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2015年 09月 10日

進徳社

【進徳社主意書】
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【進徳社申合規則草案】進徳社_f0191673_10223326.jpg





























 進徳社は明治12年5月、西山梨郡甲府横近習町に開校した私塾である。
 「進徳社主意書」に記された進徳社主意によると、学齢超過あるいは貧困により勉学の機会を得ることができない青少年に、勉学の機会を与えることを目的とするものであり、進徳社規則第一条には「本社生徒ハ公立小学校ニ修業スルコト能ハザル者及ヒ小学々齢ヲ超タル者トス。但シ生徒ハ貧富ヲ論セス一切学費ヲ要セス」と定めている。

 また、学課を級内、級外の二科とし、その卒業年限は級内学課が2年半、級外学課は卒業期限を設けておらず、授業時間は午前9時から12時、午後1時から3時の1日5時間であった。

 進徳社の設立発起人は、加賀美嘉兵衛(東八代郡南八代村)、依田孝(西八代郡市川大門村)、新海幸五郎(中巨摩郡玉幡村)、大木喬命(西山梨郡甲府横近習町)、寺田喜平治(西山梨郡甲府和田平町)、小田切謙明(西山梨郡飯沼村)、尾澤孝治(西山梨郡千塚村)、渡辺信(西八代郡市川大門村)、三井幸一郎(中巨摩郡松島村)、林誾(西山梨郡甲府紅梅町)ら10名であり、その多くは自由民権運動の機関紙でもあった「峡中新報」の株主となっていた。




【峡中新報社 株主組合名簿】
進徳社_f0191673_10223834.jpg 多くが峡中新報の株主であり、当時の山梨県令であった藤村紫朗に対する反藤村勢力による進徳社の発起は「官の指導による公教育でなければ教育は発展しない」の信念を持った藤村紫朗に大きな衝撃を与えたという。

 このため、藤村紫朗は側近や自身を支持する若尾逸平、風間伊七といった有力な豪商らに、別の私塾である「三同社」の創設を計画させ、進徳社の合併を促したという。これにより、進徳社の発起人の一人である加賀美嘉兵衛ら、何名かが三同社に加わったという。






【株主組合名簿 内容の一部】
進徳社_f0191673_10224018.jpg 発足後の進徳社は、必ずしも良好とは言い難い状況が続いたといれ、明治14年11月に廃止している。

 (明治13年5月に作成された「峡中新報株主組合名簿」には、各郡単位に総勢234名の株主の氏名、住所が記されている。)














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by kaz794889 | 2015-09-10 11:24 | 学校 | Comments(0)


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