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2015年 09月 21日

山梨県結核予防協議会

【「山梨県結核予防協議会」発行の結核予防チラシ】
f0191673_17560627.jpg 1882年(明治15年)にドイツのコッホによる結核菌の発見は、それまでの結核菌病遺伝説を覆し、予防や治療の道が医界において開かれた
ものの、一般社会においては結核遺伝節が根強く、結核そのものが無関心に放って置かれていたという。
 
 山梨県内においては、いわゆる地方病が古くから研究対象としてその研究や対策が進められつつあったものの、結核についてはその病が重患となるまで殆ど表面に現れなかったこと。また、当時の衛生統計が不完全であり、その死亡率が完全に出せなかったことによると云われており、結核の対策について注目されてきたのは明治34年頃であったといわれている。(明治34年の山梨県統計書によれば、当該年における山梨県内の疾病による死亡者8,799人の内、肺病による者は559人である旨が記されている。)

 こうした状況を経て、大正2年5月19日に山梨県から山梨県医師会に対し「梨衛発第85号」を以て「肺結核患者発見ノ便法如何」との諮問案が回送されたことから、同医師会は同年5月24日に県会議事堂において開会された第七回定期総会において「委員ニ附託スル事ニ決シ之レヲ会長ニ一任ス、依テ会長ハ左之通リ指名ス」とし、山梨県医師会長、各郡医師会からの8名(雨宮文亮[甲府市・西山梨]、飯島松次郎[東山梨]、若尾真次郎[東八代]、島田正巳[南巨摩・西八代]、杉浦建造[中巨摩]、古屋晴[北巨摩]、梶原垣太郎[南都留]、富田市五郎[北都留])の委員及び特別議員3名(喜多島豊三、吉岡順作、長沢)の12名による審議がなされ、同年7月16日に当該諮問に対する同医師会の意見を加藤寅輔会長名により答申するとともに早急に結核予防協議会を設立すべきとの意見がなされている。

 結核予防協議会については、大正3年2月に山梨県警察部衛生課に事務所を置いた「山梨県結核予防協議会」として、「恩賜財団済生会山梨県」「日本赤十字社山梨支部」「山梨県医師会」「日本薬剤師会山梨支部」「私立山梨県衛生会」「山梨県教育会」が推薦する各団体2名の代表者を会員とし、会長は山梨県知事、幹事長は山梨県警察部長として発足している。





【結核予防チラシ[部分]「肺病に罹らぬ心得」】
f0191673_17562652.jpg 「肺病ら罹らぬ心得」と題する結核予防チラシは、数回に及ぶ審議を経て図案等が決定され、山梨県結核予防協議会がその印刷を日本赤十字社山梨支部に託して10万枚を印刷し、大正4年に各家庭に配布されている。
 また、当該チラシは、中巨摩郡小井川村(現在の中央市)出身の最後の浮世絵画家と云われる中澤年章(元治元年~大正10年)により描かれている。






【結核予防チラシ[部分]】

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by kaz794889 | 2015-09-21 22:15 | Comments(0)
2015年 07月 26日

山梨県甲府測候所発行の「気象信号要覧」

【気象信号要覧】
f0191673_12114450.jpg 明治39年9月に山梨県甲府測候所が発行した「気象信号要覧」である。
 山梨県甲府測候所は「気象台測候所条例(明治20年勅令第41号)」に基づき、明治27年8月1日に甲府市西青沼に山梨県の機関として開設され、一日6回の気象観測と気象通報を行っていた。また、午前9時から午後4時までの間、測候所の参観が許されており、参観希望者は自己の住所、氏名、職業を記した書面の提出が求められていた。

 大正9年に甲府測候所は甲府市伊勢町1242番地に移転。
 その後、気象業務の一元化と敏速化の要請などから「気象官署官制(昭和14年勅令第740号)」が公布され、昭和14年11月1日に全国の気象機関は文部省の機関として国営移管となり、山梨県甲府測候所は「甲府測候所」となった。

 昭和20年の甲府空襲による庁舎の焼失後、昭和26年11月に甲府市飯田町に移転し、昭和32年11月には甲府地方気象台となり現在に至っている。


 














【明治40年の甲府市街図】
f0191673_12115304.jpg 青い線で囲んだ位置(現在の甲府市丸の内2丁目、山梨県ボランティアセンター附近と考えられる。)が山梨県甲府測候所の置かれた場所である。
 




















【「気象信号要覧」掲載の気象信号標識】
f0191673_12114732.jpg 「気象信号要覧」に記載された気象信号標識である。
 甲府測候所の観測に基づく天気の情報については、当時、甲府市内巡査派出所、山梨県庁前、甲府停車場、山梨県内各警察署前に掲示されていた。

 














【甲府城跡天守台の信号柱】
f0191673_12115730.jpg 中央気象台の指示により、甲府測候所は構内の敷地に天気予報の信号標柱を建設し、明治28年7月1日から中央気象台から入電する予報と自所が観測した風向きや気温を示す旗を掲げて市民に知らせていたが、測候所のある西青沼では人目に触れにくい等の理由から、甲府城跡の天守台に警報信号標柱を建て、明治33年10月6日から甲府測候所発表の天気予報に合わせた旗の掲揚を開始している。

 










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by kaz794889 | 2015-07-26 13:32 | Comments(0)
2015年 06月 14日

津島家寄託 太宰治資料展

【昭和10年代中期頃の甲府市全景】
f0191673_20121627.jpg 山梨県立都留高等女学校勤務の石原美知子と婚約した太宰治は、昭和13年11月16日に御坂峠の天下茶屋から、美知子の母である石原くらが見つけた甲府市竪町の寿館に転居し、甲府市での生活が始まっている。

 昭和14年1月6日には、結婚後の住居である甲府市御崎町の借家に転居し、同年9月1日に東京府北多摩郡三鷹村下連雀113番地の借家に転居するまでの約10か月間が、疎開期を除く太宰の甲府時代であった。

 太宰が東京近郊に転居を計画したのは昭和14年の5月上旬頃だといわれている。『増補改訂版 回想の太宰治』津島美知子著によれば、東京近郊への転居を考えるようになったのは、「太宰はもっと心おきなく語り合い刺戟し合う先輩や仲間が近くに欲しかったのだと思う。」とある。
 また、トタン葺き平屋のためか、御崎町の借家は畳まであつくなるなど、暑くてたまらず、やはり6円50銭の家賃相応の家であったことも記されており、甲府盆地の過ごし難い夏も転居を考えた要因のひとつでもあったと考えられるところである。




【「津島家寄託 太宰治資料展」のチラシ】
f0191673_20121238.jpg 昭和14年9月1日に転居した三鷹村下連雀113番地の住居は、中央線の三鷹駅から徒歩約20分の新築、家賃24円の借家であった。
 戦時期の疎開時期を除き、太宰治とその家族はこの借家を主体に三鷹に居住していた。

 いわゆる三鷹時代の津島家における生活資料や太宰の創作活動に関する資料は、太宰治の没後、美知子夫人により保管され、美知子夫人の没後は、長女、次女らが引き継ぐ形で保管されていたが、津島家から総数70点におよぶ三鷹時代の資料が三鷹市に寄託されたということである。

 こうした津島家寄託資料を中心とした「津島家寄託 太宰治資料展」が、平成27年6月13日から6月28日までを会期(6/15、6/22は休館)として、三鷹市美術ギャラリー(三鷹駅北口からすぐ)で開催されている。



















【太宰治資料展の展示会場入口】
f0191673_20125219.jpg 今回の資料展は「Ⅰ 三鷹へ」、「Ⅱ 現在もなお続く桜桃忌」、「Ⅲ 太宰治の筆休め -絵筆を執る-」、「Ⅳ 妻が残した太宰治」、「Ⅴ 三鷹で生まれた珠玉の作品 -色褪せぬ太宰文学-」の五部構成により展示されている。

 これまで各種の文学アルバムや文学展、その図録などで見た資料も展示されているが、「Ⅰ 三鷹へ」で展示されている戦時期から終戦後にかけての津島家の生活関連資料や、「Ⅳ 妻が残した太宰治」で展示されている太宰の検印6点、美知子夫人愛用の文箱などは、初めて目にした興味深い資料であった。 










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by kaz794889 | 2015-06-14 22:37 | Comments(0)
2015年 06月 07日

平成27年 山梨桜桃忌

【御坂峠 五曲坂】
f0191673_16480569.jpg「 私は、甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠へたどりつく。  
御坂峠、海抜千三百米。この峠の頂上に、天下茶屋という、小さい茶店があって、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもって仕事をして居られる。私は、それを知ってここへ来た。」
 『富嶽百景』の一節である。

 昭和13年当時、御坂峠を経由して甲府と吉田は、御坂国道バス株式会社のバスで結ばれていた。
 当時の発車時刻表によれば、一日8往復、甲府を朝7:00に発車したバスは石和、十郎橋を経て、御坂峠の頂上に8:10、三つ峠入口、船津を経て、終点の吉田には8:50に到着していた。
 写真の五曲坂(イマガリザカ)は御坂峠に向かう峠道の坂であり、当時の御坂国道バスの案内には「地勢急峻のため道路雛段の如く五段にて自動車の交錯する時など一種変わった眺めなり。五曲坂と呼ぶ。」と記されている。



【平成27年 山梨桜桃忌の案内】
f0191673_16355957.jpg 本年も、太宰治ゆかりの天下茶屋において、6月14日に山梨桜桃忌が開催される。

























【御坂峠の太宰治文学碑】
f0191673_16361078.jpg 昭和28年10月31日に除幕式が開催された、御坂峠の太宰治文学碑である。(写真は昨年の山梨桜桃忌における文学碑)
 
 山梨桜桃忌は、この文学碑前での献花の後、天下茶屋における講演会と参加者による意見交換が行われている。



















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by kaz794889 | 2015-06-07 17:38 | Comments(0)
2015年 05月 03日

甲府駅構内売店のパン販売

【甲府駅構内売店のパン販売用の袋】
f0191673_21400797.jpg 昭和初期頃の甲府駅構内の売店におけるパンの販売に使用された紙袋
である。
 この紙袋に販売用のパンを入れ、袋の表面に表示されているとおり、一個10銭で販売していたようである。

 甲府商工会議所が発行した『甲府商工案内 昭和十年版』によれば、当時の甲府市内におけるパン製造業者として、常盤町「芙蓉軒」、桜町「吟月堂」、泉町「万年堂」、佐渡町「木村屋」、上連雀町「鈴木」、太田町「伊勢屋」、橘町「山梨製パン株式会社」の名が記されている。





















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by kaz794889 | 2015-05-03 21:53 | Comments(0)
2015年 04月 11日

武田二十四将騎馬行列

【甲府駅頭における騎馬行列】
f0191673_17041504.jpg 本年も4月3日~5日に開催された信玄公祭り甲州軍団出陣は、昭和45年から始まっている。
 第一回にあたるこの年の甲州軍団出陣は4月11日の土曜日、当日は雨模様の中を約1300人により構成された軍勢により、平和通りを中心に約2時間の武者行列が繰り広げられ、平和通りは6万人の見物客(山梨県警の調べ)であったという。

 写真の騎馬行列は、昭和45年に信玄公祭り甲州軍団出陣が開催される前年、昭和44年に行われた武田二十四将の騎馬行列である。
 この騎馬行列は、武田神社の例祭日である4月12日(祭神である武田信玄の命日)に現在も行われている。

 騎馬行列の背景に写る武田信玄公像は、昭和44年4月12日に武田信玄公奉賛会により4年の歳月をかけて建立序幕された銅像である。





【甲府市役所前における武者行列】
f0191673_17042405.jpg 武田神社による例祭日の騎馬行列は、当時、武田神社を出発し甲府駅頭を経て御旅所にあたる甲府市太田町の遊亀公園に至るコースを進んでいたという。
 写真は、平和通り沿いの旧庁舎時代の甲府市役所前の状況である。
 背景の建物は山梨県庁本館であり、現在の県庁防災新館の位置にあたる、その手前の建物は当時の中込百貨店である。











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by kaz794889 | 2015-04-11 18:16 | Comments(0)
2015年 04月 05日

大正大礼・地方賜饗鐉式

【地方饗鐉御召状】
f0191673_11354984.jpg  大正4年11月10日、京都御所紫宸殿において大正天皇の即位の大礼が挙行された。
 この御大礼を祝し各地方においても地方賜饗鐉式が行われており、山梨県においても11月16日に甲府市錦町の山梨県会議事堂(現在の甲府市役所北側にあった当時の議事堂)において行われている。

























【奉祝 御大礼記念 甲府市常盤町通り】
f0191673_11355330.jpg 大正大礼を奉祝し甲府市街の各所において提灯飾りや道路を跨ぐアーチ門が設けられるなど、大礼前後の市街は奉祝の装飾に満ちていた。

 写真は錦町交叉点から見た、100年前の常盤町通りの東側方向である。
 左の建物は山梨農工銀行(現在のみずほ銀行甲府支店)、常盤通りの正面は若尾銀行(現在のNTTの位置)である。












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by kaz794889 | 2015-04-05 12:22 | Comments(0)
2015年 04月 04日

柳町の勧工場と祖師堂

【柳小路飲食店街の入口】

f0191673_15071622.jpg 明治36年8月に、甲府市柳町の牛山儀助、浅川友造、八日町の山田忠蔵の3名が中心となり、市街中央部に勧工場(かんこうば)の設置が計画された。

 勧工場は、各種業者が連合し日用商品を主に持ち寄り、これを一か所に陳列して販売する、平面式デパートといった体による販売組織である。

 甲府勧工場の設置計画については有名商店多数の賛成加盟を得て、その設置場所に、当時甲府市街の商店街中心地となろうとしていた甲府市柳町2丁目を選び、敷地面積約150坪、20数業者による勧工場を建設し、明治36年11月6日に「博品館」と命名された勧工場が開業している。

 座売りが一般的な販売方法であった時代に、商品が一面に陳列され自由に見たり触ったりできるよう、様々な種類の商品を場内に同寺に並べて販売させる陳列販売方式による博品館は、開業後数年間は相当の人気を呼び甲府市の一名物となっていた。

 甲府市中央4丁目の遊亀通りと城東通りが交わる南側、柳小路飲食店街の入口付近(写真の中央空き地の位置)に甲府勧工場である「博品館」が営業していた。



【昭和16年の市街図】
f0191673_15074140.jpg 博品館の人気は開業後10年程度であった。
 このため、営業不振の打開策として、大正4年には博品館の正面突き当りに日蓮宗祖師堂を建立し、白木造りの堂に太鼓と赤い大提灯を備え、名称も「天晴館」と改め、祖師堂横から桜町に抜ける通路(現在の柳小路飲食店街の北側入口)も、この時に設置されている。


 その後、天晴館の営業
不振が続き大正末期には館内の一部を残して改装し、ローラースケートやピンポンなどの遊技場に転向してその営業を続けていたが、昭和3312日の午後3時頃、館内で営業していた藤原石油乳剤工場(ガソリンを主剤にした殺虫剤製造業者)から出火、その後、ガソリン引火による大爆発が発生し、同館は全館が焼失するとともに、近隣においては全焼7戸、半焼4戸の被害が発生するなどし、同館はついに復旧されることなく廃業している。


















【柳小路飲食店街】
f0191673_15072699.jpg かつて博品館が開業していた、現在の柳小路飲食店街。
 写真中央突き当りに後述の石祠が置かれている。




















【柳小路飲食店街の石祠】
f0191673_15105275.jpg 祖師堂跡に置かれている石祠。
 柳小路飲食店街の守り神、火伏の神となっている。





















【身延山別院】
f0191673_15073812.jpg 祖師堂はその後、中央2丁目の城東通り(旧甲州街道)沿いにおいて、身延山別院となっている。

























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by kaz794889 | 2015-04-04 16:51 | Comments(0)
2015年 03月 29日

甲府道祖神祭幕絵の流転

【峡中新聞 第四号】
f0191673_21151137.jpg  明治壬申(5年)11月発行の峡中新聞第四号に掲載されている、下記の「県庁布達写」のとおり、明治5年11月14日、山梨県令土肥實匡により、山梨県内各所で行われていた道祖神祭礼を取り締まるための「道祖神祭礼取締」が、山梨、八代、巨摩、都留各郡の正副戸長あて通達され、甲府城下町にあたる各町域の道祖神については、統合や寺社境内への移設が図られることとなった。

 このため、甲府道祖神祭も廃止され八日町、柳町、緑町、魚町、連雀町など各町内ごとに物語絵や名所絵などの画材を決め、江戸、京都の絵師により描かれた、甲府城下町全体で数百枚が存在しという飾幕絵もその役割を終え、処分、転用されていったという。



















【峡中新聞掲載の「道祖神祭礼取締」布達】
f0191673_21151493.jpg




























【「甲府道祖神幕絵 東都名所 目黒不動之瀧」(部分)】
f0191673_21152047.jpg 現在知られている甲府道祖神幕絵は、甲府緑町1丁目で飾られた山梨県立博物館所蔵の2代歌川広重筆の「東都名所 洲崎潮干狩」(山梨県指定文化財)、甲府柳町4丁目で飾られた県外個人所蔵の歌川芳年筆「太閤記 佐久間盛政 羽柴秀吉を狙ふ」及び「東都名所 目黒不動瀧」の3枚である。

 写真は「東都名所 洲崎潮干狩」と同様に山梨県指定文化財として山梨県立博物館が所蔵する「東都名所 目黒不動瀧」の飾幕絵である。

 甲府緑町1丁目の甲府道祖神祭幕絵は江戸名所を題材としたものであり、「東都名所 目黒不動瀧」も甲府緑町1丁目で飾られた飾幕絵の1枚であり、明治5年の「道祖神祭礼取締」による道祖神祭の廃止後、少なからぬ流転を経て平成17年度に県外の個人所蔵者から山梨県立博物館が購入し、山梨県指定文化財として同館が所蔵、現在に至っている。


【甲府市緑町の地籍図】
f0191673_21295582.jpg  甲府緑町1丁目の飾幕絵は明治5年の道祖神祭礼廃止後、町内の何軒かに分けられ、その内の「東都名所 目黒不動瀧」は甲府緑町15番地の米穀肥料卸商の平原家(甲府市緑町地籍図の赤書で囲んだ位置)が譲り受けることとなった。

 同家では祭礼の幕絵であり日常の使い道もないため、同家の屋敷神の祭りの際に使用していたが、後年、それを見た甲州財閥の若尾家三代目である若尾謹之助が、大正3~4年頃に浮世絵の研究資料にしたいとの意向から、平原家から譲り渡されたという。

 その後、昭和恐慌による若尾家の没落により、昭和5年に同家の整理がなされた際に人手に渡った後、東山梨郡塩山町(現在の甲州市)の某旧家が所蔵、その後、昭和11年の春頃に東京市の浮世絵商が所蔵することとなった。



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by kaz794889 | 2015-03-29 23:19 | Comments(0)
2015年 03月 22日

甲府道祖神祭礼幕と目黒不動

【歌川広重筆「甲府道祖神祭幕絵 東都名所 目黒不動之瀧」(部分)】
f0191673_09362748.jpg 甲府道祖神祭は、江戸中期以降の甲府商人の隆盛に伴い、当国一大盛事と称されるほど盛大となり、江戸後期に至ると人びとの関心は次第に商家の軒先に巡らせた長大な飾り幕へと移っていき、町内ごとに画題を定め江戸の浮世絵師に幕絵の製作を依頼し、趣向と贅をこらして競い合う祭りであった。
 明治期に入り、華美を誇った道祖神祭りも、その贅沢さと治安上の問題から明治5年11月14日の道祖神廃止令により廃止され、無用となった幕絵は処分・転用され、その殆どが失われ、現在確認されているのは三枚のみである。

 「甲府道祖神祭幕絵 東都名所 目黒不動之瀧」は、現在確認されているものの内の一枚であり、甲府緑町一丁目の商家の軒先に巡らせた「江戸名所」を題材とした幕絵(11枚~12枚)の中の一枚であり、初代歌川広重により天保12年頃に製作されたものと云われ、平成16年5月6日には山梨県指定文化財に指定され、現在は山梨県立博物館に所蔵されている。
 幕絵に描かれた目黒不動の現在を訪ねてみた。 

【目黒不動境内の独鈷の瀧と垢離堂】
f0191673_09363892.jpg 幕絵に描かれた東都名所「目黒不動之瀧」は、東京都目黒区下目黒の、天台宗泰叡山瀧泉寺、いわゆる目黒不動尊の独鈷の瀧であり、近年水量は減ったということではあるが、1年中水が枯れることなく、現在も龍御神水として、幕絵にも描かれている銅製の灯篭を中心に、その左右に二条の清水として銅製の龍口から注いでいる。
 また、幕絵にも描かれている小堂は、写真に写る現在の垢離堂にあたる建物だろうか。















【独鈷の瀧と男坂】
f0191673_09364372.jpg 幕絵には独鈷の瀧の右側に男坂が描かれている。
 写真の赤幕の下に写る階段が、目黒不動の本堂に通じる男坂である。




















【仁王門】
f0191673_09364839.jpg

 弘治3年に修理造営を行った堂塔も、元和元年の火災により、その殆どが焼失したが、その後、目黒不動を深く尊信する徳川家光により、焼失た堂塔が再建。以来、江戸近郊における参詣行楽地となり、門前町もにぎわったというが、再建後の堂塔は昭和20年の戦災により大半が焼失し、本堂、書院、鐘楼などは戦災後に再建されている。

 幕絵に描かれている仁王門も戦災で焼失しており、写真右側に写る朱塗りの門は、昭和37年に再建された仁王門である。
 













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by kaz794889 | 2015-03-22 20:15 | Comments(0)