2012年 05月 27日
【明治神宮進献木】 ![]() 明治44年3月11日の入会御料林御下賜御沙汰書による、本件所在御料地の御下賜以来、『山梨県恩賜県有財産沿革誌』(昭和11年6月発行)によれば、当時の山梨県内においては、「明治天皇の特別の恩食に出でたるものとして、・・・その聖旨に答へ奉らむことを期せざるはなし。」といった状況であったことが記されている。 そうした当時の状況の中、大正4年5月1日に官幣大社明治神宮が創建されることが内務省告示されたことから明治神宮の造営がなされることとなった。 山梨県は予ての徴哀を表するのはこの機であると、種々調査を続けた結果、恩賜県有財産内から相当の樹木を進献することとなった。 写真の大樹は、北都留郡笹子外一恩賜県有財産内から明治神宮造営御用材として進献されることとなった欅であり、欅の周りに写るのは、当時の山梨県知事である阪本三郎や県幹部等の面々である。 なお、写真の欅は明治神宮造営局技師であった大江新太郎の指揮を受け、大正5年7月に進献され、明治神宮は、大正9年11月1日に鎮座祭がなされている。 山梨県から明治神宮造営に際して進献された木材は、写真の欅の他にも、北巨摩郡篠尾村及び小淵沢村(いずれも現在の北杜市)の恩賜県有財産内から選抜した赤松500本を大正7年4月に献納している。 2012年 05月 26日
【昭和21年10月13日の甲府】 ![]() 昭和21年10月13日に開催された山梨女子高等学院の第二回文芸会を記念し、松林軒屋上から撮影された甲府市街である。 平成23年7月10日に峡陽文庫にアップした「昭和22年6月3日の甲府」の8か月前に同じ場所から撮影されたものである。 2012年 04月 29日
【甲府市制六十周年 市内小中学校音楽会プログラム】 ![]() 昭和24年は、甲府に市制施行された明治22年7月1日から60年の節目の年であった。 市制施行六十周年記念事業としては、隣接の西山梨郡住吉村畔地区及び中巨摩郡池田村の合併や甲府市立病院の建設や「甲府市制六十年誌」が刊行されている。 市内小中学校音楽会は、こうした市制六十周年記念の一環として開催されたものである。 【プログラムの内容】 ![]() 【昭和28年頃の甲府市街中心地】 ![]() 昭和28年頃に撮影された、視界を遮る物もなく周りの山々の稜線がはっきりと確認できる甲府市街中心部である。写真の構図などから、昭和27年に建設された鉄筋コンクリート六階建ての甲府地方裁判所から撮影されたものと考えられる。 音楽会プログラムに記載された開催場所は、甲府市警察署裏広庭となっていることから、写真の手前右側に写る甲府警察署庁舎(後方から写る三階建の建物)裏側の木造の建物が散在する辺りで開催されたのであろう。 2012年 03月 18日
【山梨麦酒沿革】 ![]() 我が国最初の国産ビールは、甲府柳町の十一屋、野口正章により醸造発売されたと云われている。 大正3年12月15日に甲府市役所あて十一屋から提出された『「山梨麦酒沿革書』によると、「山梨麦酒は明治7年1月の創業にして当時本邦に於いて麦酒を醸造するものあらず、民間麦酒醸造の濫觴とも称すべき時代なり」と記されている。 野口正章は、明治2、3年頃からビールの試醸に着手し、明治4年には京都に在留していた外国人に指導を求め、ビール醸造機器のの製作研究を続け、その後、藤村県令の奨励を受けて醸造機械と設備を備え、更に横濱から招いた英国人技師コプランの指導のもと醸造法などを研究習得するなど、数年間に渡って多大の私財を投入しビール醸造の完成に至っている。 【十一屋の跡】 ![]() 醸造されたビールは「甲斐ビール」「三つ鱗」の商標を付けて京浜地方に売り出し、明治8年には京都で開催された内国博覧会や明治10年に東京で開催された内国勧業博覧会において賞牌を受けるなど、製品は認められるものの、当時の社会環境的には、必ずしもその売れ行きが芳しいといった状況ではなく、ビール醸造に充てた負債は当時の金額で九万円余となり、十一屋の長男であった正章は稼業の一切を弟の富造に譲り、明治15年には東京に移住している。 【野口正章の墓】 ![]() 野口正章は嘉永2年3月7日に生まれ、大正11年10月7日に東京市麹町区内幸町の自宅で74歳で没している。 2012年 01月 01日
【岡島呉服店 年始挨拶】 ![]() 大正丙辰歳は大正5年、96年前の辰年である。 この年始挨拶は、現在の岡島百貨店が柳町の岡島呉服店時代の年始挨拶状である。今年は大正100年にあたる年、大正時代も身近の時代から、いよいよ歴史の時代に突入していく感を持つ平成24年の迎春である。 2011年 12月 23日
峡陽文庫をご覧いただきありがとうございます。 今回はタイトルにもありますとおり、下記の写真の場所が知りたくお尋ねするものです。 いずれも、戦前期(昭和10年~昭和17年頃、いずれにしても甲府空襲による戦災前)に撮影されたものであり、場所は甲府市内、中央本線の北側方面というのが共通事項です。 写真の場所を御存じであれば、峡陽文庫あて是非ご教示いただけますよう、お願いいたします。 【写真1】 ![]() 写真の右側にある民家の奥には寺院の屋根が写っています。また、左側には墓地らしき様子が見えます。 甲府空襲で旧市街の寺院はそのほとんどが焼失しているので、写真の寺院も建物は残っていないと思われます。 【写真2】 ![]() 甲府市内の路地を写したものです。 写真中央の鐘楼が特徴的です。前述のとおり、甲府空襲で焼失していると思われます。 2011年 12月 17日
【全景(甲府・三省楼)】 ![]() 三省楼は辻弥蔵が明治22年に甲府市桜町13番地(現在の甲府市中央1-18-3)で開業した割烹料理店である。 写真右側の建物が割烹料理店としての入り口であり、左側は食堂三省楼としての建物である。 【甲府市桜町 割烹店 三省楼表の全景】 ![]() 明治43年頃の三省楼である。昭和2年9月には裏春日町通りに三省楼別館「三春」を開業し、相生町には支店「はせ川」が営業していた。 【三省楼付近の地図】 ![]() 昭和10年代中期の様子である。 【現在の三省楼跡】 ![]() 既に廃業した、かつての三省楼の跡である。 2011年 12月 11日
【上野原行在所跡】 ![]() 甲州街道上野原宿本陣は、明治13年の明治天皇による山梨、三重、京都御巡幸において、御泊行在所と定められ、6月17日午後5時に御着輩、翌18日午前7時に御発輩されている。 【上野原行在所跡 中門】 ![]() 天保2年に上野原宿に大火があり全宿類焼の被害であったが、本陣の建物は地面よりも何段か高い上部にあったため焼失を免れたとも言われている。 旧本陣の当主であった加藤景明が御巡幸に際し行在所の出願を行い、御用掛による4月の検分の結果、5月7日に内定するとともに、14件の修繕箇所を指示されている。 中門は現在も唯一残る行在所当時の建造物である。 【上野原行在所跡 中門内】 ![]() 中門内側の現状であるが、行在所当時の建物は昭和22年4月3日に焼失し烏有に帰している。 【焼失前の上野原行在所】 ![]() 昭和15年当時の上野原行在所の建物である。 上野原行在所は昭和8年11月2日に「明治天皇上野原行在所」として国の史跡に指定され、同月10日には史跡指定記念式が挙行され、昭和9年1月30日には行在所の管理者として当時の上野原町が指定されている。 また、明治13年の御巡幸以来、地籍の売買により明治29年10月には加藤家から竹中氏に、明治30年5月からは藤田氏が所有している。 【上野原行在所外門跡】 ![]() 甲州街道(国道20号線)に面した上野原行在所の入り口である。 かつてこの場所には外門があり、その脇には「明治天皇上野原行在所」と揮毫された石碑が建てられていたが、外門は昭和29年3月31日に焼失している。 2011年 12月 04日
【関山遊郭栃木楼】 ![]() 関山遊郭は山梨県内に二か所設置されていた遊郭の一つである。 風紀上好ましくないとの意見などから、市街の中心地からは離れた場所に明治33年12月に建設されている。 当時の遊郭内の配置は、北側に大門である遊郭の入り口が置かれ、大門を入った左側には関山遊郭請願巡査派出所が置かれていた(明治43年5月1日から大正元年12月31日までの間)。 全盛期、遊郭内には七つの妓楼(中米楼、大黒楼、日吉楼、今寿楼、東京楼、清川楼、金生楼、)と床屋、診療所などが置かれていたが、大正期になると妓楼は中米楼、今寿楼、金生楼の3軒となり、昭和期には中米楼と金生楼の2軒となり、戦時中にはその2軒が軍の病院に転用されるなどしながら、昭和33年3月の防止法施行により関山遊郭は消滅している。 なお、栃木楼はその後、金生楼と名称が変更されている。 【大門の跡】 ![]() 写真の正面がかつての大門の位置である。 【現在の状況】 ![]() 2011年 11月 20日
【甲府鍛冶町 一二堂】 ![]() 一二堂は文化元年から明治元年頃までの間、加賀美山登を師匠とした甲府鍛冶町に開かれ、算法通書、量地図説、地方大成、天元指南などを教科用書とした和算を中心とした学習年限1年の私塾(和算塾)であり、そこで学ぶ生徒は男子10名、女子2名であったようである。 【改正甲府市明細全図(明治38年11月1日発行)の鍛冶町附近】 ![]() 一二堂のあった甲府鍛冶町は、武田城下の鍛冶小路の名を甲府築城に伴う新城下町造営時に移したものであり、町名のとおり鍛冶職人の町であり、城下の諸役免除の鍛冶屋敷32軒の内、27軒がこの町に置かれていた。 甲府法人会館(旧甲府商工会議所)から東側に向けた通りの両側が鍛冶町の中心であり、昭和初期までは数件の鉄工所が軒を連ねる街であった。 江戸前期から続いた鍛冶町という町の名は、昭和39年の住所表示変更によってその町名は消え、 現在は中央一丁目から同五丁目の一部となっている。 < 前のページ次のページ >
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