峡陽文庫

kaz794889.exblog.jp
ブログトップ | ログイン
2015年 02月 21日

明治期における種痘と種痘済証

【明治14年の種痘済証】
f0191673_14483689.jpg 山梨県内における種痘は幕末期、巨摩郡藤田村の広瀬家、八代郡市川大門村の村松家、巨摩郡古市場村の大久保家やこれらの医家を師と仰ぐ種痘医によって受け継がれ明治期に至っている。 

 明治4年2月に甲府県種痘所による種痘定則が定められるとともに、種痘局が甲府共立病院(山梨県病院の前身)に置かれ、3月には種痘局の出張所が山梨郡に3か所、八代郡に4か所、巨摩郡に8か所置かれ、各出張所には種痘局が種痘許状を与えた医師2人、甲府県庁が命じた世話役2人が配され、10月には都留郡にも8か所の出張所が置かれることとなった。

 明治6年10月7日には、種痘定日の設定、村の世話掛(戸長又は伍長)による村内への種痘に関する意向の徹底など、種痘規則等に基づく従来の種痘方法が大幅に改正され、明治7年には種痘規則が布達され、種痘医は管内種痘出張所の医師のほか、願い出による検査の上、一般医師にも免許状が下附されるようになるなど、その後も種痘に関する定めは種々改正されている。

 種痘済証の種痘医「依田正俊」は後に依田多仲と号する巨摩郡切石村の医師であり、安政3年に寺子屋である杏林堂を切石村に開き、明治5年当時、22名の生徒を擁していた。また、明治5年に医務取締役、同8年に種痘医を命ぜられ、明治17年3月に没している。











にほんブログ村 地域生活(都道府県)ブログ 山梨情報へ ブログをご覧いただきありがとうございます。峡陽文庫のブログ運営の励みとなります、ご覧の都度1日一回、左の『「山梨情報』をクリックいただけますようお願いいたします。

by kaz794889 | 2015-02-21 17:01 | Comments(0)


<< 旧山梨県庁舎と前庭      明治45年東宮行啓を歩く 4 ... >>