2013年 09月 15日

若松町と花街

【組合所属芸妓置屋】
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【組合所属料理店】
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  明治25年12月の山梨県議会において置屋制度が決定し、新たに置屋税や芸妓税が課されることとなっ たことに伴い、甲府市内数か所から置屋設置の請願や有力者を通じての猛烈な誘致運動が展開され、その結果、甲府市内の桜町や春日町の芸妓が全て若松町に移ったのは明治27年1月である。
  若松町が選定された理由には、義太夫、舞踊、鳴物、常盤津、清元、歌沢、長唄の師匠が多く居を構えていたことにあったと言われている。
  大正期に至り、社会風潮の変化から従来の邦楽舞踊を主とする芸能の他に浪曲芸妓、ダンス芸妓などが出現して一定の人気を博していたが、その人気も長くは続かず利益のために相い競った新たな施策などから業者間の険悪な状況に至り、大正15年6月には保守・革新といった二派に分裂し、これまで一つであった芸妓検番から新たに吾妻検番(東青沼町414番地(現在:青沼1-7-12))が設置され11軒の芸者置屋が参加することとなった。
  以来、これまでの芸妓検番と吾妻検番に分かれた新旧検番による競い合いが続き、それは料理屋側にも飛び火し料理屋も二派に分裂し長く抗争が続くこととなった。
  当時の県内新聞社社長数名による調停により円満解決の方向に進めたものの最終解決には至らず、昭和12年に当時の甲府警察署長及び弁護士等による調停により、芸妓置屋と料理屋を合わせた甲府二業組合が設立され昭和19年3月の戦時非常措置令による高級料飲店の休業命令まで続いたが新旧検番の対立意識は後々まで尾を引いていたという。

  写真の史料は昭和15年5月現在の甲府二業組合に所属する芸妓置屋別の芸妓と料理屋の一覧である。




【昭和10年代の甲府市若松町】
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  昭和10年代の甲府市若松町の地図に芸妓置屋のあった場所を記したものである。
  【凡例】
  ① 赤色の囲みが芸妓置屋の位置。
  ② 水色の囲みが若松芸妓置屋組合の位置。
  ③ 緑色の囲みが若松町域の各種商店等の位置である。

  昭和19年以降、芸妓組合は解散することとなり、関係者は旧吾妻検番事務所を作業場として軍服等に用いる星章を刺繍する作業に従事したという。
  なお、昭和20年の甲府空襲により、若松町の540戸は全て焼失している。



【現在の若松町濁川沿い】
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by kaz794889 | 2013-09-15 18:58 | Comments(0)


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