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2014年 12月 06日

大塚邑水路新造碑と中井清太夫生祠

【県営大塚排水機場内の石碑類】
大塚邑水路新造碑と中井清太夫生祠_f0191673_13201891.jpg 
 曽根丘陵の北の端の急な崖と、笛吹川の間に位置する甲府市上曾根から西八代郡市川三郷町上野にかけては、昔から水害の多い低湿地帯として知られており、特に市川三郷町大塚と同町上野の間を流れる押出川(オシダシガワ)が西北に流れているため、大塚沼から西流する水は押出川の土手により、流路を北に曲げて笛吹川に流れるため、流末の位置が高くなり、大雨のたびに悪水路の水は逆行して田畑が水没し収穫は皆無となるなどの憂き目をみてきたため、悪水路の改修は地元民の長い間の悲願となっていた。
 安永6年から天明7年まで甲府御役所の代官を務めた中井清太夫は、こうした大塚村の排水路の問題に深く関与し、その改修工事を企画、率先指導し、天明6年から天明7年春にかけて悪水路の改修を行っている。
 県営大塚排水機場(西八代郡市川三郷町大塚1061-8)敷地内に残る写真の石碑類(当該石碑類は排水機場近くの押出川右岸の堤防上から、排水機場敷地内に移されている)は、悪水路改修に関わる石碑類である。





【大塚邑水路新造碑】
大塚邑水路新造碑と中井清太夫生祠_f0191673_13202652.jpg 悪水路の改修により、耕地も広がり村も豊かになったことから、その恩恵を受けた地元民は、中井清太夫の功績と恩徳を称える石碑の建設について中井に許しを請うたが、代官として当然なすべきことをなしたに過ぎないとして承知しなかったという。
 中井の退官後、再び建碑を願い出たところ、(退官後であるため、)そのことの良し悪しは言わないと黙認したということから、写真の「大塚邑水路新造碑」が建立されることとなった。
 
 石碑は高さ147㎝、幅35㎝、奥行32㎝の角柱であり、悪水路改修工事から11年後の寛政9年5月に完成している。
 碑文の撰者は御普請役阿部太市藤原義行であり、中国最初の王朝「夏」の創始者で、黄河の治水に成功した「禹王」に続く者として、その治水工事を称え、永久に民の利益である旨の内容が刻まれている。
 




















【中井清太夫の生祠】
大塚邑水路新造碑と中井清太夫生祠_f0191673_13203332.jpg 中井清太夫の生祠は「お水神さん」と呼ばれており、側面には「天明六年丙午年十二月四日」と刻まれており、排水工事完成直後の建てられたものである。
 前記の新造碑には「庶民言いて以って神となす」とあることから、中井の許しを得ないまま、お水神さまと称しながら中井の生祠として祀られたものと思われる。
 なお、新造碑と生祠は「大塚邑水路新造碑及び代官中井清太夫生祠」として昭和62年3月31日に、当時の三珠町により町指定の史跡として指定され、合併後の現在は市川三郷町指定の史跡として引き継がれている。
 










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by kaz794889 | 2014-12-06 16:22 | Comments(0)


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