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2009年 08月 16日

シンボルとしての謝恩碑

【恩賜林記念館附近から見た謝恩碑】
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【山梨県名所めぐり】
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 大正13年11月10日に山梨県が発行した『山梨県名所めぐり』と題する62頁の観光案内冊子である。
 甲府城の石垣と松の中にそびえ立つ大正11年に建設された謝恩碑と富士山の遠望が、この冊子の表紙に描かれている図案である。
  謝恩碑はその建設経緯と甲府城内に高くそびえる総高30mのオペリスク型の姿から、山梨県内では謝恩塔として親しまれ、その情景は戦前期における山梨県や甲府市のシンボルとなっていた。
  高い建物がなかった当時は、甲府駅頭から南東の方角にそびえ立つ謝恩塔を間近に見ることができ、市街地各所からもその姿が見られたようである。



【甲府舞鶴公園の桜 (絵葉書のタトウ)】
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 桜の名所として親しまれていた頃の舞鶴公園(甲府城)を写した絵葉書のタトウである。
 満開の桜が咲く舞鶴公園内に建つ謝恩碑をシンボルイメージとして図案化している。



【甲府駅の記念スタンプ】
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 ブドウの葉を輪郭とし、その中に昇仙峡の覚円峰と甲府城の満開の桜の中にそびえる謝恩碑が図案化された、昭和13年5月29日の甲府駅の記念スタンプである。


【「甲府の観光」 記念スタンプ】
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【「新興の甲府温泉郷」 記念スタンプ】
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 いずれも甲府観光協会による昭和13年5月29日の記念スタンプである。
 甲府観光協会は、甲府市を中心とする県内観光地、物産を紹介・宣伝するとともに、観光の利便を図ることを目的とし、従来の御嶽昇仙峡保勝会を解体して昭和7年11月に設立した。
 「甲府の観光」スタンプは、謝恩碑を中心として昇仙峡の覚円峰、富士山、湯村温泉、ブドウ、水晶、甲府市街地を図案化している。
 「新興の甲府温泉郷」スタンプは、謝恩碑の遠望と甲府市内の温泉郷をイメージして図案化している。

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by kaz794889 | 2009-08-16 12:46 | Comments(0)
2009年 08月 02日

恩賜林謝恩碑

【甲府城址に建つ謝恩碑】
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 明治40年及び43年の大水害は山梨県内に多大の被害をもたらしたが、その原因のひとつに県内林野の三分の二を占めていた旧小物成地の官有地、御料地への編入により従来からの入会慣行が制限されたことにより、濫盗伐、山火事などによる山林荒廃が進み水害の脅威が年ごとに増していったことによるといわれている。
 被災した町村などでは、「御料林の還付請願」などの機運が水害後に高まり、県会で意見書が当時の政府に対して提出されるなどの運動が功を奏し、明治44年3月11日に県下御料地298,203町歩を県有財産に下賜する旨の御沙汰書の伝達を受けたのである。(以来、3月11日は恩賜林記念日とされている。)
 こうした恩賜県有林の経緯を記念するため謝恩碑が建設されている。



━[甲府名所] 謝恩碑━
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 謝恩碑の建設は大正6年7月の臨時県会で議決され、伊東忠太、大江新太郎の設計・指導により、甲府盆地を一望にし恩賜県有林が遠望可能な地を考慮し、甲府城址本丸広場西南端への建設が着工された。
 謝恩碑の碑材は東山梨郡神金村上萩原(現在の甲州市)の萩原山恩賜県有財産内の花崗岩を使用した。
 碑高19mのオペリスク型、高さ7.5mのバイロン型による台座としその周囲は回廊式とした謝恩碑は大正11年9月に竣工し除幕式が挙行された。
 


━謝恩碑表面に彫刻せる山縣公爵揮毫の扁額━
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 謝恩碑の碑身は東側を正面とし、その台座に刻まれた山縣有朋による『謝恩碑』の揮毫である。

━謝恩碑裏面に彫刻せる山脇前知事の撰文━
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 謝恩碑の正面裏側である西側の台座に刻まれた、山脇春樹知事の撰文である。
 なお、謝恩碑が竣工した大正11年9月当時の知事は長野 幹であった。

━御沙汰書━
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 内務大臣の上京命令により、この御沙汰書は当時の山梨県知事熊谷喜一郎に伝達されている。

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by kaz794889 | 2009-08-02 18:21 | Comments(0)
2009年 07月 06日

甲府空襲


 甲府市とその周辺13町村は、昭和20年7月6日23時53分から翌日の午前2時頃にかけて、B29による空襲を受け、甲府は市街地の74%が焼失し焦土と化し、1,127名が犠牲となった。
 この日の日中の天気は晴れ、最高気温は29℃、22時の時点でも22℃の蒸し暑い夜であったようである。

【戦災援護義損寝具供出要綱(本建村)】
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 南巨摩郡本建村(現在の早川町)で7月30日に開催された常会における配布資料(「本建村常会提出事項」
)には既に「戦災者ノ援護ニ就テ」として罹災救恤品供出について記載されているが、この寝具供出要綱については、8月の終戦前後に出されたものと考えられる。
 その主旨としては、甲府市等における空襲罹災家庭の向寒に際して寝具用意のための義損寝具供出であり、山梨県恩賜財団戦災援護会山梨県支部が主催し、南巨摩郡下一円で5千枚、1万組を供出数量としている。

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 供出の期限は9月25日まで、本建村の割当は127枚で、その内訳は村内4地区で初鹿島地区16枚、小縄地区14枚、高住地区24枚、赤沢地区22枚のほか、赤沢地区の旅館組合には別枠で各旅館単位に合計51枚が割り当てられていた。

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by kaz794889 | 2009-07-06 23:57 | Comments(0)
2009年 06月 21日

山梨桜桃忌と天下茶屋

 太宰治生誕百年・天下茶屋七十五周年記念桜桃忌と山梨桜桃忌が御坂峠天下茶屋等において、平成21年6月20日に開催された。

【御坂峠の天下茶屋】
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 『甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠へたどりつく。御坂峠、この峯の頂上に天下茶屋という、小さい茶店があって、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもって仕事をして居られる。私は、それを知ってここへ来た』(富嶽百景)
 御坂峠に木造ニ階建、八畳三間の天下茶屋が建設されたのは昭和9年の秋といわれ、建設当初は富士見茶屋、天下一茶屋などとよばれていたが徳富蘇峰の新聞紹介記事がきっかけで「天下茶屋」となったようである。
 富嶽百景の一節である「思ひを新たにする覚悟」で旅に出た太宰治が初めてここを訪れたのが昭和13年9月13日、同年11月15日までの三ヶ月余をここで過ごしたのである。
 天下茶屋の現在の建物は昭和58年4月1日に開店した三代目の建物である。

【御坂峠 天下茶屋の案内チラシ】
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 富士山と河口湖を一望できる天下茶屋の二階には、太宰治が滞在した初代天下茶屋の部屋が復元された太宰治記念館が設置されている。

【御坂峠・天下茶屋と河口湖分店・峠の茶屋の案内図】
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 山梨桜桃忌は御坂峠の天下茶屋で、太宰治生誕百年・天下茶屋七十五周年記念桜桃忌は天下茶屋の河口湖分店である「峠の茶屋」において開催された。



【御坂峠からの河口湖】
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 山梨桜桃忌の開催された当日は、御坂峠から天下一富士の眺望は残念ながら見ることができなかったが、太宰治生誕百年の節目である今年の山梨桜桃忌の例年以上の参加者による開催となっていた。

【太宰治の文学碑】
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 天下茶屋の一室における講演会に先立ち、昭和28年10月31日に建立された『富嶽百景』の一節「富士には月見草がよく似合ふ」を刻んだこの文学碑に山梨桜桃忌参加者による献花が行われた。

【御坂隧道】
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 平成10年1月28日に国の登録文化財に指定された天下第一の扁額を掲げた「御坂隧道」の天下茶屋側の口である。
 大正9年施行の旧道路法により、東京から大月、吉田、御坂峠を経由し甲府までの経路が国道8号線として指定され、この経路の改修が昭和6年11月に竣工すると東京から甲府が8時間で結ばれることとなった。
 昭和27年の現在の道路法による国道の再編成により、東京から甲府のは現在の国道20号線の経路となったが、昭和40年2月に着工された新御坂トンネルが昭和42年3月29日に完成し同年4月7日に供用開始となるまでは、この御坂隧道を経由する御坂峠は東京と山梨、郡内と国中を結ぶ交通の要衝として重要な位置を占めておりその往来も盛んであったことから、この場所における天下茶屋の役割は大きなものがあったと考えられる。

【「御坂天下茶屋」バス停】
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 天下茶屋への公共交通機関である、天下茶屋前の富士急「御坂天下茶屋」バス停である。
 太宰治が天下茶屋に滞在した当時の国道8号線であった、吉田と甲府の間に昭和9年には御坂国道バスが開通し、所要時間は1時間50分(吉田と御坂峠が50分、御坂峠と甲府が1時間)で結んでいた。
 昭和18年には戦時下における統合体制から富士山麓電鉄(現在の富士急行)に御坂国道バスは統合されている。
 なお、御坂国道バス時代、御坂峠のバス停留所の名称は「天下富士」であったようである。


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by kaz794889 | 2009-06-21 20:18 | Comments(1)
2009年 06月 16日

中巨摩郡小笠原町

【小笠原町勢一班 昭和十一年版】
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 明治8年、小笠原村、桃園村、山寺村の合併により発足した明穂村の町制施行により、昭和11年7月1日に誕生した山梨県内14番目の町が小笠原町である。
 小笠原は、いわゆる峡西地方の交通の中心地として商業が発展し、昭和10年10月の国勢調査によれば、人口6,538人、戸数1,241戸を擁する中巨摩郡下における最初の町制施行地であった。
 この町勢一班は小笠原町の町制施行を記念して昭和11年10月20日に同町役場で発行したものである。


【町制祝賀式参列方の件通知】
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 小笠原小学校で挙行された町制祝賀式の案内である。
 町制施行にあたり、記念写真帳も小笠原町役場から同時期に発行されている。
 なお、小笠原町は昭和29年4月1日に榊村、野之瀬村と合併して櫛形町となった後、昭和35年に豊村を編入し、平成15年4月1日には八田村、白根町、芦安村、若草町、甲西町と合併し南アルプス市となっている。


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by kaz794889 | 2009-06-16 21:08 | Comments(0)
2009年 02月 16日

不老園・奥村別荘

━甲斐国酒折 不老桜園 奥村別荘━
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 甲府市酒折(3-4-3)にある不老園は、約3.3haの面積を有し、現在は梅の名所として広く知られている。

【甲府市八日町二丁目 呉服店 奥村合名会社】
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 不老園は、甲府市八日町40番地にあった麻屋こと奥村呉服店主で、明治10年4月に先代から家督を承継した奥村正右衛門(天保12年2月17日生)の別荘が始まりである。

━甲斐之国 酒折 不老桜園 奥村別荘━
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 西山梨郡里垣村の酒折宮裏の山腹に設けられた奥村家の別荘に多額の費用を投じて、梅、桜、牡丹等を植栽。また、邸内を拡張するなどして、小公園の観を呈してきたことから不老園と称して一般にも公開した。
 「年次繁殖、今や遊園的景勝地となり、初春、晩秋、観者訪客を得ている」文献に記されている、昭和初期頃の状況である。

━甲斐之国 酒折 不老桜園 奥村別荘━
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by kaz794889 | 2009-02-16 11:49 | Comments(0)
2009年 02月 07日

与謝野晶子と依水荘

 山梨県内における与謝野晶子と所縁の深い場所の一つに依水荘がある。

【甲州桂川峡第一望 ホテル依水荘】
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 昭和15年5月、文化学院の帰途脳出血で倒れ、右半身不随の病床生活を余儀なくされた与謝野晶子であったが、従来から旅行を唯一の楽しみとしていたこともあり、家族が近場の療養地を探し主治医とも相談の上、寝台自動車により昭和16年7月28日に東京荻窪の自
宅から依水荘に移り、荘主の好意により病臥の状態ではあったが、同年9月3日に帰宅す
るまでの約40日間、転地療養のため依水荘に滞在していたのである。

━甲州桂川河畔 ホテル依水荘案内━
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 依水荘は中央本線上野原駅から西南約2kmの、北都留郡巌村松留(現在の上野原市松留)の桂川を一望する崖上に所在していたホテルである。
 この昭和8年5月発行の案内チラシには、『中央線新宿駅から一時間半にして甲州上野原駅に着く、駅の西南七丁桂川の断崖の頂きに聳ゆる赤屋根の洋館こそ吾が依水荘である。甲斐の山々と桂川渓谷とは依水荘から座ながらにして鑑賞する事が出来る。』とある。

【依水荘】
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 依水荘の敷地入口の門である。

【依水荘ノ桜】
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 依水荘の建物裏側からの全景である。

【依水荘】
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 桂川の崖上に建つ依水荘正面である。
 河原に浮かぶ船は夏の鮎漁時の遊船であり、テントの場所は遊船乗り場である。

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by kaz794889 | 2009-02-07 22:26 | Comments(0)