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2013年 12月 01日

山梨の官選知事 4「阪本三郎」

 阪本三郎は大正5年4月28日から同年10月13日までの5か月間、第20代山梨県知事を務めている。
 慶応3年10月16日に武蔵国南玉郡原町田(現在の東京都町田市)の脇本陣、武蔵屋旅館の当主である渋谷徳次郎の二男として生まれ、阪本の祖父である真下専之丞が起こした「融貫塾」や近在の「小島韶斎塾」「耕余塾」に学び、明治21年7月に東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科を卒業し、明治24年1月に司法官試補となり新潟区裁判所詰を命ぜられ、三条、相川、新発田区裁の判事となった後、明治25年2月に検事となり新潟、水戸、東京地方裁判所、東京控訴院判事を務めていたが、出身校である早稲田の初の派遣留学生として明治33年9月8日にドイツ留学に出発し、ハイデルベルク大学において民法等を研究し 明治37年4月に帰国した後、東京控訴院判事に復職し、その後は行政裁判所評定官兼法制局参事官を務め、大正3年4月に秋田県知事となった後に山梨県知事となっている。

 阪本は早稲田の学園に学び、大隈重信内閣時代の寵児として県知事に任官され、秋田、山梨の知事を務めることとなったが、大隈内閣の崩壊とともに山梨県知事を免官されたことから、その在職期間も5か月間と極めて短く、その在職期間に充分な手腕を発揮することもできず特質すべき業績は見当たらない。

 しかしながら、阪本は山梨県知事としての業績とは別に、山梨郡中萩原村重郎原(現在の甲州市)に寛政11年に生まれ、文政8年に江戸に出府し幕臣である小原氏の下僕となった後、天保元年に小原家を辞して代官手代となり石和代官所谷村主張所詰となった後、天保7年に徳川直参の真下家の家禄を買い武士の身分を得、蕃書調所調役勤番衆などを務め、慶応2年に5,000石の陸軍奉行並支配に昇進し明治8年10月17日に没している、真下専之丞を祖父に持つ戦前期における初の県人知事であったこと。
 また、樋口一葉の祖父である樋口八左衛門が、阪本の祖父である真下専之丞の同郷の友であったことから、樋口一葉の父親である樋口大吉が真下を頼りに江戸に出府し拠り所としていたことなどから、樋口家に出入りしていた阪本が樋口一葉の許嫁であった時期があったことなどが知られている。

  山梨県知事免官後の阪本は、大正6年に母校である早稲田の役職に就くなど、大隈重信の信任が厚かっ たといわれている。晩年は、昭和5年11月頃から病気を患い東京帝大青山外科に入院治療を行っていたが、翌6年5月30日に本人の希望により東京府豊多摩郡下戸塚の自宅に戻り、療養中の4月14日午後2時に自宅において没している。
 なお、真下専之丞には二男二女の子供と一人の養子がおり、長男が坂本家、二男(徳次郎)が渋谷家、養子が真下家を継いでおり、阪本の父親である渋谷徳次郎は、真下専之丞の側室であるクニ(町田の脇本陣武蔵屋の娘)との間の子供であり、真下専之丞の孫にあたる阪本三郎は明治25年に坂本家の養子(養子となった後に坂本から阪本に改姓している。)となっている。

【阪本三郎の墓所跡】
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  かつての阪本三郎の墓所は、写真の中央の位置に、院殿の戒名が刻まれた卒塔婆形式の墓石が建立されており、その管理は他家に嫁いだ阪本の長女が長く守ってきたというが、同人の死去により墓所の管理も困難となることから、6~7年程前に墓石を含めた墓所は撤去されている。




【菩提寺の無縁仏施設】
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  墓所が撤去された後、現在は当該墓所の菩提寺にある無縁仏に合葬されている。





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by kaz794889 | 2013-12-01 23:16 | 山梨の官選知事 | Comments(0)


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