲府ワンドラー

【甲府ワンドラー発会式を伝える新聞記事】
f0191673_10521573.jpg 本年2月5日の山梨日日新聞に「甲府ワンドラー解散 会員高齢化 80年の歴史の幕」と題する新聞報道があった。報道によれば「登山ハイキングクラブの甲府ワンドラーは昨年末、80年にわたる活動を終了し、解散した。会員の高齢化などが理由で、関係者からは惜しむ声が聞かれた。」とのことである。

 甲府ワンドラーは野口二郎、高野孫左衛門、大沢伊三郎の主唱により「野を歩め、山に行け、光を浴びよ」を綱領として発足したハイキンググループであり、昭和9年7月1日に発会式が開かれ、開式後第一回の徒歩旅行先である、北巨摩郡登美村の登美台地(現在の甲斐市)に向けて出発している。

 当時の山梨日日新聞記事によると、制服制帽姿の会員40余名が集まり、昭和9年7月1日7:30に甲府城の謝恩塔下にあった池畔で発会式が行われている。
 開会式は、甲府ワンドラーの提唱者である野口二郎(当時の山梨日日新聞社社長)の開会の辞、その後、理事選挙が行われ野口二郎が理事長となっている。
 開式後、会員は四班に分かれて山日ペナントを先頭に女性班から登美台地に向けて出発。白亜館農園事務所での昼食後、登美村に因む郷土史講演会が行われている。14:00には帰路に向かい登美村、敷島村を経て荒川伝いに県営球場(現在の飯田球場)に出て17:30に散会している。

 また、甲府ワンドラーの発足は、その後、山梨日日新聞と甲府ワンドラーとの共催で昭和11年8月6日に山梨、神奈川の県境である境川畔から第一歩を踏み出した、第一回甲州夏草道中につながっている。
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【謝恩塔下にあった噴水池】
f0191673_12222776.jpg 甲府ワンドラーの発会式が行われた、昭和20年代中期の謝恩塔下の池畔である。
 甲府城整備により、現在は芝生広場的な状態となっているが、謝恩塔下には、かつて噴水池が設けられていた。
 池の中央に建つ石造物の上には、かつて鶴の像があり、鶴の口部分が噴水の噴出口となっていたが、戦時中の金属の供出で失われている。







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by kaz794889 | 2015-02-11 12:19 | Comments(1)
2015年 02月 08日

十日市

【南アルプス市十日市場の安養寺本堂】
f0191673_12294787.jpg 
 毎年2月10日と11日の2日間、南アルプス市の十日市場地区で開催される「十日市」は、甲府盆地に春を告げる風物詩として広く知られている。
 
 十日市場地区の真言宗安養寺が所蔵する「木造寄木地蔵菩薩立像」(南アルプス市指定文化財・昭和51年1月1日指定)は、その昔、霊験あらたかな仏像といわれ、その開帳日には甲斐国中の老若男女が集まったという。このため、いつしか物々交換の市が起こったことが、いわゆる十日市の始まりとされ、現在は農用具中心の大市となっている。












【安養寺庫裏】
f0191673_12294010.jpg 安養寺の本堂東側に建つ庫裏である。
 
























【県道からの安養寺入口】
f0191673_12293127.jpg 県道沿いの安養寺入口である。
 「十日市跡」は、南アルプス市指定の史跡として昭和46年1月28日に指定されている。




















【昭和30年代前半の同所】
f0191673_12291222.jpg 上記の安養寺入口と同位置の昭和30年代前半頃の写真である。
 県道はまだ未舗装の状態であり、入口左側には「史跡 十日市 山梨県」の文字が記された木柱が建てられている。
 



























【十日市場地区】
f0191673_12292365.jpg 十日市祭典における露店出店の中心地となる、県道沿いの十日市場地区である。
 本年1月20日の新聞報道によると、全盛時の半分程度ではあるが、今年の十日市に出店する露店は188店(県外127店、山梨県内61店)とのことである。
 また、露店とは別に商工会関係者などによる模擬店が82店でるという。
















【昭和30年代前半の同所】
f0191673_12291698.jpg 上記の位置を写した昭和30年代前半の写真である。
 左側手前に写る土蔵は、外壁の改修はされているものの現在も同じ位置に残っている。また、その先の土蔵などの建物は既に取り壊され、その位置は山梨ダイハツの営業所(他の営業所と統合され、旧営業所の建物が残っている。)となっている。























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by kaz794889 | 2015-02-08 15:37 | Comments(0)
2015年 01月 03日

野牛島の能蔵池

【能蔵池】
f0191673_10185649.jpg 南アルプス市野牛島の能蔵池(のうぞういけ)は、噴き出していた御勅使川の伏流水をせき止めて造営された溜池であり、池の落水は野牛島から上高砂を東南に伸び、四ヶ村堰と交叉し神明川となって釜無川に注いでおり、かつては野牛島、上高砂、下高砂、徳永など各村の水源でもあったという。

















【能蔵稲荷】
f0191673_10181600.jpg 能蔵池に接して鎮座する能蔵稲荷である。
 























【能蔵稲荷の祠】
f0191673_10180600.jpg 能蔵稲荷の祠である。























【能蔵池の碑】
f0191673_10310962.jpg 能蔵池稲荷の境内に建つ「能蔵池ノ碑」である。
 この碑は建立当時の市川代官である森田行の撰文、前任の市川代官である荒井顕道の書、久貝岱の篆額により、安政4年10月に建碑された石碑である。





























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by kaz794889 | 2015-01-03 12:33 | Comments(0)
2014年 12月 30日

女子交際會


【女子交際會設立大意】
f0191673_15363703.jpg 
 「同じ心の婦人共同して女子の風習を改良し家政の学を講習し以て女子の教育を拡張せらるる聖旨を翼成するにあり」、「旨趣に基き会員相親睦し相諮詢し各自一家の幸福を謀り女子の品位を高尚にせんことを要す」との、「婦人交際會仮規則」第一条及び第二条に定める目的等から、女子交際會が設立され、明治20年1月16日に発会式が行われている。

 女子交際會は、山梨県尋常師範学校及び甲府学校の女性教師を発起人とし、事務局を山梨県尋常師範学校の徽典館女教場内に、会費は一か月5銭として、毎月第一日曜日の午後1時に例会を行っていた。






















【設立大意に記載されている女子交際會の発起人及び協賛者】
f0191673_17043739.jpg 「女子交際會設立大意」の最終頁に記載されている発起人と協賛者である。
 「女子交際會」は発足してから数年で解散状態となり、明治23年11月9日に同会の会員であった13名が発起人となり、「山梨婦人會」が新たに設立されている。
 


















発起人と協賛者は次のとおりである。 
 [発起人]
   「長野はな子」は埼玉出身で、明治17年から同20年まで山梨県尋常師範学校の二等助教諭を務めている。
   「宗てい子」は福岡出身で、明治19年から同21年まで山梨県尋常師範学校の訓導を務めている。
   「権太きん子」は長崎出身の甲府学校訓導であり、甲府学校校長を務めていた権太政の夫人である。
   「相原りか子」は明治16年の徽典館中等師範科卒業生である。
 [協賛者]
   「藤村夫人」は当時の山梨県知事藤村紫朗の夫人
   「高木夫人」は当時の山梨県書記官第一部長の高木忠雄夫人 
   「大木夫人」は当時の山梨県書記官第二部長の大木房英夫人
   「内藤萬春子」は内藤伝右衛門の養母で社会教育や教育に熱心に取り組んでいた、内藤満寿と思われる。



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by kaz794889 | 2014-12-30 18:06 | Comments(0)
2014年 12月 13日

素堂翁治水碑

【素堂翁治水碑】
f0191673_17520280.jpg 甲府市寿町11に鎮座する文殊神社境内の「素堂翁治水碑」である。
 この治水碑は俳人として知られる山口素堂が、桜井政能とともに行ったという濁川の治水工事に関する頌徳碑である。
 素堂の後裔にあたるといわれる山口伊兵衛が多くの知人と謀り、寿町を地元とした山田弘道(藍々)の篆額、平原豊の撰により明治33年8月に建碑されている。


























【素堂翁治水碑の拓本軸】
f0191673_17520889.jpg 治水碑の拓本である。






























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by kaz794889 | 2014-12-13 19:39 | Comments(0)
2014年 12月 06日

大塚邑水路新造碑と中井清太夫生祠

【県営大塚排水機場内の石碑類】
f0191673_13201891.jpg 
 曽根丘陵の北の端の急な崖と、笛吹川の間に位置する甲府市上曾根から西八代郡市川三郷町上野にかけては、昔から水害の多い低湿地帯として知られており、特に市川三郷町大塚と同町上野の間を流れる押出川(オシダシガワ)が西北に流れているため、大塚沼から西流する水は押出川の土手により、流路を北に曲げて笛吹川に流れるため、流末の位置が高くなり、大雨のたびに悪水路の水は逆行して田畑が水没し収穫は皆無となるなどの憂き目をみてきたため、悪水路の改修は地元民の長い間の悲願となっていた。
 安永6年から天明7年まで甲府御役所の代官を務めた中井清太夫は、こうした大塚村の排水路の問題に深く関与し、その改修工事を企画、率先指導し、天明6年から天明7年春にかけて悪水路の改修を行っている。
 県営大塚排水機場(西八代郡市川三郷町大塚1061-8)敷地内に残る写真の石碑類(当該石碑類は排水機場近くの押出川右岸の堤防上から、排水機場敷地内に移されている)は、悪水路改修に関わる石碑類である。





【大塚邑水路新造碑】
f0191673_13202652.jpg 悪水路の改修により、耕地も広がり村も豊かになったことから、その恩恵を受けた地元民は、中井清太夫の功績と恩徳を称える石碑の建設について中井に許しを請うたが、代官として当然なすべきことをなしたに過ぎないとして承知しなかったという。
 中井の退官後、再び建碑を願い出たところ、(退官後であるため、)そのことの良し悪しは言わないと黙認したということから、写真の「大塚邑水路新造碑」が建立されることとなった。
 
 石碑は高さ147㎝、幅35㎝、奥行32㎝の角柱であり、悪水路改修工事から11年後の寛政9年5月に完成している。
 碑文の撰者は御普請役阿部太市藤原義行であり、中国最初の王朝「夏」の創始者で、黄河の治水に成功した「禹王」に続く者として、その治水工事を称え、永久に民の利益である旨の内容が刻まれている。
 




















【中井清太夫の生祠】
f0191673_13203332.jpg 中井清太夫の生祠は「お水神さん」と呼ばれており、側面には「天明六年丙午年十二月四日」と刻まれており、排水工事完成直後の建てられたものである。
 前記の新造碑には「庶民言いて以って神となす」とあることから、中井の許しを得ないまま、お水神さまと称しながら中井の生祠として祀られたものと思われる。
 なお、新造碑と生祠は「大塚邑水路新造碑及び代官中井清太夫生祠」として昭和62年3月31日に、当時の三珠町により町指定の史跡として指定され、合併後の現在は市川三郷町指定の史跡として引き継がれている。
 










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by kaz794889 | 2014-12-06 16:22 | Comments(0)
2014年 11月 30日

濁川の庄塚

【甲府市西高橋町 濁川左岸の庄塚】
f0191673_14115177.jpg 甲府宰相徳川綱豊が甲府藩主であった元禄7年に代官触頭として着任した桜井政能(孫兵衛)は、濁川の水害に悩まされ、大雨の際は舟でなければ身動きが出来ないばかりではなく、一帯に池沼が多いため、穀物が不作で住民の苦しみが絶えなかったという、現在は甲府市となっている、蓬沢村、西高橋村など諸村住民の哀訴を聞き入れ、山口勘兵衛(素堂)の協力を得て、元禄9年に西高橋村から落合村までの凡そ2100余間の堤防を築き、濁川の流れを笛吹川に合流させるなどの改修工事を完成させている。

 当該地域の住民は桜井と山口の徳を称え、桜井霊神、山口霊神の生祠を堤上に併祠し、同地が一条庄と油川庄との境界にあたることから庄塚と云われている。



 






【桜井政能の生祠】
f0191673_14115836.jpg 

元禄9年の改修工事完成後119年が経過した文化11年12月に完成した、『甲斐国志』巻之四十三古跡部第六「庄塚碑」には「「桜井霊神」と称する生祠を塚上に建て、側に「山口霊神」と称する石塔もあり、後年に祠の前に地鎮碑が建てられた。」旨が記されているが、現在は「桜井霊神」である桜井政能の生祠のみが残され、「山口霊神」の石塔は失われている。
 

現在残されている桜井政能の生祠には、その正面に「桜井社」、祠の裏に「享保十八癸丑十二月十四日建之 山梨郡 願主 蓬沢村 西高橋村」の文字が刻まれている。(桜井政能は享保16年に逝去しているため、現在残る生祠は、当初建立されたものとは異なり、後年再建された石祠と思われる。)
 










【濁川改修地鎮碑】
f0191673_14112821.jpg 桜井政能は享保16年1月14日に83歳で逝去している。
 桜井の逝去後、将来その由緒が忘れ去られることを恐れ、この石碑が建立されている。
 石碑には建立年月として「元文戌午七月」、建立者として「齊藤六左衛門藤正辰立」の文字が刻まれている。 
 戌午の歳は元文3年にあたり、桜井の逝去後5年目の年にあたる。
 また、建立者の齊藤六左衛門正辰は、桜井政能の兄政蕃の孫に当たり、当時は幕府勘定方であった。























【庄塚碑全景】
f0191673_14113675.jpg 庄塚碑が当初建てられていた位置は、濁川の大改修に伴い川筋となったため、昭和15年頃に東側の畑地に移されていたが、埋立処分地整備事業に伴い平成15年に現在の場所に移されている。
 





















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by kaz794889 | 2014-11-30 16:26 | Comments(0)